AUG
御角
メチオニン
ああ——まただ。寒いなぁ。夏なのに、体が震えて仕方ない。
夜空の星をぼーっと眺めながら、ベランダの柵にゆっくりと体重を預ける。
「よっ、少年。相変わらずネグレクトされてるかい?」
声をかけられ首をもたげると、薄い布の服一枚で元気に手を振るお姉ちゃんと目が合った。
お姉ちゃんは、僕の隣の部屋に住んでいて、頭が良くて、いつも呪文を使って僕に話しかけてくる。
「ねえお姉ちゃん、ネグレクトってなぁに?」
「何って、虐待だよ、ギャクタイ。わかる?」
「ギャクタイってなぁに?」
「あー、わかんないか。……ま、いいや」
ボサボサの髪をかきあげて、お姉ちゃんは僕と同じようにベランダの柵へともたれかかった。風に乗って、ゴミ捨て場のような、何かが腐ったような臭いが鼻をくすぐる。
「なんか、臭いね」
「おいおい、そりゃレディに対してちょっと失礼なんじゃない?」
「そうじゃなくって。あのね、最近ずっと臭いなって」
「ベランダが?」
「うん」
「……そっか」
お姉ちゃんはかきあげた髪をまたぐちゃぐちゃに手で混ぜて、「てか、レディは知ってんのかよ」と鼻を鳴らした。
「突然だけどさぁ、開始コドンって、知ってる?」
出た、いつもの呪文。僕が何も知らないってことくらい、知ってるくせに。
「なぁに、それ」
「人の遺伝子がタンパク質に翻訳される時、最初にアミノ酸に変換される塩基配列ってこと」
「……よく、わかんない」
お姉ちゃんは多分、魔法使いなんだと思う。夜にひょっこり現れては、イデンシとかエンキとか、意味不明なことを目を輝かせながら僕に聞かせて、日が昇るころには消えている。
そうやって明るくなった頃には、大体お母さんが眠い目をこすりながら気まぐれに窓の鍵を明けて、「生きてたんだ」と言ってくれる。お姉ちゃんが言うには、それは「おはよう」の挨拶みたいなものらしい。だから僕も、「おはよう」って返す。いつも口が上手く動かなくて、舌打ちされてしまうけれど。
「不思議だよね、人って。大体のタンパク質がその開始コドンから始まって出来てんの。つまりさ、その開始コドンが翻訳されてメチオニンになるわけだから、体中もうメチオニンだらけなわけよ。そりゃ臭くもなるよね、硫黄入ってるし」
「そう、なんだ」
「……やめたほうがいいよ。わかんないのにさ、わかったふりして顔色伺うの」
「ごめんなさい」
「あー、そういうとこ! 逆ギレしてもいいんだよ? こっちは理不尽に怒ってんのにさ」
「ごめんなさい」
「……重症だね、こりゃ」
また風が吹いた。寒いけど、お姉ちゃんの声を聞いている間だけは少しだけマシになる気がする。出来損ないで、死んだ方が世界のためになる。そんな僕が、ほんの少しだけど賢くなって、一歩大人に近づけたような気がする。
だからお姉ちゃんはきっと、魔法使いの中でもいい魔法使いだ。
だから、僕はきっと、お姉ちゃんのことが、好きなんだ。
「——なんで大体同じタンパク質で出来てんのにさ、遺伝子一つでこんなにも出来が違うんだろうね。人間って」
お姉ちゃんは小さく呟いた。アパートの間を吹き抜ける風が強くて、僕にはよく聞こえなかったけれど、聞こえたところで僕に呪文はわからないから別に関係なかったのかもしれない。
「ねえ! もっと広い世界を知りたくない? こんな狭いベランダ越しの
突如思い立ったように、お姉ちゃんは柵に足をかけ身を乗り出した。
慌てる僕を見下ろして、全てを馬鹿にしたようにお姉ちゃんは笑う。
「大丈夫、やってごらん。ここは二階だし、下に生垣のクッションもある。助かるよ、必ず」
ゴミ捨て場の臭いが、一段と強くなる。風下に立つ僕の背を、お姉ちゃんの香りがふわりと撫で上げる。
「私にはもうないけれど、少年にはチャンスがある。まだ、間に合う」
震える手で柵を握り、鉄棒の前まわりのように腕に力を込めてみた。はるか遠い緑の地面に、意識がくらりと遠のきそうになる。
「君はまだ、ここから飛べる」
強風に背中を押され、頭の重みに従って体がするりと宙を舞った。同時に柵を蹴ったお姉ちゃんの手が、放り出された自分をギュッと抱きしめる。
温かい。けれど、不思議と臭くはなかった。
落ちる。むせかえるような夏の夜に包まれながら、腐った巣からゆっくりと、落ちていく。
「
暗闇の中でサイレンの音が聞こえた。お姉ちゃんが最後に呟いた魔法は、やっぱり僕にはよくわからなかった。
§
その後、僕は病室のベッドで目を覚ました。
——数十年も前の話になる。母は児童虐待の容疑で逮捕され、僕は施設に引き取られ、今ではしがない大学生でいられるくらいには幸せな人生を送っている。
「えー、つまり、DNAというのは相補的な塩基配列によって二重らせん構造を取っており……」
あの時、お姉ちゃんがどうなったのかを僕は知らない。誰に聞いても、飛び降りたのは僕一人で、その場には他の誰もいなかったとしか伝えられない。
「また、DNAから転写、翻訳を経てタンパク質が生成される、この一連の流れをセントラルドグマと言います」
ただ一つ、後から知ったのは、母が逮捕された時、隣の部屋の異臭に気がついた警察がそこで、死後数ヶ月経った女子大生の腐乱死体を見つけたことくらいで。でもきっと、関係ない。お姉ちゃんが本当にいたのかどうかなんて、今更考えても意味がない。
魔法使いだから消えてしまった。思い出を思い出のままにしておくには、そんな子供騙しで
「タンパク質への翻訳は、メッセンジャーRNAの開始コドン、アデニン、ウラシル、グアニン。この三つの塩基により始まり、これがアミノ酸であるメチオニンへと翻訳され……」
二時間目、講義の途中でふと、ノートを書く手が止まる。呪文の正体に触れた僕はまだ、お姉ちゃんの夢を見られるだろうか。
涙で滲んだアルファベットの羅列を眺めながら僕は、三時間目にフランス語の授業を選択したことを心の底から後悔していた。
AUG 御角 @3kad0
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