彼は……

@ramia294

 

 ゲートの中。

 落ち着かない仲間たち。


 しかし、


 彼は、静かにその時を待っていた。


 漆黒の巨体は、太陽の光を受け、

 輝く。

 それは、彼が、いかに大切にされている事を周囲に示した。


 彼は生まれつき筋肉が隆起していた

 彼の肉体には、高貴なアラブの血統が潜み、

 彼は地上を駆ける事を喜びとした。


 彼は人を愛し、

 人に愛された。


 彼は、人には、辿り着けない速度で駆け

 彼は、人には、長過ぎる距離を駆け

 彼は、人には、重過ぎる荷物を運ぶ事が、

 出来た。

 

 まつ毛の長いその目は、優しい光を湛え、

 理智的な表情が、彼の特徴だった。


 

 全身が漆黒の中、

 頬にほんの少し、細長く白い部分があった。

 

 風が吹くと

 疼くその場所は、

 彼に、どんな時にも

 注意深く

 冷静でいる事を強制した。


 彼は、

 北の大地で生まれた。

 母も父も立派な血統を持ち、

 その血統を引き継いだ。


 彼が生まれた牧場のあるじは優しく

 彼の誕生は

 主の家族全員に喜びを与えた。


 この世に生を受けた彼には、喜びしかなかった。

 母も父も既に引退をして、彼の手の届く場所にいつもいてくれた。


 主は、優しく良く気のつく人で、彼の健康を絶えず気にかけてくれた。


 主の息子は、ちょうど、いたずら盛りの年齢を迎える頃の少年。

 少年は、良き相棒だった。

 彼は、気が合う少年と、原野を走り回った。


 いや、


 あの懐かしい、大好きだった白い姿も絶えず一緒だった。

 大きく白い身体。

 優しく少年と彼を見守るその目。


 少年と彼は、優しくて、頼りがいのある白くて大きな身体の優しい瞳が大好きだった。

 

 時折、季節外れの、

 意地悪な冷たい風が、

 ふたりに吹き付けても。


 白くて温かい白い毛皮に、抱きつくと、春の陽だまりの中に、変わった。


 ある日、勢いに任せて、少年と彼は、近づいてはいけないと言われていた森に、迷い込んでしまった。


 白い巨体は、


「クーン、クーン」


 と、少年を引き止めた。


 彼と少年は、初めて踏み入る森の魅力に、進む足を止める事が出来なかった。


 突然!


 背丈の高い草が揺れる。

 不意に現れた、そのヒグマは、少年に向かって爪を振り下ろした。


 彼は、咄嗟に少年に体当たりた。

 少年を、ヒグマから守る事は出来たが、自身の頬を爪がかすめた。

 さらに、ヒグマは彼に向かって爪を振り上げる。


 その時、ヒグマに白い巨体が襲いかかった。

 不意に真正面から、大型犬に襲われたヒグマは、その大きな口と強力な顎に、首を捉えられた。


 普段は、怒る事のないその目が怒りに燃えている。 


 その姿に、彼と少年は怯えた。


 苦し紛れに、爪を振り回すヒグマ。

 大型犬の体重が喉を締め上げる


 あの美しい白い毛皮が、あっという間に、鮮血に染まっていく。


 ヒグマの大きな身体の酸素が不足して、その爪の威力は弱っていく。


 ついに、力尽きたヒグマがその場に倒れると、血で染まった、大型犬も倒れた。

 切り裂かれた身体には、もう力が入らず、

 泣きながら抱きつく少年の頬の涙を舐めとる力しか残っていない。


 それから、ほどなく。


 彼と少年の最も愛し、信頼する、大きな美しい白い巨体は、逝ってしまった。


 時は冷たく、泣き叫んでも、事実の巻き戻しを許さない。


 しかし、


 大きな悲しみが去った後にも、波の様に襲いかかる喪失感すら、時間は風化させる。


 時は優しく、彼らを未来に運んだ。


 少年と彼の心に大きな傷跡を残したその経験は、同時に別の物も彼らに与えた。


 少年は獣医を目指し、

 彼は……。


 彼が頬に受けた傷が癒えた跡は、白く変わった。

 風を受けるたび、疼くその場所は、彼に慎重さと勇気を与えてくれる。



 ゲートが、開く。

 走り出す彼は、僅か数歩で、仲間を置き去りにする。

 後に、黒い弾丸と呼ばれた、競走馬としての伝説が、


 スタートした。


         終わり



 




 


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