第3話 フォレ・ノワール
備えつけの家具と家電のみになった室内は、1年住んだはずなのに、知らない場所になっていた。
(……色々、あったなぁ)
大学を卒業して初めてのひとり暮らし。
毎日の仕事と、慣れない家事。
彼氏との別れ。
色々あっても、なんだかんだ毎日は続いていく。
異動の辞令が出たのは2週間前のことだった。
慌てて引き継ぎを終えたわたしは、明日、この町を出て行く。
異動先はここから新幹線で3時間くらい離れた場所だ。そこの店舗で店長を任される予定になっている。
この町へ来ることは、たぶんもうないだろう。
カーテンも段ボール箱にしまってしまったので、外から見えないように掃き出し窓にはシャッターを下ろす。
最後の夜に行く場所は決まっている。
鍵をしっかりかけて、わたしはショコラトリー・スリジェへと向かった。
駅前の桜の木はちょうど満開で、街灯に照らされて幻想的な雰囲気を醸し出している。
名前が同じだからという理由でわたしは桜が一番好きだ。
思いっきり咲き誇るところがすごくいいと思う。
見上げると、駅ビルも視界に入った。
隣接するビル内の雑貨店は今日までの職場。
今頃、アルバイトの大学生たちが清算作業をしている頃だろう。従業員証を返却してしまったので閉店したビルにはもう入れない。
そして、ショコラトリー・スリジェは、今夜もやわらかなオレンジ色の明かりをともしていた。
からんころん。
「いらっしゃいませ……あら。荷造りは無事に終わったの?」
わたしの顔を見て、店長さんが声をかけてきた。
「はい、順調に。業者さんが明日の朝一番で来てくれる予定です。イートイン、いいですか?」
「勿論。さくらさんのために、用意しておいたわよ」
店長さんからは、いつの間にか名前で呼んでもらえるようになっていた。
「やった!」
わたしはにかっと笑みをつくる。
異動の件は決まったその日に報告していた。そのときに、特別なケーキを用意してくれると言われていたのだ。
「飲み物はホットコーヒーでいいかしら」
「はい。お願いします」
端のテーブル席に腰かけて、店内を見渡した。
丸テーブルの真ん中に施されているデザインタイルをそっと指で撫でる。
まるでアンティークショップのような薄暗くて落ち着いた空間は、店長さんのこだわりがつまっている。焼き菓子を全部食べることができなかったのは残念だけど、しかたない。
オルゴール調のBGMはフランスの曲だという。まるで違う国に来たみたいで、いつでも心地いい場所だった。
「お待たせしました。フォレ・ノワール、カットよ」
やがて店長さんがサーブしてくれたのは、見たことのないチョコレートケーキだった。
表面はホイップクリームで覆われていて、ちょこんとダークチェリーが載っている。それから、くるくるのチョコレートは、桜の花びらみたいにたっぷりと。
断面はココアスポンジと生クリームが層になっている。見事なバランスだ。
「フランス語で『黒い森』。そんな、ドイツにある針葉樹林にちなんで名づけられた、さくらんぼのケーキよ」
「フランス語だけどドイツなんですね」
「この森は、ふたつの国の境にあるの」
へぇ、と相槌を打つ。
店長さんのうんちくはいつも面白くって勉強になる。
さくらんぼと、さくらんぼの蒸留酒であるキルシュを使うのがフォレ・ノワールの特徴らしい。
それから、スポンジ生地はプレーンではなくて、ココア。
くるくるのチョコレートは、チョコレートコポーというのだと店長さんが教えてくれた。
さくらんぼはダークチェリーのシロップ漬けだ。
暗くても分かる濃い色は、例えてはいけないかもしれないけれど、梅干しに近い。
口に含むと表面はちょっとかためで、中の食感もしっかりしている。そして、何より、甘い。
ケーキの断面をよく見ると、ホイップクリームとココアスポンジの間にもたっぷりとダークチェリーが挟まれていた。
ココアスポンジにはこれでもかと言わんばかりに、キルシュを使ったシロップが染み込んでいる。すっきりとしつつ、さくらんぼの主張が強い。
反対にホイップクリームはさっぱりしている。
「ホイップクリームって何て言うんでしたっけ。教えてもらったのに忘れちゃいました」
「クレーム・シャンティーよ」
スマホで調べれば済む話なんだけど、店長さんのフランス語の発音が好きなので、ついつい訊いてしまうのだ。
さて、本題に入ろう。
フォレ・ノワールをフォークで切り分けてまとめて口に運ぶ。
チョコレートコポー、ダークチェリー、ココアスポンジ、ホイップクリーム。
「~~ッ!」
美味しいと思うと、言葉より先に足をじたばたさせてしまうのはどうしてなんだろう?
全部食感が違うのに見事になじんでいる。
濃厚な見た目なのに、いくらでも食べられそうだ。むしろホールで食べたいくらい。
「美味しいです!!!」
……店の雰囲気と真逆の大声が出てしまった。恥ずかしい。
「す、すみません」
「いいえ。さくらさんのオーバーリアクションも今日で見納めと思うと残念よ」
「オーバーリアクション……」
そんな風に思われていたとは、恥ずかしい……。
ごまかすようにホットコーヒーに口をつける。コーヒーは苦手だけどこの店のブレンドコーヒーは呑める。イートインには欠かせないお供だ。
「ふふふ。あなたも接客業だから分かると思うけれど、世の中、いろんな人がいるからね。地域も変わればお客さまの纏う雰囲気も変わる。せいぜい、がんばりなさい」
どうやら店長さんなりの激励らしい。
うるっときてしまいそうで、またもやホットコーヒーを飲んで、ごまかす。
それから、フォレ・ノワールをさらに口へ運ぶ。
しっかりと味わってみると、シロップに隠れていたダークチェリーのほのかな酸味が感じられた。
チョコレートコポーが口のなかではらはらと融ける。
切り分けた場所で違った味わい。奥深い、フォレ・ノワール。
「ごちそうさまでした」
そして、……ついに完食してしまった。
せっかくなのでまだ食べていない焼き菓子を幾つかカゴに入れて、一緒にお会計をお願いする。
「今まで本当にありがとうございました。この店に出会えてよかったです」
「そう言ってもらえてうれしいわ。次の町でも、すてきなお店を見つけられるといいわね」
すみれ色の紙袋に焼き菓子を入れてもらって、店の外に出る。
真夜中の町は暗いだけじゃなくて、静かで、世界に自分しかいないようなふしぎな感覚に陥る。
そんなことを教えてくれたのも、このお店だった。
ショコラトリー・スリジェ。
店名の由来は知らないし、店長さんの名前も結局訊かなかった。
でも、お気に入りのお店だ。
「……お世話になりました」
ついに、この町での生活が終わってしまった気がした。
寂しくないと言えば、嘘になる。
だけど。
(これから行く先々で、お気に入りのお店に出会えたらいいな)
今晩はとりあえず、何もない部屋で、静かに眠ろう。
明日からまた新しい毎日がはじまるのだから。
こうやって何回ものはじまりを積み重ねて、人は生きていくのかもしれない。……なんてね。
真夜中のショコラトリー shinobu | 偲 凪生 @heartrium
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