第2話 ショコラショー

『ごめん。好きな子ができた』


(できた、から、何なの!?)


 もしもスマホが柔らかかったら、握り潰していたかもしれない。

 ふつふつと湧いてくる怒り。道理で最近、返信が遅かったり未読のままだったりした訳だ。

 予兆はあちらこちらにあった。見ないふりをしていただけだ。……改善の努力を怠ったのは、わたしだ。

 やがて、段々と、自分の行動に対しても落胆の念が出てくる。


 わたし、上遠野さくらは、実家から離れた県でひとり暮らしを始めて半年が経とうとしていた。

 学生時代から付き合っていた彼氏とは当然のように疎遠になっていたものの、彼はいつも『夢を応援するよ』と言ってくれていた。会う頻度は月に一度か二度だったけれど学生の頃だってそんなものだったから、違和感はなかった。


 嗚呼。その結果がこれである。

 仕事が終わって事務所で一息ついて、さて帰ろうとスマホを見たら、これである!

 しかも、電話をかけても繋がらない。

 一方的な破局通知。3年も付き合った結末にしてはあっけないものだった。


(……スリジェに行こう)


 レジの違算金の原因究明に時間がかかってしまったおかげで、時刻は現在21時半。SNSをチェックしたらショコラトリー・スリジェは営業しているようだ。

 まっすぐ家に帰りたくないときの逃げ場として、駅裏のチョコレート専門店は最適だった。




 ***




 からんころんという優しげなベルの音がやさぐれたわたしを出迎えてくれる。

 一気にチョコレートのうっとりするような香りに包まれて、ようやく、少しだけ息ができるような気がした。

 今のわたしには雑踏の音も光も眩しすぎた。この店の雰囲気は、それだけで癒しに感じられる。


「あら、いらっしゃい」


 店員さんだと思っていた美人さん(性別不明)は、この店の主である。

 というかショコラトリー・スリジェにはこの人しかスタッフがいないらしい。何故ならば、半年通って、このひと以外のスタッフを見たことがないからだ。

 不定休だし、隠れ家的なお店だからワンオペでも問題ないのだろうか。従業員を雇う分の人件費を浮かせられるのはちょっと羨ましい。店舗運営にあたって、人件費は費用のなかで大きな割合を占めるのだ。


「どうしたの? 目が死んでるわよ」


 店長さんがガラスケースの奥で眉をひそめた。


「……フラれました」


 言葉にしたら認めてしまうことになるから嫌だった。

 でも、事実は事実。わたしは今日、フラれたのだ。


「あら。それは災難だったわね。何か食べてく?」


 ちょうど席が空いていたので、勧められるままにアンティーク調の椅子に腰かける。

 実はなかなか勇気が出なくて、イートインは初めて利用する。


「あまりお腹は空いていないんですが、そうですね……」


 メニュー表は1枚の金属板に、羊皮紙みたいな紙が挟まれている。流麗なフランス語はまったく読めないけれど、添えられたイラストからなんとなく想像ができた。


「シナモンは平気? ショコラショーなんてどうかしら?」

「ショコラショー?」

「英語だと、ホットチョコレートね」

「シナモン、好きです。じゃあショコラショーで」


 やがて、いつものチョコレートをさらに濃くしたような香りが奥から漂ってきた。わずかにシナモンも感じられる。

 両手を膝の上に置いて、若干、緊張しながら待った。


「お待たせしました」


 初めて店長さんがお店の中央へ出てくるのを見た。エプロンの下は白シャツにデニム、汚れていない白のスニーカーだ。


「ショコラショーよ」


 サーブされたのは、モスグリーンの陶器のカップになみなみと注がれた液体状のチョコレート。

 ふわりと鼻腔をくすぐるシナモンがなんだか心地いい。


「いただきます」


 両手でカップを持つと、指先がじんわりと熱を持った。

 鼻に当たる湯気は甘いだけじゃない。

 口をつけて、まずは少しだけ。

 とろりと濃厚な液体はココアとは別物。凝縮されたチョコレートが、ゆっくりと喉を通り、全身へと行き渡っていくようだ。


「……美味しい」


 余韻はチョコレートと、ほんの少しのシナモン。

 これを飲み続けていたら、血液がチョコレートに置き換わってしまいそうだ。


「美味しい」


 ぽろ、と零れたのは涙だった。


「すみません」

「いいんじゃない? 孤独ってのは、人生において独り占めできる数少ない宝物よ。ごゆっくり」


 ふわりと微笑み、店長さんは定位置へと戻って行った。

 からんころんとベルが鳴り、新たなお客さんが入ってくる。常連さんのようで、ボンボンショコラの詰め合わせを購入するとすぐに店を出て行った。

 入れ違いで別のお客さんが入ってくる。今度はカップルだ。手を繋いでぴったり寄り添っている。こんな時間だからデート帰り、しかも、お酒も飲んでいるのだろうか。


(……いいなぁ)


 この羨ましい気持ちは、何に対して何だろう?

 彼氏とは最初から最後までさっぱりとした付き合いだったし、それでよかった。あんな風にべたべたしたいと思ったことはない。

 ついつい感傷的になってしまうことを、今日だけは許してほしい。


(孤独は、宝物?)


 さっき店長さんからかけられた言葉を思い出す。

 まるでなぞなぞみたいだ。でも、悪くない。


 目を閉じると、オルゴールの音が聴こえてきた。

 店内のBGMにゆっくりと耳を傾けるのも、初めてだ。




 どれくらいそうしていただろう。ふと、店長さんと視線が合った。


「アナタ、終電の時間は?」


 どれだけの時間ぼーっとしていたのだろう。

 店長さんが近づいてきて、ようやく気づいた。


「あっ、家は徒歩圏内なので大丈夫です。ごちそうさまでした。すっごく美味しかったです。これって、家にあるココアでもできますか?」

「ココアでは代用できないわね。家でも飲みたいなら、これを買うといいわ」

「……専用のチョコレート、ってことですか?」


 分厚いチョコレートを示されて、わたしは首を傾げた。


「どちらかというと、逆、かしら。チョコレートを使って作るのがショコラショー。ココアパウダーを使うのが、ココア」


 ココアパウダーって、チョコレートを粉末にしただけじゃないんだろうか?

 そんなわたしの疑問は顔に出ていたらしい。


「チョコレートがカカオ豆からできているのは知ってるわよね」

「はい。なんとなく」


 店長さんの説明によると。

 なんと、チョコレートは発酵食品らしい。

 カカオパルプという果実を発酵させて、取り出したものがカカオ豆。 

 カカオ豆は、ロースト後に粗く砕いて、カカオニブという胚乳部分を取り出す。カカオニブはすり潰してペースト状にする。これが、カカオマス。

 そんなカカオマスへ砂糖、カカオバター、ミルクなどを混ぜ合わせるとチョコレートができるのだという。

 因みに、カカオバターというのは、カカオ豆に含まれている脂肪分。


「一度別々にしたのをまた戻すなんて、手間がかかってるんですね」

「そんな感想、初めて聞いたわ」


 さらに店長さんは説明してくれた。

 カカオニブからカカオバターを取り除いて、パウダーにしたものがココアパウダーらしい。

 つまり、ココアとホットチョコレートは、別物なのだ。


 ということでショコラショー用のチョコレートも合わせて電子マネーで決済して、ショコラトリー・スリジェの外に出た。


 日付が変わったばかりのスマホの待ち受け画面。

 ロックを解除して、元彼の連絡先は、消去。今までありがとう。もう二度と会わないだろうけれど、どうかわたしの知らないところでお幸せに。


 念のための防犯ブザーがジャケットのポケットに入っているのを手の感触で確かめて、わたしは帰途につく。

 秋風が心地いい。

 今日は、わたしにとって何回目かの、はじまりの日だ。

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