真夜中のショコラトリー

shinobu | 偲 凪生

第1話 ボンボンショコラ

「ただいま!」


 玄関で、誰もいない真っ暗な部屋に声をかけてから電気をつける。

 靴を脱ぎ、洗面台で手を洗って、うがいは忘れずに。それから、リビングのローテーブルに置いておいたシンプルなすみれ色の小箱の前に正座する。


 神聖な儀式のごとく、深呼吸を1回。

 両手で、慎重に、小箱を開けた。


「へへへ……」


 思わず顔が綻んでしまう。

 小箱の中には、ボンボンショコラがふたつ。ひとつは定番の四角い形でつやつやっとしている。もうひとつは朱い半球型で、まるでカボションのルビーのようだ。


 最近知ったのだけど、ボンボンショコラというのは、ガナッシュをチョコレートでコーティングしたものをいうらしい。

 じゃあガナッシュって? ガナッシュとは、チョコレートと生クリームを混ぜたものなのだという。


 両手で手を合わせて、瞳を閉じる。


「いただきます」


 四角い方をつまんで、ためらわず、一気に口へ入れた。


「……ッ!」


 コーティングチョコレートの滑らかな舌触りは、まるで絹のよう。その後に続くガナッシュは、隠れていたのに見つかってしまってはしかないと言わんばかりに濃厚。ふわぁっと香りながらもわずかな酸味がある。

 フローラル、と形容するらしいけれど、その辺りはまだ初心者には難しい。


「はぁ……幸せ……」


 なぜだか泣きそうだ。

 仕事で澱んでしまった心が浄化されていっているに違いない。きっとそうだ。


 駅前にあるショコラトリーのボンボンショコラは、1粒500円くらいするから頻繁には買えない。わたしにとって、最上級のご褒美だ。


 出会いは偶然だった。

 そう、あれは2ヶ月ほど前に遡る――




 ***




 4月。

 桜の満開時期からは少し過ぎてしまったけれど、わたしは、新生活に心を躍らせていた。


 上遠野さくら、この春から社会人1年生。

 実家から離れた遠い県にて、人生初のひとり暮らしをスタートさせるのだ!


 就職先は全国にチェーン展開している雑貨店。ゆくゆくはバイヤーになるのが目標だけど、まず新入社員は全員が店舗配属となる。これは、現場を知るのが大事という社の方針である。


 付き合って3年目の彼氏とは遠距離恋愛になってしまったけれど仕方ない。これも夢を叶えるためなのだ。


 そんなこんなで2週間の本社研修を終えて、いよいよ、わたしは会社借り上げのアパートの前に立っていた。

 築浅、オートロック、2階の角部屋。メインの家具は備えつけ。

 緊張しながら鍵を差し込む。


「わぁ……!」


 小さな1LDKだけど、今日からここがわたしの城。

 我が実家はあまり裕福ではなく、築50年の2DKで、父母兄との4人暮らしだった。脱衣所はなくてトイレと風呂場の間に突っ張り棒と薄っぺらいカーテンのみ。プライバシーなんて概念はなくて、一刻も早く実家から出たかったのだ。


「ふふふ……」


 嬉しさのあまりにやけてしまう。

 これからは気になるアロマを焚いたり、好きな時間にお風呂に入ったり、何より彼氏とのんびり過ごせる。SNSでおしゃれな毎日を載せて、インフルエンサーになっちゃうかもしれない。そしたら、企業とコラボして、雑貨ブランドを立ち上げることだってできるかも……!?




 ――なんてテンションが上がったのも、わずか数日だけだった。




「……疲れた……」


 朝8時から夜20時まで立ちっぱなし。

 接客業を甘く見ていた。アルバイトと社員じゃ、全然違った。休憩は取れるといっても、ゆっくり休むなんてできない。

 当然のように自炊なんてできる訳もなく、おしゃれなお弁当をSNSに載せるなんて夢のまた夢。朝昼晩、お世話になるのはコンビニエンスストア。

 

 駅ビルの通用口から出たところでスマホを見ると、21時を過ぎていた。


(……いや、でも、明日まで頑張れば休みだし……)


 呟いて思い出すのは洗濯もままならず乱れっぱなしの室内。

 しかも、こういうときは、ろくなことが起きないって決まっている。


(……つけられてる……?)


 通りに出たところで、急にねっとりとした視線を感じた。

 街灯はあるものの、人けが多いとは言えない。急に悪寒が走る。


(落ち着け、わたし。もし本当につけられてるとしたら、このまま家に帰る方が危険だ)


 スマホを取り出して、彼氏に電話をかける。

 しかしどれだけ待っても繋がらなかった。飲み会だろうか。営業職だからなのか、こんな時代だというのにやたらと会社の飲み会が多いのだ。


(どうしよう……)


 唇を噛む。

 結局すぐ自宅に帰るのは諦めて、わたしは駅の裏側へ向かって歩き出した。

 歩いている人を見かけるたびに悲しくなってくる。何せわたしは、家に帰っても部屋は真っ暗。誰もいないのだ……。


 胸の奥にもやもやがつかえている。

 途方に暮れるとは、まさにこのことか。

 そう思ったとき、街灯とは違う灯りの色に気づいた。


 きらびやかな駅から逸れた路地に、オレンジ色のやわらかな光。


(……お店?)


 わたしは吸い込まれるように路地へと入って行った。


 まるでおしゃれな雑貨店。

 アンティーク調のドア上方、ガラスの奥には、ガラスのショーケースが見えた。


(チョコレート屋さん?)


 からん、ころん。

 好奇心から扉を押し開くと、店内にはチョコレートの甘ったるい香りが広がっていた。


「こんばんは」


 店員さんがちらりと視線を向けてきた。

 金髪に染めているし、カラコンを入れてるっぽいけれど、輪郭は日本人だ。背が高く、すごく美人で、チョコレート色のエプロンが似合っている。

 しかし、男か女か、分からない。


 店内は薄暗く、淡いオレンジ色のランプが照らしているのみ。

 アンティークショップのような佇まいは外観通りだ。店内の奥にはガラスケースがあるが、両脇の棚には、雑貨のように焼き菓子が並べられている。


「……ここって、チョコレート屋さんなんですか」

「ショコラトリーって言ってちょうだい」

「すみません」


(男、っぽいな)


 低めの声とわざとらしい女性言葉に、勝手に判断する。それ以上詮索するのは野暮だから気にしないでおこう。


「あらためて、ショコラトリー・スリジェへようこそ」


 店員さんがふわぁっと微笑むと、背景に花が咲いたようだった。

 わたしは恐る恐るショーケースに近づき、覗き込む。

 ガラスのショーケース内には色とりどりのボンボンショコラがぎっしりと並んでいた。


「すごい……宝石みたい」

「嬉しいこと言ってくれるじゃないの。ひとつからお買い求めいただけるわよ」

「どれがおすすめですか?」

「食べ慣れた味なら、ガーナ産かしら。フローラルさを求めるのならエクアドル産。ベネズエラ産なんかも最近は人気よ? カカオの力強さを感じられるわ」


 産地? カカオの?

 抹茶とか苺とかナッツとか、そういう勧め方をされると思っていたので、正直びっくりした。


「産地で味が違うんですか」

「全然違うわよ。食べてみる?」


 そう言うと店員さんはボンボンショコラを半分に割って、差し出してくれた。

 晩ご飯どころか昼ご飯もまともに食べていなかったので遠慮なく受け取り、口に含む。


「……っ!」


 口に広がるまろやかで癖のない風味。

 シンプルに、美味しい。

 ひとかけらなのに満足感がある。すごい、こんなチョコレート、食べたことない……!


「これがガーナ産。で、こっちが」


 もうひとかけら。

 今度は、チョコレートのようでそうじゃない香りが、ふわぁっと鼻を抜けていく。


「エクアドル産ね」

「ぜ、全然、違いますね……っ? ガーナ産とエクアドル産、ひとつずつください」

「かしこまりました」


 店内には、小さなテーブルと椅子が2脚あった。

 イートインもできるのだろうか。


「ありがとうございます。また来たいんですけど、ここの営業時間って」

「うちは20時から終電くらいまでやってるわ。営業日は気まぐれだから、SNSをチェックしてちょうだい」

「分かりました」


 レジの横にあるQRコードを読み込み、SNSをフォローする。


「またお待ちしてるわ、お嬢さん」


 店員さんが優雅に手を振ってくれた。


 店を出る。

 すみれ色の紙袋の中には、同じ色の小箱。

 沈んでいた気持ちはどこかへ吹き飛んでしまったみたいだ。

 少しだけ軽くなった足取りで、わたしは歩き出す。


(帰ったら、美味しいチョコが待っている……!)


 これが、わたしとショコラトリー・スリジェの出会い。

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