牡丹は愛を灯していた

石河 翠

第1話

 駅前の老舗百貨店で夫の姿を見かけたのは、偶然だった。好みのうるさい義母に送るためのお中元を探しにきていたのだ。今日は残業で遅くなると言っていたのではなかっただろうか。疑問に思いながらも声をかけようとして、私は息を呑む。


 夫の隣には、見知らぬ女。はじけるような若さとみずみずしい肌が羨ましい。爪の先まで念入りに手入れされた美しい手。耳たぶで揺れる大ぶりのピアス。唇の上で艶めくリップグロス。私が10年ほど前に手放したものを持つ彼女が、甘えるように夫にまとわりついていた。


 彼らは当たり前のように腕を組み、1階にあるブライダルジュエリーコーナーへと進んでいく。そして笑顔でペアリングの試着を始めたのだ。そこはかつて私が希望し、予算オーバーだと伝えられたとあるブランドでもあった。


 その幸せそうな光景を見せつけられて、私はたまらず踵を返した。本当なら、彼らを問い詰めるべきなのだろう。あるいは、証拠となる写真の一枚でも撮るべきだっただろう。けれど自分の姿が惨め過ぎて、私は今すぐ消えてしまいたかった。ずきずきと頭が痛む。


 いつ美容院に行ったかも覚えていない、伸ばしっぱなしの黒髪。子どもにひっぱられては危ないからとしまいこんでいたら、すっかり塞がってしまったピアスの穴。ネイルもやめ、短く切りそろえてしまった爪。服装だって、清潔ではあるけれど今の流行とは無縁の、歩きやすさ重視の代物だ。


 視線に気がついたのか、あるいは偶然か。夫が私のいる方向へ顔を向けた。彼らに見つかりたくなくて、隠れ場所を探して慌てて辺りを見回す。むしろ隠れるべきは向こうの方なのに。


 目についたのは、鮮やかに彩られたとあるブランドの化粧品売り場だった。気後れするほどの華やかな香り。子どもを産んでからは久しく訪れていない場所だ。サマーコフレやクリスマスコフレを毎年予約していた独身時代が懐かしい。


 ああ、今年のオススメはこの色なのか。誘蛾灯に吸い寄せられた虫のように自然と足が動く。私は食い入るように限定品のアイシャドウを見つめていた。



 ********



「いらっしゃいませ。何をお探しでしょうか」

「……す、すみません」


 声をかけられて、反射的に謝罪した。夫と結婚してからは、まず何事にも謝る癖がついてしまったような気がする。


 美容部員さんは、とても綺麗なひとだった。涼やかな目元が色気を含んでいて、女である私さえどきりとする。


 まあ、この化粧品を使ったらこんな風に綺麗になれると思わせるお仕事なのだから、容姿の良い女性が採用されるのは当然だろう。売り場に置かれた鏡に映る自分を見て、ため息が出そうになるのをこらえた。


 私の格好から、百貨店の化粧品デパコスを買えるようなたぐいの人間ではないことは丸わかりのはず。冷やかし客に売り場をうろうろされたくなかったのかもしれない。私は、頭を下げてその場から離れようとした。


「お客さま、どうぞこちらへ」


 まさか、万引きと間違えられたのか。血の気が引く思いで美容部員さんを見つめれば、優しく微笑まれた。


「せっかくですから、カウンターにおかけになってください」

「いえ、本当に、私は……」

「新色のアイシャドウ、綺麗な色でしょう」

「……そう、ですね……。ただ、お金もクレジットカードもありませんし、商品を買うこともできませんので……」


 もごもごと言い訳を並べ立てる。夫の浮気を知っても、悔し紛れに化粧品を買い漁ってやるお金すらない。財布の中には夫に何度も頭を下げてようやく認めてもらった、義母へのお中元代が入っているだけ。


「大丈夫ですよ。タッチアップをして様子を見るだけでもぜひ」

「……他の、本当に買いたいお客さんの迷惑になってしまいます」

「ちょうど夕立が降ってきたところで、これから新しいお客さまがいらっしゃることもなさそうですので。お時間はございますか?」


 確かにデパートのショーウィンドウの向こう側は急激に暗くなり、雷鳴も聞こえていた。ああ、このせいで頭痛がしていたのか。


 子どもたちを塾に迎えに行くまで、まだ時間はある。少しくらい、自分のために時間を使ってもいいはずだ。夫に見つからないように……という気持ちはいつの間にか消えてしまっていて、人懐っこい彼女の微笑みにつられて私はこくりとうなずいていた。



 ********



「普段はどのようなお色味をお使いでしょうか?」


 少し考えて、けれどなんと言うべきかわからず、私は首を傾げた。


 夫に望まれて仕事を辞めてからは、私が自由に使うことのできるお金は一銭もなかった。結婚前に貯めておいた貯金は、勝手にマイホームの頭金にされていたくらいだ。


 必然的に、残った生活費で買うことのできる最低限のものが私を彩っていた。プチプラにも関わらず、もう何年も前から同じものを使い続けている。


 それは、「普段使っているもの」であっても、「私が好きなもの」ではなかったはずなのに。


「最近はベージュ系ばかりなのですが、せっかくですから夏らしいメイクにしたいです」


 夫は青系の、人体にない色をひどく嫌う。特にそんな色をネイルに選べば、ネイルを落とすまでしつこく嫌みを言われていた。


「今年の夏は、こちらのブルー系やオレンジ、ピンクがオススメですね」

「それじゃあ、せっかくなのでブルー系で」


 私が指差せば、彼女はかしこまりましたと淡く微笑んだ。


 「何が好きか」ということを久しぶりに考えたような気がする。ああ、そうだ。私にも確かに好きなものはあったのだ。


 美容部員さんの質問に答えるたびに、諦めていたものを思い出す。大切にしていた気持ちを。わくわくした想いを。バラバラになったパズルのピースが合わさるように、私が形作られていく。


「完成です。いかがですか」


 鏡の中の自分は自分で言うのもなんだが、不幸せそうな中年女から、意思の強そうな妙齢の美人に変わっていた。


 不思議なものだ。これだけで、なんとかなりそうな気がする。力がわいてくる。


「化粧をしてみると元気が出るんです。強くなれるんですよ」

「そうですね、化粧は女性にとって鎧のようなものなのかもしれませんね」


 女性の言葉にうなずきながら、頬をなぞる。鏡の中の私は、自信を持てといわんばかりに口角をあげた。


「そうそう、こちら、初めてご利用いただいた方に差し上げているアロマキャンドルです。よろしければ、ひとつお持ちください」

「可愛いですね。この花はなんですか? 蓮の花?」

牡丹ぼたんなんです。珍しいでしょう?」


 花をかたどったアロマキャンドルと言われて私が想像するのは、薔薇の花くらい。けれど彼女が私に手渡してくれたものは、なんとも和風なものだった。最近は、和雑貨が流行しているのだろうか。


「ありがとうございます」

「リラックス効果がありますので、くたくたに疲れてしまったときに使うと効果がありますよ。火の元にだけは十分お気をつけくださいね」


 外を見れば夕立はすっかりあがり、晴れ間がのぞいていた。私はお世話になった彼女の方を向く。


「今日は本当にありがとうございました。次回はぜひ、こちらでお買い物させてください」

「またのお越しをお待ちしております。よろしければ次回はぜひご指名くださいね」


 「乙骨おっこつ」と名乗った女性に頭を下げながら、私は百貨店を後にした。



 ********



 百貨店のコスメカウンターで化粧をしてもらってから、私は少しずつ変わるための努力を始めていた。


 昔のつてを頼り、かつて働いていた業界に復帰できないか打診を続け、何とか採用までこぎ着けた。久しぶりに袖を通したスーツに心が浮き足立つ。


 夫と離婚するための弁護士も見つけた。夫の有責を裏付ける証拠は笑ってしまうほどたやすく集められたため、結婚生活を終わらせることは簡単だと、私も弁護士の先生も楽観視していた。


 もちろん、残念ながら世の中はそう甘くはない。


 夫との離婚調停は、遅々として進まなかった。あれだけ好き放題しておきながら、別れたくないのだという。しかも、浮気相手への慰謝料も請求するなと言われてしまったから頭が痛い。お金の問題ではない。けれど傷ついた心を納得させるには、お金しかないのだとなぜわからないのか。


 夫が話す内容は二転三転する。姑は夫の都合の良いように話を聞いたらしい。姑とともに駄々をこねる夫は、もはや私が愛して結婚した男ではなかった。これでは、慰謝料どころか養育費を得ることさえ難しいだろう。


 実家の母には頼れない。母は、そういう男を選んだのはお前だと、大変なことをわかっていて子どもを産んだのはお前だと鬼の首を取ったかのように言い立てるに違いない。結婚前に夫にDVのがあるか、姑がまともかどうかなど、予知する方が難しいのに。


 そのうち、夫は調停にさえ来ることもなくなった。調停が不成立に終われば、次は裁判になるだけなのに。どうやら夫は、愛人の家に転がりこんでいるらしい。本当にどうしようもない男だ。


 裁判になればおそらく勝てるとは思う。けれど、あとどれくらい時間を無駄にしなければならないのか。考え始めると疲れてしまって、食事をする気持ちにもならない。どうして、こんなところでつまづかなくてはならないのだろう。


 ――リラックス効果がありますので、くたくたに疲れてしまったときに使うと効果がありますよ。火の元にだけは十分お気をつけくださいね――


 ふと、美容部員さんに頂いたキャンドルのことを思い出した。


 まるっこい形をした赤いアロマキャンドル。そういえば、ここまで色鮮やかなものは珍しいかもしれない。私が見たことのあるものは、どれも柔らかな色合いをしていた。


 子どもたちが寝静まった真夜中に、牡丹に火を灯してみた。ゆらりと大きく影が揺れ、めまいがする。甘い香り……これが牡丹の香りなのだろうか。


 たたらを踏み、ゆっくりと息を吐きつつ正面を見上げてみれば、そこは辺り一面、見渡す限りの真っ暗闇だった。



 ********



 先ほどまで確かに私は、自宅のリビングにいたはずだ。こんな場所を、私は知らない。ぞわりと鳥肌が立つ。


 まさかとは思うが、匂いに酔って、気がつかないうちに家の外に出てしまったのか。けれど、現代日本はいくら真夜中でも明かりがある。街灯、電灯、コンビニ、行き交う車のヘッドライト。


 少なくとも私が住んでいた場所は、月明かり、星明かりだけが頼りの世界などではないはずなのに。そしてここからは、その星や月さえ見当たらないのだ。


 どうして。そう思った瞬間に、ぼうっと明かりが灯った。いつの間にか私は、携帯ではなく灯籠とうろうを手にしている。とても上品で、驚くほど手の込んだ花を模したもの。それは、先ほど火を灯したアロマキャンドルにそっくりだった。


「牡丹の花……?」


 とりあえず前に進んでみる。歩きにくいなと思って足元を見れば、からんころんと音を響かせる下駄と見慣れぬ美しい着物が目に入った。白地に牡丹と芍薬の花が散らしてある。踏みしめる土の硬さも、正絹しょうけんの手触りも、夢にしては異常なまでにリアルだ。


「これではまるで牡丹灯籠ね……」


 頭をよぎるのは有名な怪談だ。


 ふとしたことから知り合った浪人の新三郎しんざぶろうと旗本の娘おつゆ。一瞬で恋に落ちたふたりは深い仲になり、お露は夜毎、牡丹灯籠を下げて新三郎の元を訪れる。しかし、日に日に新三郎はやつれていく。実は、お露の正体は亡霊であり、信三郎には美女に見えるその姿も、実際には骸骨の姿をしていたのだ。新三郎は、お露に二度と会わないことを決め部屋中の扉にお札を貼るのだが……。


 そこまで思い出して、私はため息をついた。ここが一体どこかはさておくとして、私が牡丹灯籠のお露なのであれば、これから向かう先は新三郎の家に他ならないだろう。一緒に死んでほしいと執着するほどの恋しい相手どころか、離婚を希望している浮気男ではあるが、配役に文句をつけても仕方がない。


 適当に歩みを進めれば、なるほど、目的の場所はすぐに見つかった。牡丹灯籠では戸に貼られたお札のせいで家の中に入れなかったはずだが、今回は少しだけ違っている。戸口には、懐かしい家族写真が貼られていたのだ。


 結婚前のデート中の写真。

 友人に囲まれた結婚式の写真。

 子どもたちが生まれた時の写真。

 地元の神社で七五三のお参りをした写真。

 家族で遊園地に出掛けた時の写真。

 子どもたちの入園式や入学式の写真。


 幽霊であるお露にお札は剥がせなかった。そして、私にはまだ家族写真を破る覚悟がない。私にとっては憎い夫でも、子どもにとってはまだ優しい父親なのだ。これが、夫の作戦なのだろうか。それとも、ここでためらうことこそが、私の弱さなのだろうか。


 写真を剥がそうとして指先が震えた。けれど、写真を剥がしたところでどうするべきなのか。この家で隠れ続ける夫を見つけても、私は最後通牒しか突きつけられないだろう。このかくれんぼに引き分けはない。その先にあるのは、明確な勝ち負けと終わりだけ。


 もう一度写真を見てみたいと思い、灯籠を近づけて私は悲鳴をあげた。先ほどまで確かにあったはずの家族写真は、すっかり消えていた。代わりにそこにあるのは、夫と見知らぬ女のツーショット写真だ。繰り返し出てくる女もいれば、一度限りの女もいた。一番数が多いのは、百貨店で夫の隣にいたあの若い女だ。


 少しだけ残っていたはずの夫への気持ちが、ろうそくに息を吹きかけるように消え失せるのがわかった。家の中にいるのはかつて愛したひとではない。ただのゴミだ。ようやくそこに私は気がついたのだった。


 驚いた拍子に手放したのか、地面に落ちた牡丹灯籠が燃え始めた。炎は最初は穏やかに、徐々に激しさを増して家に燃え移る。家は面白いほどよく燃えた。そして飴細工が溶けていくかのように、ぐにゃぐにゃと形を変えていくのだ。


 夫やあの女の悲鳴が聞こえることはない。ただ鈴の音が鳴るばかり。しゃらりしゃらり。高く低く、歌うように闇夜に響き渡る。


 その音に合わせて私は踊る。着物を着て踊ったことなどないはずなのに、私の手足は小鳥のように軽やかに跳ね上がった。「歌う骸骨」やら「踊る骸骨」やらといった昔話があるように、どうやら骸骨というのはえてして歌も踊りも上手いものらしい。


「ゴミはちゃんと、燃やして処分しなくちゃね」


 どれくらい時間が経ったのか。気がつけば、こうこうと燃えていた家は影も形もなくなり、辺りには牡丹の花が積み重なっていた。赤く赤く、鮮やかな大輪の花。そのひとつを戯れに持ち上げ、ふっと息を吹きかけてみる。崩れるはずのない花弁がはらはらとあたりに舞い上がった。


 悔しさはない。悲しみも、怒りも。ただ私の中にあるのは、静けさだけ。これでもう二度と苦しまなくていいのだという、そんな安堵に満たされていた。


 さようなら、あなた。

 大好きなお相手と死ぬまで一緒なら、何より幸せでしょう。もう二度と、あなたたちにお会いすることがありませんように。



 ********



 青空がまぶしいとある日。

 私は久しぶりに駅前の百貨店を訪れていた。


 フロアに響く軽やかなヒールの音が、耳に心地くて自然と笑みがこぼれる。くるりとカーブした髪の毛を耳にかければ、お気に入りのピアスが指先にふれた。


「こんにちは。お久しぶりです」


 カウンターへ足を進めると、美容部員の乙骨おっこつさんがにこやかに出迎えてくれた。おあつらえむきに、ちょうど他のお客さんも見えない。話をするにはちょうどいいだろう。


「お元気そうでほっとしました」

「先日はいろいろとありがとうございました。こちらへ伺うのがすっかり遅くなってしまって……。ありがたいことにいろいろなことが片付いたんです」

「それは良かったですね」

「新しい就職先も決まったものですから。先日、タッチアップしていただいた商品を買わせてください」

「まあ、ありがとうございます」


 新しい就職先は、働きやすい職場だった。シングルマザーとなった私にも優しく接してくれるし、残業もない。もちろんお給料がそれほど高いわけではないけれど、社内の雰囲気がいいこと、家庭の事情に理解があることは何よりありがたい。団信に入っていたので家のローンの返済も免除になり、むしろ今の方が生活にゆとりがあるくらいだ。


 並べられた商品の詳細をあれこれ尋ねてみる。急に羽振りが良くなったことについて、乙骨さんに尋ねられることはなかった。私が高給取りになったなんて、彼女も思っていないはずだ。きっと乙骨さんはわかっているのだ。そもそもあのアロマキャンドルを私にくれたのは、彼女なのだから。


「いろいろとお世話になりました」

「いえいえ、安心しました」

「本当にありがとうございます。乙骨さんのおかげで、ずっと抱えていた悩みがやっと解決しまして。おかげさまで、一から出直すことになりました」


 旧姓に戻し、姻族関係終了届も受理された。

 これから、子どもたちと一緒に地道に暮らしていこうと思う。無駄な贅沢をしなければ、そこそこの暮らしは確保できる。決して、「父親がいないからあの家の子は」なんて他人に言わせたりなんかしない。


「充実していらっしゃるんですね。笑顔が本当に素敵です」

「もう、美容部員さんとして働いている乙骨さんに言われても、ただのお世辞にしか聞こえませんよ」

「あら、本当のことを言っただけですのに」


 上品に微笑んだ乙骨さんは、次の瞬間、さらりと爆弾発言を落としてくれた。


「私は昔は自分の顔が苦手で。ずっと、不美人だと言われていたんです」

「え」


 こんな綺麗なひとに向かって「不美人」――乙骨さんはマイルドに言っていたがきっと明確に「ブス」だと言われていたのだろう――と言う人間がいるなんて。


 私のびっくりした顔が面白かったのか、ころころと笑いながら乙骨さんは続けた。


「ところがある時、自分の骨格が非常に整っているということに気がついたんです。自分で言うのもお恥ずかしい話なのですが。それでお化粧を頑張ることにしたというわけなんですよ」

「あ、聞いたことがあります。美人の肝は骨格だって」

「実際の芸能人の方だけでなく、フィクションの世界でも有名ですよね。とはいえ、最近の漫画や映画よりも私の方が年上ですから、私が元祖ということでお願いいたします」


 乙骨さんって、おいくつなのだろう。聞いたところで答えはもらえないことはわかっていた。疑問を抱えつつ、私は彼女の顔をじっと見つめる。乙骨さんの年齢はわからないけれど、なぜか不思議と和服がお似合いだろうなと感じた。そう、牡丹と芍薬をあしらった真っ白な着物が。


「もうすぐ梅雨が明けますね」


 乙骨さんの言葉に、私もうなずきかえす。先日、夕立にあった時のことが信じられないほど、今日の天気は快晴だ。どこを歩いていても絶え間無く流れてくる蝉の声が、まさに夏が来たのだと私に教えてくれる。


「ええ、信じられないほど長い梅雨でした。このまま、梅雨が明けないのではないか。そんな心配もしていたくらい。そのぶん、今日の青空が嬉しいです」

「洗濯物も外に干せて、家の中もすっきり片付きますしね。あの生乾き臭は万死に値します」

「ええ、本当に!」


 私たちはくすくすとお互いに笑い声を上げてみせる。カウンターに設置された鏡には、晴れやかな私の笑顔が映っていた。

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