第三話 徳川外交
天正十三年二月。山城国天王山城。
「若狭より一突きで宰相を退治とはまことにお見事。駿河守殿の武勇は東国において知らぬものなし。ぜひ将としての心得などご教授賜りたかった」
大坂から戻った翌日、私は天王山城で徳川からの使者を迎えていた。つるりとした丸顔の男。齢五十を越えてるはずだが、その滑舌は滑らかだ。徳川の西方担当の宿老石川数正。確か本来の歴史でも賤ケ岳後の秀吉に戦勝祝いの使者を務めていたはず。
「三河守殿の武名こそ西国に轟いています。石川殿も美濃口の大将として采配を振られたと」
「……いや某など若い将の目付け役にすぎず」
私の言葉に数正はちょっと困った顔になった。別におべっかを言ったつもりじゃない。有能な人間であることは間違いない。もちろん本来の歴史通り融和派ならその心を取らなければならないのだが、私に秀吉の真似は出来ない。
毛利と徳川は対土岐の同盟相手だが土岐は滅んだ。毛利と徳川はその遺産を奪い合う関係ともいえる。家康と戦わずに戦略的な優位を拡大させたい私としては外交関係をなんとか維持しなければならない。
友好関係を表向きでも維持するためには、片付けておかなければならない問題がある。
「そういえば徳川の軍勢は尾張も越えられ、北伊勢まで出ておられるとか」
私が本題に入る。数正は一瞬で真顔になった。さっきまでの笑顔でも、目が全く笑っていなかったことに初めて気が付く。いつの時代も隣国同士がもめるのは領土だ。
「主家康も鎮守府将軍様との談合大事と思い濃尾でとどまるつもりでございました。されど公方様より東海道鎮護を命じられては如何ともしがたく。むろん鈴鹿、不破を越えるつもりはございません」
数正はつるりとした頭をなでてから神妙に言った。私は表情を取り繕うのに苦労する。将軍義昭は相変わらずの行動様式をかたくなに守っているようだ。東海道は伊勢、伊賀、志摩の三国を含む。徳川方としては北伊勢で止まったことは自重という主張か。
北伊勢に徳川の兵が入った以上、ある程度は認めるしかない。この時代に限らないが、他国の軍隊が命懸けで獲得した地から引かせるのは困難。そしてだからこそ徳川は豊かな伊勢を少しでも攻め取り、既成事実を積み重ねようとする。北だけではない、伊勢全土の国衆地侍に手を伸ばしているはずだ。
土岐の主力と戦い光秀を討ったのは毛利なのだから、伊勢まで取るのは火事場泥棒が過ぎる。とはいえ毛利は未だ一兵も伊勢に入れていない。大坂で話した通り、次の軍事行動は紀伊攻めになる。大坂湾岸の確保の方がずっと優先だからだ。
自由にさせたら紀伊を取る間に伊勢すべてが徳川領になりかねない。私としてはそれは困る。正確に言えば伊勢ではなく、伊勢におまけのようにくっついている志摩をやるわけにはいかない。この狙いを隠したまま国分交渉をしなければならない。
「どうやら伊勢国分についてはしっかり話し合うことが必要そうですね」
私は数正にそう言って会見を終えた。一国の国分が一度の話し合いで済むことはない。ちなみに史実の秀吉との中国国分は交渉に二年かかった。そして時間がかかるのは私にとっては好都合だ。
数正が去ったあと、私は佐世元嘉と堅田元慶を呼んだ。
「元嘉には京に滞在している石川殿との国分交渉を任せます。なるべく穏便にゆっくりと進めてください」
先ほどの数正の態度から考えれば毛利との争いは望んでいなさそうだ。人選からいっても家康が私を秀吉と同等に扱っていることになる。ただし史実では数正は中央融和派、しかもそれが原因で徳川家から出奔するほどのだ。つまり徳川家中は自主独立派の力も強かったということ。いやむしろそちらの方が強いのが普通だ。
家康の真意が和戦いずれにあるのか確定させるのも難しい。史実の家康は基本的に強いものに従ったが、戦うと決めたら戦う。三方ヶ原でも小牧長久手でも、優勢な敵の大軍相手に決戦を挑んでいる。それに何より最終的には天下を取ったのだ。
「元嘉はとにかく石川殿の面目を損ねぬように交渉をしてください。最悪の場合ここまで譲って構いません」
「なんと一志郡までとは、安濃津もでございますか」
私が伊勢の絵図で差したラインに元嘉は驚く。
一志郡は伊勢のちょうど真ん中だがあくまで地図上の話。伊勢は北部が濃尾平野からつづく平地で、南部は山だ。北部に九郡が設置され、南には四郡しかない。五十七万石の三分の二強、四十万石以上が徳川で毛利は十五万石に満たない分配になる。しかも安濃津は伊勢湾最大の港だ。
「毛利が紀伊を攻めている間に徳川がその気になれば伊勢は取れるのです。それを考えれば致し方ないと考えています」
毛利に伊勢の大半領有を認めさせたとあれば、数正としては交渉成功だ。徳川家中での発言権も高まるだろう。それが原因で徳川家中で争いが生じるなら、それも毛利にとって悪くない話だ。
「なにより肝要なのは志摩。ここだけは決して譲ってはなりません。それを悟られてはならないのです」
伊勢南部から続く山地が突き出した三角形の半島。伊勢のしっぽのような志摩国だ。石高二万石程度の小国だが水軍拠点としては大きな価値を持つ。伊勢湾に蓋をして、三河にその匕首を突き付ける形だ。
「かしこまりました。石川殿の面目を立て、毛利が譲ったと思わせまする」
私は元慶に向き直る。
「元慶は志摩の九鬼を調略してください。紀伊攻めに合力すれば、毛利の名のもとに志摩一国を安堵すると」
「雑賀、熊野水軍を後方から牽制するようにとの形でひとまずはよろしいですか」
元慶は了解が速い。九州で鍋島への使者もうまく務めたし、海を越えて遠隔地に行くのもいとわない。海の軍事に関しては任せるのがよさそうだ。
「徳川と九鬼はこれでいいとして、あとは上杉」
両奉行が下がった後、私は絵図を見ながらつぶやいた。毛利水軍が東海道で活動するには紀伊沖の安全航路と志摩の基地化が必要。東海方面はこれでいい。
だがそれだけでは家康が戦うと決めたら抑止は出来ないだろう。ハートランド国家は陸軍を一方集中できる。小牧長久手で石高に大きく劣る家康が北条との同盟により尾張に戦力を集中した。それがあの局地戦の勝利を可能にしたと言っていい。
徳川北条同盟は盤石だが、両者の背後には上杉がいる。上杉家は北信濃の一部を領有しているという意味で徳川と領土争いをしている。そして謙信時代から北条とは不倶戴天の敵なのだ。守護代だった長尾家が、関東管領上杉家の名跡を継いだのだ。
実は毛利にとっても苦い記憶がある。毛利は織田を挟撃するために武田、北条、上杉の三国同盟を成立させようとしたが失敗したのだ。上杉も武田も織田の大きな圧力を感じていたのに同盟が成立しなかったのは、仇敵である上杉と北条が和睦しなかったからだ。
さらに上杉、徳川、北条の国境には特大の爆弾が存在する。北信濃と上野にまたがる小大名真田昌幸だ。武田滅亡から天正壬午の乱までを上杉、北条、徳川を渡り歩きながら勢力を保持。家康から大軍を送り込まれるも寡兵にて撃退。最終的には豊臣大名として徳川の与力という形で立場を保持しきった。
これ以上ないというくらいの境目国衆ムーブ、大国にとってこれほど面倒な存在はない。実際、名胡桃城事件を起こして北条家滅亡の原因となった。
この
上杉としても徳川、北条同盟は脅威だ。交渉の余地は十分ある。あとはどうやって伝手を作るか。
次の更新予定
2024年9月22日 18:00
毛利輝元転生 ~記憶を取り戻したら目の前で備中高松城が水に沈んでるんだが~ のらふくろう @norafukurou
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