閑話 清須会議

 天正十三年二月。尾張国清州城。


 清須に城を築いたのは斯波家だ。将軍家と同じ足利の名字を名乗り、三管領にして越前、尾張、遠江の三ヵ国守護。室町幕府創業に活躍した斯波(足利)高経が執事かんれい就任を求められ「そんなのは家来筋の仕事」と言い放ったという逸話を持つ名門だ。


 その名門も応仁の乱から続く混乱で越前は朝倉、尾張は織田という守護代に実権を奪われた。


 尾張を統一した信長が徳川家康と同盟を結んだのも清須城だった。清須同盟は本能寺の変まで二十年間継続した。織田徳川の双方に利益をもたらしたからこそだが、どちらが多くを得たかは言うまでもない。


 その信長が斃れて二年半、織田家の栄華を残す清州城の御殿を、武骨な武士達が占拠していた。徳川家の重臣が一堂に会しているのだ。徳川の上に君臨した織田家の城を手にした高揚がこの場を覆っていた。


御主おしゅう様お出まし」


 首座についたのは彼らの主、徳川三河守家康だ。信長の座についた主を感慨深げに見る家臣たちの前で、家康は豪華な脇息を両手でひっくり返して具合を確かめている。華美な模様より頑丈さを気にしている様子だ。


 脇息に手を置いた家康は最前列の二人を見た。酒井忠次と石川数正、家康の駿河人質時代から近習を務めた家臣で、東西の宿老を務めている。


「しからば忠次から言上仕ろう」


 酒井忠次が口を開いた。松平家祖である松平親氏の庶長子より始まる酒井家の当主。長篠の合戦における鳶巣城の攻略を筆頭にその軍功は並ぶものがない。今回も尾張攻めの大将を務め、水野や榊原などの諸将を率いて練達の手腕を存分に発揮した。


「小牧山、犬山など北の諸城もことごとくご当家に服し申した。倅家次は伊勢長島に達しております」


 忠次は戦果を誇示するように胸を反らした。態度も言葉も傲岸だが嫌みがない。諸将は「当たるところ敵なしじゃ」「西国侍など武田に比べれば何のことはない」と歓声を上げ盛り上がる。


そんな中、向かいに座る数正は眉一つ動かさず、視線で下僚の一人に合図した。


「美濃において、岐阜から大垣までことごとく城を開きました。直政命あらば不破の関はもちろん、彦根の山まで押し進む覚悟でござる」


 宿老の次に並ぶ重臣の中でひときわ若い男は井伊直政。遠州の小国衆の出ながら、徳川が甲斐信濃を制した後は武田旧臣を与力として付けられ侍大将の地位を得た。美濃攻略では先鋒を務め、岐阜城攻めにおいても一番乗りを果たし、抜擢に応えた。


 忠次と直政の報告に、家康は満足げに「うん」と深くうなずいた。


「さてこの勢いならば伊勢も近江も当家の物とならん」「となれば十ヵ国の主か」「いやいやそれには伊賀もいるて」


 かつては仰ぎ見た今川、武田、そして織田の領国を手にした三河武士の意気は高い。平岩、鳥居と言った一国代官から、安藤や成瀬といった家康の側近まで次々に大言が飛び出す。


「御当家の勢い盛んなるは結構なれど、西国の毛利が京を押さえております。これとぶつかれば如何せん」

「美濃攻めに遅参した伯耆が水を差すこと」


 石川数正の冷たい声音。すぐさま向かいの忠次があげつらう。数正は美濃方面の大将を務めたが、組下である小笠原など信濃国衆の離反に合い、その対処のために直政が岐阜城を落とすまでに美濃に入れなかったのだ。


「小笠原が不満を抱いたのは酒井殿の振舞い傲慢なため。わが身に後始末を押し付けたをお忘れか」


 数正は平静な声で言い返す。北信濃国衆は上杉、北条、徳川の間にあって帰属と離反を繰り返している。今も小笠原は城に籠り、真田は上杉に転じ、木曽の動向も怪しい。数正が南信濃に構えて対処したことで美濃攻めがなせたと言える。


「そもそも当家は毛利の家臣にあらず」

「かつての織田家にそのようなことを言えたか」


 甲斐を預かる平岩親吉が言った。数正はぴしゃりと返した。


「じゃが、そうじゃ公方様より東海道を鎮定するように命をいただいている。伊勢は東海道じゃ。当家のものにして構わんのでは」

「その公方様こそ毛利の保護下にある。御内書などいつひっくり返されるか分かり申さぬ」


 鳥居元忠の発言に、数正は上から道理を説くように応じた。


「我らの背後には北条もある。毛利相手に引けは取らぬ」


 その言葉は榊原康政だ。直政や本多忠勝と並び家康から旗本衆を預けられている侍大将だ。小牧山を押さえて尾張の北半分を攻略した。


「その北条とて背後に佐竹、結城、里見らを抱えている」


 参加者のほとんどは忠次より。だが数正は一人一人に理路整然と言い返す。容赦ない正論に、返されたものは口をつぐむしかない。


「どうであろう酒井殿、此度の濃尾攻めに援軍頂けたか」

「真田の表裏ものが上杉に転じ、上野を荒らしたがゆえのこと」


 数正は向かいの忠次に言った。両者はにらみ合う。ちなみに取次に関しては忠次が東、数正が西という担当だ。


「年寄りであるそなたらがいがみあってどうする」


 沸騰する場を黙ってみていた家康がやっと口を開いた。


「しからば殿のお考えは如何に」

「……毛利の出方次第、ほかにあるまい」


 詰め寄る忠次に家康は言った。それでは答えになっていないと両宿老は主を見た。だが家康は口を開かない。こうなると何も言わなくなるのを知っている重臣たちは、勝手気ままに自論をまくしたて始める。


「とにかく家次を鈴鹿の関まで進ませる。伊勢の国衆地侍への示しもある」

「美濃は不破の関には触れず、毛利に打診すべし」


 議論はバラバラのまま、不破と鈴鹿の両方の関は越えないという形、すなわち伊勢の占領は北部にとどめ、近江には手を出さないということになっていく。


「皆の考えようわかった。子細は忠次、数正に任せる。俺は民どもの様子でも見るとしよう」


 家康はそういうと縁側に近い末席に座る男に「鷹狩の用意をせよ」と命じた。


 主が去った広間、横に倒れた脇息の前で、徳川家の重臣たちはそれぞれ動き出す。何が決まったのか誰もはっきりわからないままに。




 尾張の空を鷹が飛ぶ。


「甲斐と信濃だけでも手に余るというのに今度は濃尾。辛抱の足らん明智のために苦労する」

「かような時代にて、強き者にみな集まってきましょう」


 本能寺後に得た四ヶ国を荷物のように言う家康。答えたのは鷹匠の格好をした本多正信だ。二十年前の三河一向一揆で宗門側についたことで出奔し、復帰した今でも時に裏切り者がとののしられる。したがって会合などでは一言も口を開かないが、鷹狩の場では家康の謀臣ともいえる立場だ。


「つまるところ俺より強い者が現れたらそちらに従うということよ」


 家康は達観したように言う。西三河の国衆に過ぎなかった松平宗家を幼少で継ぎ、今川に従い織田と戦った。桶狭間で義元を失った今川が保護者たりえぬと織田に鞍替えし今川と戦う。今川を滅ぼしたら今度は織田と武田の間である。


 三方ヶ原の合戦では危うく討ち死にしかけ、武田勝頼に乗り換えようとした家中の争乱では、嫡男信康を切腹に追いやることになった。


 織田家に二十年間奉仕したのも家康にしてみれば結果に過ぎない。二十年間、裏切らずに済んだという意味で信長は良い主だったというのが家康の感慨だ。


「三河を守るため遠江、遠江を守るため駿河、甲斐信濃、そして濃尾。その次は伊勢、きりがない」


 頭上をぐるぐる回る鷹を見て、家康は嘆息した。


「理の上では数正。されど忠次がああ言わねば家中は収まらん。さてどうするか」

「毛利が当家をそのままにしておく道理はございません。七ヵ国は大きすぎまする故。…………しかしてご本意は」

「言った通り。毛利の出方次第よ。人は実際に行いを見ねばわからぬ。さてどうしたものか」

「しからば石川殿が京へ使者するときに某同行いたし、毛利輝元のことよく調べまする」

「それはよい。そうしてくれ」


 家康は我が意を得たとばかりにうなずいた。


 正信が本来の鷹匠に引き継ぎ離れた後、家康は空を見た。


「西は数正、東は忠次にあしらわせるとして、俺は北の手当てをしよう。何事が起こっても生き残るためには準備が肝心」


 家康がつぶやいた瞬間、獲物を見つけた鷹が急降下した。だが家康はそれを黙って見るのみ。


 徳川国家の戦略のその全貌は誰も知らない。元首である家康自身、何一つ定かなことを決めていないのだ。

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