15 輝く月の夜に
15-1
目を開けると、視界の先にはまた、見知らぬ天井があった。
薄闇の中、見える室内はどことなくオルディナリ王国で与えられていた部屋の雰囲気に似通っている気がする。
首を傾ければ、金色の瞳と目が合った。
寝台の傍らに椅子を置き、先日のようにうたた寝でもしていたのかもしれない。
ちょうど目を開けたところ、という雰囲気だ。脚を組み、腕を組んで、首が右に傾いている。
ジルは、アウラを見て、大きく瞬きをした。
「……アウラ」
次の瞬間には、ジルに抱きすくめられていた。
「よかった……よかった。少しも目を覚まさないから、心配した」
首筋と頬に、ジルの柔らかな髪と耳が触れる。肩に押し付けられた顔の下から、涙混じりの声が聞こえてきた。
「よかった。痛いところはないか? 気分はどうだ? 腹は空いてないか? 欲しいものがあれば何でも言ってくれ。フルコースでもなんでもすぐに用意する」
痛いぐらい、抱きしめられている。
「……わたくしは……、どうなったのですか……何が……」
今回は、記憶が曖昧ではなかった。アウラは、ナイフで刺されたはずだ。ラヴェンディアの首に魔封じの銀環を嵌めて。
光の粒になって消えてしまったあの人のことも、胸を刺されて血を流したことも、はっきりと思い出すことができる。それなのに、生きているどころか、痛みも感じない。
「母上が、治療してくださった」
自分の胸元に触れてみる。傷跡も何もない。まるで、何もなかったように、綺麗に治療されている。
「半日ほど経った今は夜中だ。ここはシャノワの城。ラヴェンディアに刺されたアウラが、やつに魔封じの銀環をはめてたことは覚えてるか? そのおかげで、母上が正気に戻られて……、母上が……俺が背負うべきだったものを、全部、背負ってしまわれた……最期にアウラの治療も、して……」
ジルの声に、だんだん力がなくなっていく。最期に、という言葉に、その哀しい結末を悟る。
一緒に転移したマリエルは、最初から抜身の剣を携えていた。
ジルたちはラヴェンディアを標的としていたが、マリエルは、最初から王妃だけを狙っていた。
崩れ落ちた王妃の身体。刺し貫いた剣はマリエルのもので、その身体を抱き留めたのもマリエルだった。
きっと、それがマリエルのけじめで、望んだ、望むしかなかったことなのだろう。
「父上は……言葉こそ交わせなかったが、それでも、最後に俺を見て、頷いてくれた。間に合った。だから、良かったんだ。……良かった、と、そう、思ってる。……ごめん。利用するだけ利用して、それなのにまた、助けられてしまった」
ジルの、嗚咽し震える背中に触れる。
彼が生きていることを、喜びたいという気持ちがあるのに、こんなにも喜び以上のものを感じてしまう。
「俺は、結局何もできなかった。その上、妹に、マリエルに、あんな……ことを、させてしまった……」
アウラには、わからなかった。マリエルが、自分で決意して行ったことだから、その意思を尊重するべきなんだと思った。アウラが口を出すことではないんだと思った。
でも、本当は止めないといけなかったのだろうか。
でも、もし止めてたら、ジルは、どうなっていただろう。
今までのアウラの世界は、もっとシンプルだった。こんな風に考えないといけないことなんて、何もなかった。
人と人との関係は、こんなにも、事情も思いも複雑に絡み合っている。
「……わたくしは」
なにも、わからない気がした。アウラはただ、アウラ自身の愚直な想いしかわからない。
いつかもっと、たくさんの人の思いを汲み取ることができるだろうか。
そうなりたいと、今ならば思うことができる。
「わたくしは、ジル様が生きていてくださって、とても嬉しいです」
至近距離で見る金の瞳は、太陽の色。眩しくて、美しい。
夜の月にしか安寧を見出せなかったアウラを、明るいところに連れ出してくれた。
「また、こうしてお会いできて、嬉しいです」
涙に濡れていても、悲しみに暮れていても、その輝きは決して褪せることはない。
そう、信じている。
「……死ぬんだと、思ってた。死ねば、どうせ何もわからなくなる。……だから、だから虚勢でもなんでも張れた。……もう、できない。……父上も、母上も、もういない。マリエルに押し付けるわけにも、いかなくなった。これからは、俺が国王としてやっていかなければいけない……重圧で、押し潰されそうだ」
涙に濡れる頬に両手を添える。指先に、黒い髪が触れた。
「では、一緒に泣きましょう」
いつかジルがしたように、その頬に唇を寄せる。
目を瞠ったジルと、額を寄せ合う。
「……いっしょに?」
「わたくしには、それくらいしかできませんから」
「……じゃあ、もう少しだけ、がんばってみてもいいかもしれない。君が泣くのは、いやだから」
その言葉こそ、ジルの優しさだ。不器用なアウラの慰めを、受け入れてくれる。
もっと、気の利いたことが言えればいいのに。
頬に添えた手を、上からジルの手が握った。ほんの少し、笑ってくれたような気がする。
「……ありがとう。ちょっとだけど、元気出た」
ジルの優しさに、罪悪感が募っていく。アウラの方こそ、押し潰されてしまいそうだ。
ジルたちの窮状を知ってなお、その悲壮な決意を知ってなお、今のこの哀しい結末を知って、例え今過去に戻ることができても、それでもきっとアウラは、同じことをするだろう。
三年前、あの小さな穴に鍵を挿した。今だって、きっと同じことをするに違いない。
裏切りのようで、許されない気がした。
「……わたくしは、とても酷い人間なんです」
話さないといけない。そう思って重い口を開く。
「……ん?」
「許されないことを、しました。お話、できていないことが……あります」
悲壮な決意をして告白しようとしているのに、ジルはその額をアウラの首元に埋めてしまう。
「いいよ。ぜんぶゆるす」
「まだ、何も言ってません」
黒い、柔らかな耳が首に触れる。
「じゃあ、撫でてくれたら許す」
甘えるように言ったジルの腕が、アウラの腰に回り抱き寄せられた。
「ちゃんと聞いてください」
「やだ。なんかやだ」
「……ジル様」
「あと、その呼び方が気に入らない」
「……殿下?」
「なんでそうなる」
はあ、と大きく息を吐いたジルは、ばったりと仰向けにベッドに倒れ込んだ。
「俺は今、自分をとても哀れんでいる」
ジルはそう言って、両手で顔を覆ってしまった。
「覚悟していたとはいえ、両親を失って、玉座に押し込められて、妹に酷いことをさせてしまったし、あれから口も聞いてもらえない。その挙句大切にしたいと思った人は、思わせぶりな言動はするくせに、なんだかんだと理由を付けて俺を捨ててどこかへ行こうとする。撫でてくれないし、名前も呼んでくれない。泣きそうだ」
これは、どうするべきなのだろうか。
顔を覆っていた掌をどけたジルが、困り果てるアウラを何やら恨みがましい目で見上げてきた。
「アウラは……ラヴェンディアを、ずっと気にしていた。そういう目で見てた」
そういう目とは、どういう目だ。
「すごく、気に入らない」
ごろりと転がって、困惑するアウラに背を向けてしまう。その背で、黒い尻尾がばしばしとベッドを打つ。
全身で不満を伝えてきている。
対人初心者のアウラに、あまり難しいことを要求しないでもらいたい。
「……ジル、ベルト?」
名前を呼ぶと、不満そうな尻尾の動きがぴたりと止まった。
ぴくりと動いた耳に、そっと触れる。
とりあえず要望通り撫でてみることにした。
ぺったりと寝てしまった耳は極上の毛並みで、触れていると色々なことがどうでもいい気がしてくる。
「話を、聞いてください。わたくしが思ってること、ぜんぶ、聞いてくださると、そう仰ってくださいましたでしょう?」
いつか、言ってくれたように。
「ちゃんと、全てお話しますから。わたくしがどうしたいのかも、今の気分も、この気持ちも、全部」
全部聞いて。
一緒に生きて。
こちらを振り返ったジルの顔を、月明かりが照らす。
夜の空に、欠けた青白い月が煌々と輝いていた。
<完>
白き魔女と黒の忌み王子 ヨシコ @yoshiko-s
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