14 鳥の獣人
14-1
三年前、アウラがオルディナリ王国に嫁ぐため、その道中でのことだ。
マギア王国を抜け、国境を越えオルディナリ王国に入った最初の夜。とある町で一晩を過ごした。
マギアから連れて来た者たちは、アウラを置いてすでに母国へと引き返している。
国境付近で出迎えに現れ、アウラを引き取ったオルディナリの者達には、最低限の礼節が残されており、少なくともこの時点でアウラに怯えを見せる者はいなかった。
借り受けた貴族の屋敷、その離れに一人取り残されたアウラだったが、むしろ一人でいる時間に少しほっとする気持ちがあった気がする。
その夜の宿は、その地方を治める貴族の屋敷で、アウラには離れが一棟宛がわれた。
離れはひっそりと静まり返っていたが、遠くには明かりが見え、音楽と人々の喧騒が聴こえてくる。
今夜、町では祭りがあるらしい。日中、そんな話を漏れ聞いていた。
昼間に馬車から覗き見た景色の中には、大道芸人たちの姿があり、見事な舞踏や、楽器の演奏が披露されていた。賑わいの陰と呼べる片隅では、狭い檻の中で蹲る存在があった。
楽しそうな人々の中には決して混じることができそうにないその存在が、何よりもアウラには印象的だった。
夜になった今も、町は賑わっているようで喧騒が続いている。
アウラのいる離れには、小さいながらもよく手入れされた庭園があった。小さな噴水と、それを眺めるベンチも用意されている。
少し肌寒いような気がして、荷物を漁り羽織るものを取り出し、庭に出た。
夜空には満月が浮かび、気持ちの良い風が吹いている。
ベンチに座り、遠くに聴こえる音楽に耳を澄ませ、満月を眺める。
姿の見えない精霊たちが、その夜は妙に騒がしい気がした。
その人を見付けたのは、ほんとうにたまたまだ。視界の端に、その姿を見付けてしまった。
いつからそこにいたのか、植え込みの陰で、アウラからは僅かに揺れる後頭部が見え隠れしていた。
可能な限り慎重に立ち上がり、息を詰め様子を伺う。
向こうはまだ、アウラには気付いていないようだった。
男性だ。伸び放題で乱れた髪は元の色もわからない。下穿きは履いていたが、上半身はむき出しで、折れそうなほど細く薄い身体はその全てが煤けたように汚れていた。
その背には、ところどころ骨が剥き出しになった両翼があった。身体をすっぽりと包めてしまいそうなほど大きな翼は、散り散りになった羽根と羽毛によって覆われている。
大陸の東側には、人であると同時に獣としての性を持つ、獣人という生き物がいるそうだ。
猫や、兎、そして鳥、多種多様な者達が住まうという。きっと彼は、鳥の獣人なのだろう。
昼間見た、檻の中で蹲っていた人物だ。
狭い檻の中で、身を守るように両翼で身体を覆い、羽の隙間から虚ろな目を見せていた。
珍しい生き物として、見世物にされていた人。
さらに注意深く伺えば、彼は自身の首元を触っている。
手元まではよく見えなかったが、その必死さだけは伝わってきた。
彼の手が何かを取り落とし、落ちたそれが、アウラの足元に滑るように飛んできた。
アウラの足元に落ちたのは、銀色の小さな鍵。
その鍵の行方を視線で追いかけた彼は、そこでようやくアウラの存在に気付いた。
鍵を追いかけるべきか、逃げるべきか、判断に迷ったのだろう。
仰向けに体勢を崩し、怯えた目が、アウラを見上げてきた。
力なく羽ばたこうとした翼は、緩く地面を打っただけで、自身を庇うようにした腕の先、指先は、てんでばらばらの方向を向いていた。折れ曲がってそのままくっついて、腫れあがり、爪は剥がれていた。
その無残な指先を、それでも彼は必死で動かそうとしていたのだ。
首には、銀の細工がされた幅広の首環を嵌めていた。
よく見れば、その表面に一箇所小さな穴が空いている。きっとその指先では、小さな鍵穴に鍵を差し込むことができなかったのだろう。
ほんの少しだけ迷って、アウラは足元に落ちていた鍵を拾った。
「これを、その穴に挿せば良いのですか?」
尋ねれば、彼はぴたりと動きを止めた。
鍵を挿すと、ぴったりと隙間なく閉まっていた銀環は、あっさりとふたつに割れて地面に落ちた。
それを呆然と見下ろす彼の瞳は、右眼しかなかった。
髪に隠れた顔の半分、左の眼窩は空なのか、その部分がへこんでいて瞼は焼け爛れている。人相が判らないぐらい顔のあちこちが腫れていた。
ぼろぼろで、剥き出し上半身には鞭打たれた跡がいくつもあった。腫れ上がるその部分のところどころが、黄色く膿んで、酷い臭いだった。
あまりにも、哀れだった。
満月の晩で、どこかから梟の鳴き声が聴こえていた。
風に揺られ騒めく木々と虫たちの声。それらに混じり、アウラの思考を後押しするように、耳元で精霊たちが囁いた気がした。
迷ったのは、ほんの一瞬。
きっと、褒められた行為ではない。
ほんの僅かな反骨精神だったのかもしれない。これから向かう新しい生活に、希望を感じていたからかもしれない。
とても、痛そうに見えたから、それだけの理由だったのかもしれない。
どうか、この人がこれ以上の痛みや苦しみを感じることのないように。そんな祈りを込めて願う。
アウラの願いを聞き届けた精霊たちが、奇跡を起こし彼の傷を癒した。
皮膚を裂き腫らしていた鞭の痕も、腫れあがった頬も、てんでばらばらの方を向いていた手の指も、すっきりと綺麗になった。
汚れや臭いまではどうにもできなかったし、すでに失くしてしまっていたらしい左目は再生できなかったけど。
背中の羽根と羽毛は綺麗に生え揃い、汚れはそのままだったが、治療により生えてきた部分はグレーがかった銀色で、月の光を写しきらきらと輝いていた。
腫れが引いてすっきりした頬になると、その人の顔はとても整っているように見えた。どうしようもなく薄汚れて、ぼろぼろで、怯えて、怒りに燃えて、呻き声一つ上げることのなく、強くて、美しいものに見えた。
茫然とする彼の首元に、羽織っていた肩掛けを巻き付けた。
彼の目から、一滴の涙が零れたことには気付かなかったことにして、アウラは無言のままその場を離れた。
それっきりだ。
ずっと、気にかかってはいた。地位を得て見違えるような姿の彼に再会するまで、ずっと忘れたことはなかった。
離れるアウラの背に、掠れた声で、たった一言かけられたそれが、甘く響くその美しい声が、アウラにとって、その後の長い時を耐えるよすがとなる、宝物になったから。
「……ありがとう」
その、たった一言が。
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