13-4
最初に見えたのは大柄な背中だ。
濃い灰色の毛並みに、レオンだ、とアウラが思ったその時には、無言のままマリエルが剣を振りかぶっていた。
「は?」
背後から、聴こえた声はセラだろうか。
転移した先は、それなりに広い空間だ。執務室のような部屋なのだろう。
重厚感のある机があって、その上にジルが抜身の剣を持って着地したところだった。
レオンの向こうに、こちらに背を向けて立つラヴェンディアの姿がある。
アウラの爪先が、何かに当たった。ベルトが千切れた、小ぶりな黒い革のバッグが床に落ちていた。そこから覗くのは、彫金により文字と文様が描かれた銀の環。魔封じの銀環。
妃殿下に対峙していたレオンと、目が合った。
視界の端に、銀色のドレスに身を包んだ女性の姿がある。
妃殿下の懐に飛び込んだマリエルの剣が、その身体を刺し貫いていた。剣を持つ手首を捻り、より深く、致命傷とするための動きに見えた。
「フェリシテ!」
叫んだ声は、ラヴェンディアのものだ。
アウラは、その先を確かめることをせずに、転がっていた銀環を拾い上げ、ラヴェンディアへと向かう。
「この……っ、小娘が!」
激高したラヴェンディアが声を上げ、両翼を広げる。
視界の端で、王妃の身体が崩れ落ちるのが見えた。
ラヴェンディアの攻撃対象が、崩れ落ちた妃殿下の身体を抱えるように受け留めた、マリエルへと向かう。
そこに、双剣を構えたレオンが立ちふさがった。ジルがラヴェンディアの頭上に剣を振り下ろす。
「邪魔だ! どけ!」
ラヴェンディアの周囲で、炎が渦を巻いた。迫る刃を退け、両翼を威嚇するように広げたラヴェンディアは、近付こうとするアウラを振り返ることはしない。
彼の視線の先にいるのは王妃だけ。
炎による熱を浴びても、ジルとレオンはその場に踏みとどまる。
「なん、なんだよ! 風よ!」
ヤケクソみたいなセラの声が聴こえて、炎が吹き消された。
アウラの目の前で繰り広げられる猛攻。割って入れば、きっとただでは済まないだろう。
でも、そんなことはどうでもいい。
「フェリシテ! だめだ! 死ぬな!」
ラヴェンディアが叫んで片手を顔の前でかざす。その掌の前に現れた陣が、どこからか飛んできた見慣れないナイフを阻み、受け止めた。
どうやら妃殿下は、フェリシテという名前らしい。
美しい名前だと、そんなどうでもいいことを思う。
アウラが握り締める銀環。指先に触れている、ひんやりとした金属に心が騒めく。でも、それをしっかりと握りしめた。
造りは分かる。嵌めるのは簡単だ。魔力を喰らう魔術具は、魔法士の首元に触れれば自動的にその首へと魔手を伸ばす。
あと、二歩の距離。
ラヴェンディアが、その時になってようやくアウラを振り返った。彼の眼帯に嵌っている宝石が輝いた。
焼き印で潰されたという左目は、何も映さない。
「アウラ!?」
ジルの叫ぶ声が聴こえた。
無造作に振るわれたラヴェンディアの左腕が、アウラの胸元に向かう。その手には、先程彼を狙って止められたナイフがある。
身体を反転させたラヴェンディアの、眼球のある右目がようやくアウラを捕え、その目を見開いた。
「な」
なんで、と声にならない問いが発せられる、その一瞬は、確かに待ち望んだ隙だった。
その首に、手を伸ばす。アウラの手にあるのは、魔封じの銀環だ。
首に銀環を嵌められたラヴェンディアの身体が、大きく傾いだ。
アウラの手によって、魔封じの銀環はラヴェンディアの首に嵌められた。いつかは、外したそれを。
それを確認して、アウラの身体も崩れ落ちた。胸元を見れば、先程ラヴェンディアが受け止めたナイフが深々と突き刺さっていた。
首を巡らせば、同じナイフを手にしたメイリスが、彼らしくもない複雑そうな表情でこちらを見ていた。
きっと、アウラたちを追いかけて転移をしてきたのだろう。
おかげで、ラヴェンディアに隙ができた。メイの近くにはセラがいる。セラの指先は、大丈夫。まだ、白い。
倒れ込むアウラの背を、温かい腕が抱き止めていた。知ってる温かさにほっとする。ジルは、いつだってアウラを助けてくれる。
「マリ、マリエル……」
妃殿下の声が聴こえる。
「お母さま……!」
「母上……」
マリエルの、嘆く声が、ジルの途方に暮れたような声が、聴こえる。
「人を、集めなさい。今、すぐ、玉座の間に……早く……!」
妃殿下の声に反応したメイが、何かを叫びながら部屋を出て行った。
これで、どうにかなったろうか。何かが、変えられただろうか。
少なくとも、セラは呪法士にはなっていない。
計画性のない、やぶれかぶれのその場の思い付きで行動しても、案外どうにかなるものらしい。
今までそんなこと、考えたことも無かった。
胸元に、温かいものが広がっていく。それに反し、指先が冷えていく気がする。
こんなことで、捨ててきた二つの国に対する償いにはならないかもしれない。
アウラがこれまで生きてきたのは人間の国。でも、獣人でもなんでも、これでたくさんの民を救えるなら、少しぐらいの埋め合わせにはなるだろうか。
「なんで、こんな……アウラ」
その背にジルの温かさを感じながら、ラヴェンディアを見た。へたり込んだ彼の指先は、手袋に覆われている。
その手から、少し苦心しながらも手袋を抜き取る。抵抗はなかった。
現れたのは、指先から手の甲まで、真っ黒に変じた皮膚だ。
ラヴェンディアは、呆然とアウラを見上げている。魔封じの銀環によって封じられたその声は、きっと二度と発されることはないだろう。甘く響くあの美しい声。もう二度と、聴くことはない。
本当に、すっかり見違えた。こんな再会でなければ、どんなに良かっただろう。
でもアウラは、後悔はしていない。
ただ、哀しい。
ほんとうは、彼ら皆の助けになりたかった。
ジルのことも、ラヴェンディアのことも、助けたかった。アウラを助けてくれた皆の、助けに。
そう思うのは、傲慢だろうけど。
「なんて……ばかな、ことを……」
マリエルに抱えられた妃殿下が、ラヴェンディアを見ていた。
その表情には、多くの感情が浮かんでいる。とても、哀しそうな顔をしていると思った。
ラヴェンディアが、妃殿下に顔を向け、哀しく微笑んで、目を伏せた。
先程、マリエルが妃殿下を刺し貫いた時と、今この時と、ラヴェンディアは、妃殿下に対する情があったのではないだろうか。
でもきっと、この先その答えを知ることはないのだろう。
ラヴェンディアがアウラを見た。その真っ黒な指が、伸びてくる。
意外にも、その表情は穏やかだった。穏やかで、どこかあどけないようにも見える。
黒い指が、アウラに触れる寸前でぴたりと止まった。
ふわりと、風が吹いた気がした。その風にのって、ラヴェンディアの身体が光の粒へと変じていく。
その粒は空気中に霧散して、やがて、溶けて消える。
あとには、彼が身に着けていた黒い神官服だけが残された。
虐げて、傷付けた人。
虐げられて、傷付けられた人。
そんな鳥の獣人は、言葉もなくこの世から消え去った。
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