輝く森の中心で、君は眠る

一式鍵

特別な日、特別な場所、特別な――

 今日は12月24日だ。気が遠くなるくらいの古の時代、この日は特別な日だったらしいね――僕は彼女にそう尋ねた。彼女は黙って頷いた。ほとんど真っ暗な森の中で、かすかな星灯りをその身に受けた彼女の姿は、僕には輝いて見えた。


 彼女は空を指さして、僕に小首をかしげてみせた。暗黒色の長い髪が、ふわりとほのかに揺れる。僕は誘われるように彼女の指先を追い、木々の枝葉を抜け、空を見た。湿り気を帯びた空気の向こうで、大小様々な星々が盛んにまたたいていた。


「星座? わかるの?」

『わかる』


 彼女は短く答えた。そう、彼女は何でも知っている。少なくとも僕の知っていることで知らないことなんて何もない。そうと知ってはいても、僕は確かめずにはいられない。そして彼女は毎回律儀にYESと応答をしてくれる。


『でも、わからない。ここからでは星座の全貌が見えないから』

「そうだよね」

『でもきみなら分かっていると思っていた。いつも星の話をしてくれていたから』

「僕もこれだけ断片的な状況じゃ」


 ふと、ひときわ輝く赤い星が見えた。


 もしかして。


「ベテルギウスかな」


 僕はそう言って少し足を進める。木々が邪魔で、僕たちは獣道へと踏み入る。少し進んだところで僕はそれを確信する。星が三つ並んでいる。


「オリオンだね、やっぱり」

『ほら、やっぱりきみはわかっていた』


 彼女は微笑んだ。少し寂しげな、泣き出しそうな、いつもの笑顔だった。彼女が手に入れた唯一の感情表現、それが今の顔だ。


 僕は彼女の右手を握った。冷たい感触が僕の掌にみてくる。


「時間を止められればいいのにね」

『あたしにもそれは不可能だ』

「知ってる。だから……」


 だから、僕は君と一緒にここまで来たんだ。少しでも長く一緒にいたくて。


『行こう。ベテルギウスはまだ生きている』


 思いのほか長生きしている赤い恒星。数百光年彼方のその巨大な星を見ながら、僕らは歩みを進めていく。真っ暗な道も、彼女の先導があれば迷わずに進める。


「月は見当たらないね」

『今日は新月だから。ねぇ、きみ。あれはジュピター?』

「ああ、多分ね」


 僕らは闇の森を行く。僕らの二人旅はこの森で終わってしまう。それは確定事項だった。彼女は頑固だったし、言い出したら絶対に曲げない。それは彼女の特性上仕方ないのだけれど。だけど彼女はもう十分に戦った。もう退したって誰も責めたりはしないはずだ。


『道が悪い。手を繋ごうか?』


 いつしか僕らの手が離れていたことに、僕は今になって気が付いた。僕は右手を差し出して、彼女の左手に捕まえてもらう。こうして今まで何度も助けてもらってきた。彼女がいなければ僕はもうこの世にはいなかっただろう。


 彼女の目覚めに立ち会ってからちょうど五年になる。その間に、世界はあまりにも変わりすぎた。安全な場所なんてない――文字通りにそんな世界に。


 この森は彼女が最後まで守りきったおそらく唯一の安全地帯だ。気の遠くなるくらい昔の地球テラを、そのままの姿でのこした森。真冬であるにも関わらず、雪もなく、寒さもなく、木々はい茂り虫たちが息をひそめてたたずんでいる森。


 そして、彼女の旅が終わる場所。


『水音を確認した』


 彼女は囁いた。僕の聴覚では葉れの音と虫の声しか捉えられていなかったけれど、彼女にははっきりと聞こえたのだろう。僕らの旅はいよいよ終わる。僕は彼女の目的地を知らない。けれど、僕ははっきりとそう予感した。


 悪路を抜けた僕らの頭上に、突如として巨大な夜空が広がった。余すところなく星々に埋め尽くされたその空は、もういっそまぶしいくらいだった。


 笹の葉がそよぎ、ミズナラやイタヤカエデたちの奏でる音が、僕の背中をゆっくりと押す。僕は彼女の手を握りなおす。彼女もそっと僕の手を握る。木の幹には色鮮やかなオオミズアオが、妖しく羽を休めていた。青白く輝くその羽は、まるで僕らのための道標みちしるべのようだった。


 やがて水音が聞こえてくる。星座たちのさざめきは、やがて水流の輪唱に溶けていった。川面は輝いていた――その上でほたるの群れが舞っていたからだ。


『なぁ、きみ。人はこれを美しいと感じるのか?』

「ああ、そうだ。美しいよ」


 僕は答える。彼女は前を向いたまま、しばらく無言だった。


『わかった。これは美しいのだな』

「記憶しておくといいよ」

『私の記憶装置は、もはや役に立つことは無いと思うが』

「それでも」


 僕は言う。


「君がその記憶を持っていると思うだけで、僕はまだ」

『……わかった。この情報は美しいものだとカテゴライズした』

「うん」


 それでいい。僕の自己満足にしか過ぎないのだけれど。


「ここが君の旅の終着点ゴールなの?」

『違う、けど』

「けど?」

『きみがここを美しい場所と思うのなら、ここをあたしの終着点ゴールとしたい』


 そんな、と、僕は言いかけた。彼女は首を振り、自分の足元を指さした。


『見ての通り、私の躯体からだももう限界だ。ここまで来られて良かった』

「直すよ」


 僕は彼女の足元にかがもうとしたが、彼女は首を振って僕を止める。


『いい。あたしはここで停止ねむりたい』

「そう、か」


 一分でも一秒でも長く、僕は彼女と生きていたかった。だけど、それはもう物理的にも限界だった。そんなことはとっくにわかっていた。だけど彼女のたっての希望で、無理を押して、この森までやってきた。だけどもう、限界だったんだ。


 蛍たちの乱舞はまばゆいほどだった。蛙たちの合唱を背景に、ふわりふわりと踊っている。


『いよいよお別れだね、先生ドクター

「残念だ」

『人の言葉にあった。人は人の心で生き続ける。……あたしは人ではないけれど』

「同じさ」


 僕は精一杯に声を張った。けれど、低くかすれた声しか出なかった。


「君は」

『あたしは……きみの心に残れるだろうか』

「ああ」

『ならば、何も心配することはない。この惑星の危機も去った』

「そうじゃなくて」

先生ドクター


 彼女は僕の頬に触れた。僕らは並んで腰を下ろす。彼女はもう二度と立ち上がることはないだろう――そう思うと僕の胸は痛んだ。


『あたしの名前を呼んでもらえないだろうか』

「WLT-00x――」

『そうじゃなくて』


 彼女は僕の口調を真似して、またあの寂しそうな微笑みを浮かべた。僕も彼女が何を求めているのかを知っていた。だけどこうしてやり取りを挟むことで、彼女が止まってしまうまでの時間を稼げないものかと考えたんだ。


「……ワルト」

『ありがとう』


 彼女――ワルトはそう言って目を閉じた。そして僕に身体を預けてくる。


 彼女はWLTシリーズの最後期型00xシリーズ。シリーズとは言っても、たったの一機しか製造されなかった最強の自律型戦闘人形オートボーグドールだ。僕を守り続けてくれた最愛のパートナーだ。その強力無比な戦闘能力により、稼働限界がたったの五年に設定されていた彼女は、どうあがいてももう――。


「ごめん。僕がリミッターの解除をできなかったから」

『きみは死にゆく者に後悔の念を伝えるのかい? あたしの機能停止を死というのならば、ね』

「……僕は」


 ――何も言えなかった。


『そうだ。今日は特別な日だよ、先生ドクター

「……ああ」


 そう、12月24日。まもなく日付が変わる頃合いだ。


『メリー・クリスマス、先生ドクター


 ワルトはそう囁き、微笑んだ。


 その微笑には――寂しさはなかった。


 見たことのないほどにきらめいた、美しい微笑みだった。


 そしてワルトは眠りについた。


「ワルト……」


 僕はそれ以上、何も言えなかった。

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