第6話 中毒

 どうして、私は小説を書いているのだろう。

 結論から言うと、私は小説執筆の「中毒者」なのだろうと思う。


 厳密に言えば、「小説のアイデアが降ってくる瞬間」の虜になっているのである。

 この瞬間の快感、「天啓」とも例えられる、全ての道が開けたような爽快感、これにやみつきになってしまっているのだろう。だから、小説を書くことを止められない。


 小説を書くという行為は、実に非効率的だと思う。

 アイデアが出ない時は何をしても全く出ず、かと思えばふとした時に天啓が下りてくる。必死になって書いた作品をコンクールに出しても、良い結果というものは比例しないし、評価されることも稀である。

 明確な答えがあるわけでもない。重ねてきた努力に対して、返ってくるものが小さいことの方が多いのに、なんだかんだ続けてしまう。ギャンブルと同じである。


 小説を書いていれば、楽しい瞬間は一時ということもあるし、残りは全部しんどいなんてこともざらにある。しかし、その瞬間というのは砂金のようなきらめきを持っていて、いくらでも手を伸ばしてしまう美しさを持っているのだ。

 

 それに、小説を書くという行為は、誰にでも始めやすいものである。

 文豪の印象が強いからか、一般人は立ち入れない場所のように思われているかもしれないが、そんなことは全く無い。資格も要らない。簡単である。ノートやパソコンがあればいいから、基本的にお金も要らない。脳みそさえあれば良い。


 初期投資がいらない、ハイリスクハイリターンなもの、それが小説なのだ。


 とはいえ、必ずしもハイリスクハイリターンではない。

 小説家になりたいわけじゃない。友達に作品を読んでもらうくらいでちょうどいい、という人もいるだろう。だから、結局は人によるのだが、それでも、小説の天啓が気持ち良いという人は、一定数存在すると思う。


 人は、何かにすがらないと生きていけない。

 弱い生き物だと思う。物理的にも、精神的にも。それは、自分がよくわかっている。だから、小説にすがって生きている。小説しか、自分に取り柄がないのではと思いつめることもあった。

 ……それは健康にあまりよくないので、ほどほどに、小説に依存して、時々大きなリターンに期待して夢破れて、時々出来に自己満足して、時々評価してもらって舞い上がって、そうやって、泥臭く、生きていくのだと思う。

 

 小説は高尚なものではない。一切悩まずに書けるのは、一部の天才だけだと思う。私を含む大勢が、苦しみながら書いている。

 だからこそ、泥中の花のような力強さと美しさが小説に宿っていると、そう信じたい。

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