第5話 救い②
作者として小説のラストのことを考える時、私は少しだけ辛い、と言った。
その理由の2つ目。
救いのあるラストによって、作者である私は救われているのか? と考えてしまうから。
この場合の「私」とは、私の中にいる「少年」ではなく、小説を書いている「大人の私」だ。
小説の主人公には、どうあがいても「私」という作者が入り込む。当然だ。作者である私が、その主人公を書いているのだから。
たとえ他人を書いていても、自分に近しい部分というのは存在する。だから、多少なりとも自分と主人公を重ねて小説を書くことは多い。
もちろん、両者が重なり合う割合というのは、作品ごとに異なる。辛いのは、自分と主人公がかなり近い作品の場合だ。これはあくまで主観的な基準ではあるが、「あ、この主人公は私だ」と思うことがある。そういう主人公が中心にいる話を書く時、私は特に迷う。どんなエンディングを迎えさせればいいのか、を。
主人公が救いのあるラストによって救われ、それによって作者である私もどこか救われた気がする、というのが最も理想的な形だろう。
しかし、私は容易にそこまで至ることができない。主人公に与えた救いは、どこが自己満足的ではないか? 偽善的ではないか? お涙頂戴になっていて、社会に迎合していないか? そんなことばかり考える。
そうすると、主人公と作者の間に乖離が生まれ始める。
私には私自身に救いを与え切ることができなかった。作者としての技量不足、自己理解の不足、そういったものがやるせなく身をつつく。この状態が最も苦しい。
これによって、
「作者のことは救ってくれないこの作品を否定してしまいたい自分」
「『どんな作品であれ、自分の作品を否定するのは、小説を書いてきた作者としての自分の否定になる』と、『この作品を書いた自分』を擁護する自分」
「『主人公は救えたんだから、自分の半分くらいは救われたじゃないか』と『この作品』を擁護する自分」
とに分裂するからだ。
そういう時はもう、時間を置いて読み返すしかないのだと思う。
自分が少し成長した後に読み返せば、少しは違って見えるかもしれない。実は自分の救いにもなっていたかもしれない。書いていた時は、自分と似た主人公を書くがゆえに、心が疲弊しすぎていて、そのことに気づけていなかったのかもしれない。
小説は、自分自身を映す鏡であり、人生の縮図だと思う。
だから、苦しいのは当たり前なのかもしれない。それでも、苦しいものは苦しい。そういう時に、どうして私は小説を書いているのだろう、と思う。
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