苦い薬草と甘い花束
桐谷瑞香
苦い薬草と甘い花束
「苦しい……、死んだ方が楽かもしれない……」
そう呟きながら、私は引き続き激しく咳をし始めた。
喉だけでない、腹や背中なども含めて全身でする咳だ。
まるで飛び跳ねるかのごとく、激しく咳き込んでいく。口元を手で押さえながら咳をしつつ、よろよろと洗面所に急いだ。
そこで崩れかかるようにして、唾液や
胃の中から何かがせり上がっていく不快な気分になった。食道がもやもやとしていく。
ああ、これはもう耐えきれない……そう思った理性が、必死に体を宥める方向に移っていく。
ここで胃の中身を戻したら、さらに体力が削り取られる。咳ごときで戻すなんて!
落ち着け、落ち着け、私の体。お前の体は元気だ、咳なんかに負けるな!
心の中で言い聞かせながら、鼻呼吸などをして、必死に咳を宥めていく。
やがて咳も落ち着いたところで、私はその場にぐったり座り込んだ。
「辛い……いつまでこれが続くの」
呼吸を整えて、口元を洗ってから部屋に戻った。
風邪をこじらし始めた……と思ったのが一週間前。
はじめは少ししつこい咳だった。
すぐに治るだろうと思い、普段とあまり変わらない生活をしていたら、いつしか咳をする度に戻しかけるほど、激しいものになっていた。
さすがに大人しくした方がいいと思い、今は布団で下半身を暖めながら、本を読んでいる。
病気の時は寝るのが一番と言われているが、その間に咳込むときの恐怖の方が勝ってしまい、寝られずにいる。
本を読むのを再開しようとしていると、玄関のドアが叩かれた。
酷いのは咳のみのため、歩くときは極力しゃきっとした状態で歩く。ドアの近くで、か細い声を漏らした。
「……どちら様ですか」
「俺だ、リックだよ」
「ああ。ごめんね、いつも。今、開けるから」
ドアを開けると、眼鏡をかけた、癖毛の茶髪の青年が立っていた。
彼はリック、私が通っている学校の同級生だ。
彼とは実習で同じ班だった以降、食堂で一緒に食べたり、授業の話をしたり、時々一緒に教材を買いに行っている。
今回、風邪で授業を休む旨を女友達に伝えると、なぜか彼が寮で寝泊まりしている私の世話をしにきてくれたのだ。
休むことを伝えた彼女は、何かと忙しいらしい。
釈然としない部分はあったが、色々と言える立場ではなかったため、有り難く彼の好意に甘えることにした。
今日の彼の荷物はいつもよりも多かった。授業のノートや道具などが入った鞄、食材、そしてピンク色の三本の薔薇の花束があった。
「薔薇?」
ぼそりと呟いた言葉には、彼は反応しなかった。彼は素早く中に入り、ドアを閉めた。
開けっ放しだと廊下の冷たい空気が入ってくるため、さっさと入ってくれたのは有難い。
「食欲はあるか? ご飯は……食べれているようだな」
リックは流しの脇に洗って並べられた食器を見て、ほっとした表情をしていた。
咳が酷いだけで、食欲はある。食事も作れなくないが、作っている途中に発作にも似た咳が出るとしばらく動けないため、作るのは控えていた。
「ご飯の準備をするから、ユナはゆっくりしていて。その間に授業のノートでも見るか?」
「そうね、リックが作っている間にでも書き写させてもらう」
リックは鞄からノートを三冊取り出した。そのうちの一冊は特に書き込まれている。
ノートの表題は、『基礎魔法薬学』。私たちの学科で、主で教えられている学問だ。
魔法学校では、基礎教育課程から上級学校に進学する際、学ぶ内容を決めてから、進学することになっている。
学問の種類としては、実戦的な魔法を使う魔法使用学、魔法動物を扱う魔法動物学、魔法と機械を掛け合わせた魔法機械学、そして草花などから薬を作る魔法薬学などがある。
リックや私は魔法薬学に進んだ人間だ。
入学して半年近くたつが、まだ理論を学んでいる最中だ。学ぶ内容も徐々に面白くなるこの時期、授業を休んでしまうのは、残念なところだった。
幸いにも明日、明後日は休みである。ここで一気に体調を戻したい。
「今日の授業もだいぶ進んだね。どうだった?」
台所に立っていたリックは軽く首を傾げた。
「難しい内容ばかりで、大変だった。俺もあとで復習しないと、わからなくなりそうだ」
「へえ、秀才で真面目なリック君がそんなことを言うなんて。休んでいる私なんてどうなるのかしら」
若干嫌みを込めて言う。リックは勉強好きでも有名だった。試験では常にトップ争いに食い込んでいる。
そんな秀才で、いつも世話をしてくれる人の背中をじっと見て、私はまたしても可愛くないことを言ってしまった。
「私なんか放っておいて、勉強すれば?」
かき混ぜていた彼の手が一瞬止まった。肩をすくめられた後に、すぐに再開した。
「……そういう言葉が出せるなら、元気だな。この休みで元気になれよ、来週から実習が始まる」
「そうだった! 早く治して、頑張って勉強して、追いつかないと!」
慌てて彼のノートの中身を読み、自分のノートに書き写し始めた。
風邪をこじらせる前の授業で、そろそろ実習も取り入れていくと言っていた。
実習だけはノートを書き写しても意味はない。手を動かし、五感を使って実習に取り組むことで、身につくことができるのだ。
リックが食事を作っている間、黙々とノートを書き写す。集中して取り組んだためか、咳はいっさいでなかった。
やがて書き写し終えると、食欲をそそるような香りが漂ってきた。
顔を上げると、リックがお盆に二人分の野菜スープと柔らかいパン、そしてあっさりとした味付けで焼いた鶏肉を持ってきた。私は目を輝かせた。
「今日もすごいね、美味しそう。どうしてそんなに手早く料理ができるの?」
「まあ慣れだから。この程度の料理なら教えてあげるよ」
「悔しいけど……、今度教えて!」
リックはふっと笑って、お盆を机の上に乗せた。私は慌てて片づけて、二人分の皿が乗るスペースを作った。
気が緩んだのか、食事の前に軽く咳が出る。リックは心配そうな目で見ていたため、彼の視線から逸らすかのように背中を向けた。
手で口元を抑えて、ゴホゴホと咳をする。少しして収まったため、すぐに顔を戻した。
「では、いただきます!」
挨拶をしてから、まずはスープを飲んだ。喉に優しい柔らかい味である。
いつもと味付けが違うなと思い、彼に顔を向けると、「ああ」っと声を漏らした。
「
「そうなんだ、ありがとう。朝もパンに蜂蜜をつけてみよう。リックは本当に物知りね」
そう言いながら、パクパクとご飯を食べていった。鶏肉も刺激が多くない味付けである。野菜スープともいい相性だった。
やがて完食すると、リックが薬草とすり鉢を取り出した。それを見た私は引き腰になった。彼は深々と溜息を吐く。
「嫌がるな。風邪が治らないぞ」
「もうちょっと美味しい薬草はないの? 嗅いだだけでも、きついんだけど……」
「これが一番効くって、先生が言っていた。数日の辛抱だ、耐えろ。自分で魔法薬を学べば、自分に合った美味しい調合の仕方も学べるだろう?」
リックは私の目の前で、堂々と薬草をすり始めた。
苦そうな香りが漂ってくる。擦られた後の液体は、まるで土に濡れた枯れ葉のように、薄黒い茶色だった。
擦り終えるとコップに入れ、お湯で薄めたものを私に差し出した。
中に入っているものは、見ているだけで顔がぴくぴくと動くほど不味そうだった。
躊躇いがちになっていると、リックはぼそりと呟いた。
「……飲んだら、いいものあげるよ」
「いいものって、美味しいもの!?」
思わず目を光らせる。食意地が張っているやつだと思われても気にしないほど、美味しいものには目がなかった。
私は決死の思いでコップを握り、ごくりと唾を飲む。
これから美味しい薬を作るために避けて通れない道だと思いこみ、一気に飲み干した。
苦い、不味い……、でもこれで少しでも良くなるだろうと思いながら、飲みきった。
飲み終えたのと同時にお湯を渡される。口の中を潤すかのように、お湯を流し込んだ。タイミング良く出してもらって大変助かる。
口の中が落ち着いたところで、ほっとした表情になると、彼はにこにこしていた。
「何?」
「いや、表情がころころ変わって、可愛いなって」
「え……」
「ああ、ごめん。思わず言ってしまった」
そう言いながら、リックは温かい紅茶に蜂蜜を混ぜたものを出してきた。
それを両手で持って、有り難く飲んでいく。喉の奥がぼんやりと温かくなる。
心も体も温かくなっていった。半分くらい飲んだところで、私は顔を上げた。
「それでリック、いいものって何?」
そう尋ねると、彼は視線を下げて、薔薇の花束を差し出した。
「お見舞いで買った……」
「ありがとう。綺麗な薔薇だなって思っていたの。早速飾るね!」
「飾る前に、もう一つ言いたいことが。こんな場所でないと、言えないと思って」
そして彼はきりっとした表情で、顔を上げた。
「……ユナのことが好きです。よければ、俺と付き合ってくれませんか?」
瞬間、時が止まったような気がした。彼に何を言われたのか、一瞬わからなかった。
だが彼が顔を真っ赤にしているのを見て、徐々に自分まで顔を赤くした。
「え、え、え……」
彼が世話を焼いてくれるのを見て、私も彼への好意がないというわけではないが……。
驚きすぎて、言葉がすぐに出てこなかった。
「ど、どうして私なの?」
「俺、あまり喋らない方だけど、ユナとなら緊張せず色々と話せて……。話していて、心地よかったんだ」
そうだ、勘違いしていた。
彼は自分から話すことはあまりない人だった。質問すれば答えてくれるが、普段は自分からは話さない。
私と話しているときは、わざわざ彼から色々と話してくれていたのだ。
彼の優しさや想いを振り返り、紅茶を一口飲んでから、しっかり頭を下げた。
「よろしくお願いします」
リックの緊張した表情が和らいだ。私も同じように微笑む。
直後、激しく咳込み始めた。リックが慌てて寄り、今までは躊躇っていた背中をそっと撫でてくれた。
風邪をひいたことで想いを言い合えることができた。
それは嬉しいきっかけだったが、二度とこんな苦しい風邪はひかないと、心の中で強く決意を固めた。
その後知った、花瓶に生けられた三本の薔薇の花言葉は、あまり口を開かない彼らしい想いの伝え方でもあった。
了
苦い薬草と甘い花束 桐谷瑞香 @mizuka_k
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