楽師は騙る
なるほど、
そのようなことがないと確かめるため、あるいはその御方の足跡をたどり、今度こそ息の根を止めるためにこそ、貴方様が遣わされたのでしょう。
あるいは──この私こそが
そうでなくては、わざわざ十年以上も昔のことを聞きにおいでになるはずがありません。
いいえ、
楽師に楽を望まぬのなら、ほかに知りたいことがあるのだと考えるのは当然のこと。貴方様は、目も耳も凝らしておいででしたでしょう。私が申し述べることにほころびがないか、欺瞞の影が見え隠れしてはいないか、と。
そう、確かに私は
ですから、黒人宦官が私をどこに導いたか、あの場所で何があったかを確かに知ることはできません。
そして、密かに
そうだとしたら、あの御方はこの私の調べを所望してくださったのですね。それは──なんと光栄なことでしょう。
この指がどのように弦を抑え、弾くのか。この喉がどのように震えるのか。間近に見たいと思ってくださったのでしょうか。かりそめの生徒としてあてがった
私は、もしもそうであったなら、という想像を述べているだけです。妄想と、言い換えても良いでしょう。私はただの楽師なのですから、
我がことのように語っていると聞こえるとしたら、それだけ私があの御方の歌を惜しみ、懐かしんでいるからというだけでしょう。あれほどの歌声をお持ちの御方に求められたらと思うと、今なおわが心は至福に満たされ、心の弦がおのずと寒気の調べを奏で始めるかのようで。
その御方に乞われたら──ええ、何もかもに頷いてしまうかもしれませんね。たとえば衣服を取り換え、髪型を似せ、目隠しやこの
で、あれば。今、貴方様の前にいるこの私は、あの御方なのでしょうか。
ええ、確かに私は先ほど申しました。
もしもそのような入れ替わりが実現していたら、私の願いも叶っていたのかもしれませんね。
そうです。叶わなかったのですよ。
私は、あの御方から何を頼まれても命じられてもおりません。ただ、愛を
第一──私があの御方であったなら、今、申し上げたようなことは決して口にしないはずです。
あの御方の歌やお声をほめそやすのも、理にそぐわぬことです。楽を好まれる
わざわざ疑われるようなことを申したのは、それが真実だからです。言い逃れで嘘偽りを述べては、あの声の輝きを曇らせるのではないかと恐れたからです。
貴方様や、貴方様を遣わした御方に申し上げても分かってはいただけないのでしょうが、あの声はただの楽師に紡げるものではございませんでした。もっと神々しくて眩しくて、視界を閉ざした闇をも照らし出すようで。豊かで、清らかで、恵みのようで。美しかった。かけがえようもなく、尊かった。
ですが、楽師だから歌が上手かったのだ、などとは短絡にもほどがある。そのような考えはあの御方への侮辱、冒涜だ。貴方様がたはあの御方の命を奪ったのに、そのうえ、まだ辱めようというのですか。
無礼を罰するというならご随意に。
私の命などどうでも良いことです。貴方様は、いちど私を舞い上がらせておいて地獄に叩き落としたのにお気づきでしょうか。あの御方を懐かしむことができたと思ったら、あの御方に頼られなかったことを突き付けるなんて。
そうだ、私は身代わりを申し出るべきだった。そうして後は口を閉ざして、黙って毒の杯を干せば良かった。正気を失うか息絶えるか、その前に世を騒がせる楽師の噂を聞くことができれば、それで満足できたでしょうに。
でも、そうはならなかった。あの御方は
それが、あの御方の幸福だったのでしょうか。
私は──信じていただけなかったのでしょうか。それとも、囚われた御方には羽ばたくことすら思い浮かばなかった? ならばやはり、何としてでも私から申し上げるべきだったのに。
どうして今になって気付かせたのでしょう。もう遅いのに。もう何もできないのに。
それで
狂った望みだとは思いません。ただ、貴方様がたには理解できぬというだけのこと。
いえ、帝位を得ぬ限りは
…………お可哀想に。私の演奏があの御方のお心にあり得ぬ妄想を植え付けてしまったのですね。
自らが皇子などに生まれたのではなかったら。
もしかしたら、の生きざまを間近に聞いてしまったがゆえに、ご自身がそうであったなら、と考えてしまわれたのでしょう。
何ひとつ証拠のないことです。私が述べたこと。あの御方が訴えたこと。どちらが真実でどちらが偽りか。妄想か願望か正気か狂気か。
そう、例えば。
そうした想いが、入れ替わった楽師、などという妄想に結実したのでは? 違う、と──なぜ、何を根拠に言えるのですか?
貴方様が知る──知っていると信じていることは、すべて幻でしかないのですよ。目で見たものがすべてではないと、最初に申しましたでしょう。聞いただけのことなど、さらに不確かであやふやなものではないのですか?
閉ざされた
おや、狂人の命を免じられると仰いますか。わけの分からぬことを言い立てる下賤の者ゆえ捨て置く、と?
ご理解いただけたのならば、たいへん嬉しく思います。何ひとつ確かでないのならば、美しい物語を真実とすべきなのですよ。
ええ、私は楽師。歌を
鳥籠《カフェス》に響くは囚人の歌 悠井すみれ @Veilchen
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます