楽師は騙る

 なるほど、皇帝スルタンはご不安でいらっしゃるのですね。ご自身よりも年長の皇子、鳥籠カフェスに朽ちたはずの兄君様が、もしや後宮ハレムの外でご存命なのではないか、と。

 そのようなことがと確かめるため、あるいはその御方の足跡をたどり、今度こそ息の根を止めるためにこそ、貴方様が遣わされたのでしょう。


 あるいは──この私こそが鳥籠カフェスを逃れたおうじではないか、確かめるために、でしょうか。


 そうでなくては、わざわざ十年以上も昔のことを聞きにおいでになるはずがありません。

 帝王宮殿サライ・ヒュマーユーン後宮ハレムへの物見高さ?

 いいえ、宮殿サライにお仕えしている御方にとって、目隠しをされた楽師の話が興味に堪えるものとは思えませぬ。貴方様は、私の歌も演奏も断られたではありませんか。


 楽師に楽を望まぬのなら、ほかに知りたいことがあるのだと考えるのは当然のこと。貴方様は、目も耳も凝らしておいででしたでしょう。私が申し述べることにほころびがないか、欺瞞の影が見え隠れしてはいないか、と。


 そう、確かに私は後宮ハレムにおいて目を塞がれておりました。


 ですから、黒人宦官が私をどこに導いたか、あの場所で何があったかを確かに知ることはできません。

 女奴隷ジャーリエだと思って教えた相手は、実はお妃カドゥン母后ヴァリデ・スルタンだったのかもしれません。この弦楽器ウードを奏でたのは、女奴隷ジャーリエたちの稽古場ではなく、もしや皇帝スルタン私室ハス・オダであったのかも。


 そして、密かに鳥籠カフェスの内側に招き入れられていたとしても、私は気付かなかったかもしれません。囚われの皇子を憐れんだ宦官なり女官なりがそのように計らうことは、あり得ないことではないのでしょうから。


 そうだとしたら、あの御方はこの私の調べを所望してくださったのですね。それは──なんと光栄なことでしょう。

 この指がどのように弦を抑え、弾くのか。この喉がどのように震えるのか。間近に見たいと思ってくださったのでしょうか。かりそめの生徒としてあてがった女奴隷ジャーリエを押しのけて、私に触れたいと、息を潜めることなく、ともに声を響かせたいと思ってくださったなら──


 私は、もしもそうであったなら、という想像を述べているだけです。妄想と、言い換えても良いでしょう。私は鳥籠カフェスに囚われた高貴な御方の御考えなど計り知れぬことです。

 語っていると聞こえるとしたら、それだけ私があの御方の歌を惜しみ、懐かしんでいるからというだけでしょう。あれほどの歌声をお持ちの御方に求められたらと思うと、今なおわが心は至福に満たされ、心の弦がおのずと寒気の調べを奏で始めるかのようで。


 その御方に乞われたら──ええ、何もかもに頷いてしまうかもしれませんね。たとえば衣服を取り換え、髪型を似せ、目隠しやこの弦楽器ウードを渡してしまうことだって。


 鳥籠カフェスに閉じ込められた御方の御姿を知る者は多くはありますまい。そして、私のほうだって。目隠しで顔の半分は隠れていますから、着ているものが同じなら怪しむ者はいないかもしれません。まして、弦楽器ウードを抱えていればなおのこと。


 で、あれば。今、貴方様の前にいるこのは、なのでしょうか。

 鳥籠カフェスの囚われ人として果てた皇子は、実はあの御方に心酔した楽師であって、あの御方は身代わりを幸いに、自由に空に羽ばたいた、と──そのようなことを恐れていらっしゃるのでしょうか。


 ええ、確かに私は先ほど申しました。

 鳥籠カフェスから出て外の世界を知ったら、あの声はどのような歌を紡ぐのだろう、閉じ込められた宝玉を救い出して、世にその輝きを見せつけることができたなら、と。

 もしもそのような入れ替わりが実現していたら、私の願いも叶っていたのかもしれませんね。


 そうです。叶わなかったのですよ。

 私は、あの御方から何を頼まれても命じられてもおりません。ただ、愛をさえずる小鳥のように歌い交わしただけです。それで何かを通じた気になるのは思い上がりというものでしょう。


 第一──であったなら、今、申し上げたようなことは決して口にしないはずです。鳥籠カフェスのことなど何ひとつ知らぬ、近づいてさえいない、と。そういうことにしなければならないからです。間違っても、身代わりを引き受けかねなかった、などとは口にしてはならなかったでしょうに。

 あの御方の歌やお声をほめそやすのも、理にそぐわぬことです。楽を好まれる囚人おうじがいらっしゃったのは、隠れのない事実ではあるのでしょうが、そうだとしても取り立てて記憶に残ってはいないと言わなければなりません。


 わざわざ疑われるようなことを申したのは、それが真実だからです。言い逃れで嘘偽りを述べては、あの声の輝きを曇らせるのではないかと恐れたからです。

 貴方様や、貴方様を遣わした御方に申し上げても分かってはいただけないのでしょうが、あの声はただの楽師に紡げるものではございませんでした。もっと神々しくて眩しくて、視界を閉ざした闇をも照らし出すようで。豊かで、清らかで、恵みのようで。美しかった。かけがえようもなく、尊かった。


 鳥籠カフェスで──あの御方は最期まで歌っていらっしゃったのでしょう。だからこそ貴方様がたは入れ替わりなどと思いつかれたのでしょう。

 ですが、歌が上手かったのだ、などとは短絡にもほどがある。そのような考えはあの御方への侮辱、冒涜だ。貴方様がたはあの御方の命を奪ったのに、そのうえ、まだ辱めようというのですか。


 無礼を罰するというならご随意に。皇帝スルタンへの放言によって死を賜るなら、つまりは下らぬ嫌疑は取り下げられるということなのでしょうね? 私が鳥籠カフェスを逃れた皇子だ、などという。ならば本望というものです。


 私の命などどうでも良いことです。貴方様は、いちど私を舞い上がらせておいて地獄に叩き落としたのにお気づきでしょうか。あの御方を懐かしむことができたと思ったら、あの御方にことを突き付けるなんて。

 そうだ、私は身代わりを申し出るべきだった。そうして後は口を閉ざして、黙って毒の杯を干せば良かった。正気を失うか息絶えるか、その前に世を騒がせる楽師の噂を聞くことができれば、それで満足できたでしょうに。


 でも、そうはならなかった。あの御方は鳥籠カフェスの中で歌い続けることを選ばれた。

 それが、あの御方の幸福だったのでしょうか。

 私は──信じていただけなかったのでしょうか。それとも、囚われた御方には羽ばたくことすら思い浮かばなかった? ならばやはり、何としてでも私から申し上げるべきだったのに。


 どうして今になって気付かせたのでしょう。もう遅いのに。もう何もできないのに。


 それで皇帝スルタンのお心が安らぐならば、私の命を奪えば良いのです。どうせ、兄君を逃していたことも、改めて始末したことも、公表できることではないでしょう。鳥籠カフェスに妙なる歌声を響かせた囚人がいたことが後宮ハレムに密やかに伝えられるなら。それさえ叶うなら、私はほかには望みません。


 狂った望みだとは思いません。ただ、貴方様がたには理解できぬというだけのこと。皇帝スルタンも、鳥籠カフェスに囚われていた間はあの御方の歌を耳にされたこともあったでしょうに。慰められることは──なかったのでしょうね。ただ、帝位への道を妨げる者の煩い鳴き声と思われたのでしょうか。

 いえ、帝位を得ぬ限りは鳥籠カフェスから出られぬ定めであれば、それも仕方のないことなのかもしれませんが。皇帝スルタンにとっては、兄君を除くことこそが鳥籠カフェスを出る唯一の手段だったのでしょうから。


 皇帝スルタンも、あの御方の歌を? 貴方様に語ったことがおありだと仰るのですか? みずから手にかけた兄君について、いったいどのように?




 おのれであって皇子では。誤って──はかられて鳥籠カフェスに閉じ込められた。その証に習ったことのない弦楽器ウードを弾いてみせると言い張った。




 …………お可哀想に。私の演奏があの御方のお心にあり得ぬ妄想を植え付けてしまったのですね。

 自らが皇子などに生まれたのではなかったら。弦楽器ウードを手に、身ひとつ、歌声ひとつで世を渡ることができたなら。

 もしかしたら、の生きざまを間近に聞いてしまったがゆえに、ご自身がそうであったなら、と考えてしまわれたのでしょう。


 何ひとつ証拠のないことです。私が述べたこと。が訴えたこと。どちらが真実でどちらが偽りか。妄想か願望か正気か狂気か。


 そう、例えば。皇帝スルタンこそが狂気に囚われていらっしゃるのかも。


 鳥籠カフェスから逃れられぬという恐怖。逃れるためには血を分けたきょうだいを排除せねばならぬという焦燥。のびやかに歌うあの御方のことを妬み羨んだこともあったかもしれません。

 そうした想いが、入れ替わった楽師、などという妄想に結実したのでは? 違う、と──なぜ、何を根拠に言えるのですか?


 貴方様が知る──知っていると信じていることは、すべて幻でしかないのですよ。目で見たものがすべてではないと、最初に申しましたでしょう。聞いただけのことなど、さらに不確かであやふやなものではないのですか?

 閉ざされた鳥籠カフェスに響いたのが歌声なのか悲鳴なのか呪詛じゅそなのか、今となっては確かめる術はありません。


 おや、狂人の命を免じられると仰いますか。わけの分からぬことを言い立てる下賤の者ゆえ捨て置く、と? 皇帝スルタンはそれでご納得されましょうか。貴方様がご不興を被るようなことは?


 ご理解いただけたのならば、たいへん嬉しく思います。何ひとつ確かでないのならば、美しい物語を真実とすべきなのですよ。

 鳥籠カフェスに妙なる歌を響かせた御方がかつていた。囚われの身を嘆くことなく、声だけは自由に羽ばたかせた御方。肉体は鳥籠カフェスに朽ちても、その歌はもしかすると長く語り継がれるのかもしれない。もしも私が生かされて、語り、歌うことを許されたなら。


 ええ、私は楽師。歌を生業なりわいにするもの。声と言葉と調べによって美しい物語を紡ぐのが私の務め。私が紡いだ物語がお気に召していただけたなら、このうえない光栄というものです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鳥籠《カフェス》に響くは囚人の歌 悠井すみれ @Veilchen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ