翠嵐のころ —入院病棟の怪—

皐月あやめ

入院病棟の怪

 初夏の太陽に包まれた校舎が賑やかで開放的な空気を放出している。

 リノリウムの廊下や階段の踊り場、昇降口。

 あちらこちらから聴こえる生徒たちの明るい笑い声に触発されたかのように、あたしの心も眩しい光に向かって走り出しそうだった。

 とうとう明日から夏休みだ。

 あたしにとっては中学生になって初めての夏休みが始まる。


 北海道K市にある殆どの公立中学校は、今日が一学期の終業式だ。

 夏休み中にある部活動に参加できないのは少し残念だけれど、毎日読書し放題、絵だって描き放題だし、夏には怪奇特集番組だって、お祭りだってある。

 楽しいことだらけだ。

 あたしはいつもより重たい指定カバンを肩に掛け直し、足取りも軽く廊下を進む。

 まだ午前中の明るい日差しが窓枠にぶつかってキラキラ弾けている。

 開け放たれた窓から風にのって聞こえてくる音色は、吹奏楽部が最近よく練習している女性アーティストの曲だ。その曲を小さく口ずさみながら昇降口に向かって歩いていると、背後から呼び止められた。

成宮なるみや、ちょっと」

 振り向くとクラス担任の青木あおきが廊下の隅でちょいちょいと手招きしている。

 先輩の話によると、年中ワイシャツの上にくたびれた白衣を着用し続けているという痩せぎすな理科教師の青木は、まだ四十代半ばだと言うのに頭頂部に残された頭髪は僅かばかりで、口の悪い生徒からは陰で『青ハゲ』と呼ばれている。

 もちろんあたしもそう呼んでいる。

「成宮おまえ、廣安ひろやすと仲いいのか?」

「はぁ?」

 担任からの突然の問いかけに思わず眉根が寄ってしまう。廣安とは同じクラスの女子生徒の名前だった。

「なしてそんなこと聞くん——」

 ですか?と返そうとしたその時、ふと鼻先をかすめるに意識が持っていかれて、次の言葉が喉奥に引っ掛かる。

 あたしは匂いの出所を探して視線を宙に彷徨わせた。

 青木が怪訝な表情かおであたしのことを見ているが、今はそんなことは気にならない。

 匂いの出所はすぐに見つかった——青木だ。

 目の前に立つ青木からは、普段の彼からは嗅いだことがないの匂いがしていた。

 


 *



「成宮さんのベッドはここね。荷物置いたらお部屋で待っててください。後で血圧計りに来ますからね」

「はい、よろしくお願いします」

 看護師の説明に母親が応えて、さっそく荷物を解きにかかる。

「洗面道具は棚のここに入れたからね。着替えとタオルはここ。聞いてんの?」

「ん〜」

 床頭台に入院生活に必要な物を仕舞い込んでいる母親に適当な返事をして、あたしはベッドの上に大きめのスポーツバッグをボスンと下ろした。

 ぐるりとその白い部屋を見渡す。

 大きな窓は風通しのために開けられているが、当然ベランダはなく転落防止用の柵でガードされている。

 四床のベッド。そのひとつひとつがカーテンで仕切られ、小さなプライベート空間を作り出していた。カーテンに人影が淡く揺れて、静かな室内ながら自分以外の入院患者の存在を実感させる。

 そう、ここは入院病棟だ。

 あたしは今日からここに入院する。

 とは言え、去年も同じ病棟に入院した。今回で二度目だ。そのせいか、なんとなく懐かしさのような空気を感じる。

 そんなあたしを他所にテキパキと動いている母親が、古い目覚まし時計をゴトリと置いた。文字盤に蛍光塗料が塗られていて、暗闇でも光って時刻がすぐに分かるタイプで、便利だとは思うが十三歳が持つには恥ずかしくて友達には見られたくない代物だった。

 まぁね、お見舞いに来てくれるほど仲のいい友達は一学期中にはできなかったし、別にいんだけどさ。

 去年はバレーボール部の部員を中心に誰かしらお見舞いに来てくれたな、なんて思いながら、あたしは自分の荷物を整理し始めた。


 小学校時代バレーボール部に所属していたあたしは、六年生になってすぐの部活中にちょっとした事故から右腕を骨折するという怪我を負ってしまった。その時に運ばれたのがこのN総合病院で、骨折箇所をボルトで留める手術を受けた。

 それから数週間入院し、退院後も通院する こと一年間。未だ右腕に埋まったまんまのボルトを外す手術を受けるため、あたしは中学初の夏休みにN総合病院の三階フロア——整形外科病棟を訪れていた。

 今日から二週間程度の入院生活が始まる。


 それにしても大きな病院にはいろいろな施設があるらしい。今回の入院は二回目だが、前回はとにかく右腕が痛く、ギブスもガッツリ巻かれ動きにくいこともあり、殆どベッドで過ごしていたのだ。

 その分、今回は病院内を探検をしようと思っている。

 担当医からも術後は運動不足解消に、なるべく動くようにとも言われていることだし。

 思えば不思議なほど入院や手術に対する不安や緊張感などはまるでなかった。

 逆になんだか楽しみな感じ。

 そう思いながら自分のバッグからノートに原稿用紙、ペンケース、文庫本などを取り出す。

「よし!」

 ベッド周りに必要な物をセットして、入院用に新調した部屋着にも着替えて、自分の居場所が出来上がった。

 3階の310号室。四人部屋。病室の扉を背に、向かって右側の一番手前のベッドが今日からあたしの城だ——この時のあたしは、普段とは全然違う生活、が始まるのがきっと嬉しくて、だからこんなにも浮かれ気味だったのかもしれない。



 *



 それから数日。手術もつつがなく終了し、術後の経過も順調。抜糸が済んだら予定通り退院とのお達しが出た。

 病院内探検も順調だった。

 最上階の展望レストランから地下の霊安室まで、ひと通りお散歩気分で覗き歩いた。

 さすがに霊安室は扉の前まで。地下にあるせいか気分の問題か、なぜかその空間だけやたらと空気が冷え切っていて若干ビビってしまったのは内緒だ。

 それからいちばん気になったのは一階に発見した喫茶店だった。一階にあるのは売店とか理容室くらいだと思っていたら、奥まったスペースに喫茶店があるじゃないか。店名は『リズム』——うう、入ってみたい。

 ショーウィンドウにディスプレイされた白いコーヒーカップと無造作に配置された珈琲豆は、よく分からないけれど大人っぽくてイカしてる。

 スパゲッティナポリタンに、マカロニグラタン。エビピラフにミックスピザも素敵だ。クリームソーダ。チョコレートパフェ!

 夢いっぱいの喫茶『リズム』だったが子供ひとりで入店できる筈もなく、後ろ髪を引かる思いで病室へと戻った。


 310号室前の廊下でちょうどトイレに立った同室のおばさんとすれ違い、軽く会釈する。

「おかえり〜。一階はどうだった?」

「外来なまら混んでました」

 あたしは行き先がバレてるなと思いつつ、適当にはぐらかす。

 正直に言うとあたしは、人付き合いが得意じゃない。外面はいいくせに人見知りだ。クラスでも一応グループには所属しているけれど、それだって同じ小学校出身者がとりあえず集まっただけで、すごく仲良しって訳じゃない。

 そんなあたしでも同室の患者さんたちと挨拶やお天気の話題くらいはできるようになっていた。

 あたしの隣で窓際のベッドは五十代のおばちゃんで、左脚を骨折して長期入院とのことだった。ギプスを巻かれ高い位置で固定されている左脚が痛々しい。

 おばちゃんの向かい側、窓を背に右のベッドは今すれ違った三十代のおばさん。左手を怪我しており、手首から先が包帯でぐるぐる巻きになっている。

 おばさんの隣であたしのお向かいさんは、八十代とも九十代ともつかないお婆さんだ。一日中着用している病院のパジャマから覗く手足に包帯や怪我の痕は見当たらない。なので、どこが良くないのか分からない。挨拶はするが基本、口数が少なくて一日の大半はカーテンで覆ったベッドの上で過ごしている。


 ——この部屋が悪かったのか、それとも偶々だったのか。

 思い出したくもない、恐怖の一夜が始まろうとしていた。



 *



 夕食後、あたしは夏休みの宿題に取り掛かった。多少、術後の痛みはあるものの右腕自体は動かせるので、読書感想文を書き上げたあたしは、ふと終業式の日のことを思い出していた。

 ——廣安と仲いいのか?

 青木の声が耳に蘇る。

 廣安聖子  せいこ——あたしのクラスメイトで、抜けるような白い肌と大きなタレ目、それと笑った時に両頬にできるエクボが印象的な、アイドル系の美少女。

 そんな聖子は、本物の不良少女だった。

 柔らかい茶髪。でもそれはひと目見れば地毛だと分かる。けれども可愛い顔によく似合う明るいショートボブは、案の定、上級生の女子生徒たちの反感を買った。

 聖子は当然のように目をつけられて何度かを食らっていた。それでも一向に気にする素振りも見せず、おまけに一年生ながら長いスカートを引き摺り堂々と校内を歩く姿は、恐いもの知らずに見えたし、本音を言うと少しだけ恐かった。

 一学期もゴールデンウィークまでは休みなく出席していた聖子だったが、連休が明けてからは休みがちになり、終業式も当然のように遅刻して来て、通知表をもらってホームルームが終わるや否や、もうその姿はどこにもなかった。


 そんな子と、住む世界がまるで違うあたしが仲良く見えるのか。

 実際のところ、狭くて浅い人間関係しか構築できないあたしと、教室でも特別視されている聖子は、よくふたりで話したりしていた。

 と言っても聖子が教室に居る間だけだったが。

 話すきっかけは単純に背の順で前後になったから。あたしが女子のいちばん後ろで、聖子が二番目。最初に話しかけてきたのは聖子の方だった。

「成宮あやちゃんてゆぅの?デッカいね!どこ小?あたしのこと、セェコって呼んでね。S小出身だよぉ」

 舌足らずに喋る美少女が親しげに接してくれて、あたしは内心で舞い上がった。

 程なくして他のクラスにも素行不良な女子生徒たちが現れて、気づけば聖子もその子たちとつるむようになっていたが、教室内ではあたしに対して気さくに話しかけてくれるのは、相変わらずだった。

 本当は聖子がどう思っているのかは分からない。あたしを構うのは単なる気まぐれ、暇つぶし程度なのかも。

 でもあたしは、友達だって思いたかった。

 ——青ハゲのヤツ、よく見てやがる。

 青木。クラス担任。白衣の理科教師。

 寂しい頭髪。飛び出た頬骨に青白い肌。

 ——線香臭かったな。

 あたしはとして識っていた。線香の匂いがする時、そこには必ずがある。

 その夜あたしは、久々に嫌な予感を抱えて眠ることになった。

 

 深夜、突然の光に目が覚めた。

 光源を探ると枕灯がなぜか点いていて、あたしは慌ててスイッチに手を伸ばす。

 カーテンから明かりが漏れて、隣のベッドのおばちゃんを起こしてしまわないかとひやひやしながら電気を消した。

 床頭台に置かれた目覚まし時計の文字盤が『02:14』を表示していて、思わずギクリと眼を見張る。横隔膜のあたりがギュウっと引き絞られて苦いモノが食道から迫り上がってきた。

 慌てて視界を覆うように薄い布団をかけ直す。

 ヤバい。丑三つ時じゃんか!

 なんでこんな時間に突然電気が——そう思ったその時。


 ――コンコン。


 深夜の入院病棟の扉が、密やかにノックされたのだった。



 *



 初め、看護師の巡回だろうと思われたはとても小さな響きで、聞き逃してしまいそうなほどにひっそりとした音だった。


 ——コンコン。


 そのノック音を意識した途端、あたしはなぜか違和感を覚えて扉に視線を向ける。


 コンコン。


 看護師さん、だよね?コレ……。


 コンコン。

 コンコン。


 ノックの回数が増えた。音も大きくなっているようだ。


 コンコンコン。


 ——何かおかしい。

 なして入って来ないの?そんな強く叩いたらみんな起きちゃうべさ。


 コンコンコン。

 コンコンコンコンコン。


 まるで急かすかのように素早いノック音が響いて、あたしは慌てた。

 もしかしたら開けて欲しいのではないか。

 開けた方が良いのではないか。

 あれ?巡回ってそんなだったっけ?

 看護師が静かに入って来て、さっと懐中電灯で中を確認していくモンなんじゃ?

 それに、もっとなんて言うか……。

 あたしは扉をじいっと見据えたまま、違和感の正体を探った。


 コンコンコン!コンコンコン!

 コンコンコン!コンコンコン!


 今やノック音は病棟中に響き渡っているのではないかと思うほどに大きく打ち鳴らされていた。

 ヤバい。なにこれ。ヤバいヤバい!

 目と鼻の先にある扉から視線が剥がせない。

 ノックの主が痺れを切らして扉を開けてしまったらどうしよう。

 ——いや、違う。

 違う違う、もしかしてこの音、……?

 あたしが違和感の正体に気づきかけたその時だった。


 ——バン!!


 背後の窓ガラスが、何者かの手によって一際強く叩きつけられたのだった。



 *



「ヒッ!」

 喉の奥から悲鳴が漏れて、あたしは反射的に口を押さえた。頭まで布団を引っ張り上げて背中を丸める。

 

 バンバンバンバン!

 ドン!ドン!


 間違いない。間違えようがなかった。

 誰かが窓ガラスを外側からめちゃくちゃに殴りつけている。

 白い遮光カーテンの向こう、更に窓ガラスを隔てたその向こう側に立つ人影を想像して、身体中の産毛がぶわりと逆立つ。

 ありえない。ここは、この310号室は三階にあるのに。なのに——


 バン!ドンドンドン!


 やめてぇッ!!

 あたしはきつく目を瞑り、肩で耳を塞ぐようにしながら布団の端をギュッと握り締めた。この手だけは離してはいけないような気がしていた。


 ——ゔゔ、ゔ……。


 その時、微かな呻き声が耳元をかすめた。

 誰かがうなされている?あたしのように目を覚ました人がいるのかも。


 ドンドンドンドンドンドン!

 バンバンバンバン!ドンドンドン!


 その人にもが聞こえているのかな。

 この——


 ゔゔゔ……ぅぁぁあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛


 地の底から響いてくるような不気味なその声は、男とも女ともつかず野太くひび割れ、鼓膜を貫通して脳味噌をギリギリと引っ掻いた。

 気持ち悪い。こんなの、生きているヒトの声じゃ、ない。


 あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛

 ドンドンドン!!ドンドンドン!!

 ぐぅあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!

 ドン!ドン!ドン!バンバン!バン!!


 今や割れんばかりの怒号と破裂音が病室内に吹き荒れていた。

 嫌だ、どうしよう、いやだいやだ!

 もうやだぁッ!!


 がぁあ゛あ゛あ゛ッッ!!!


 禍々しくどす黒い咆哮が放たれた次の瞬間——

 

 ゴォンッ!!!


 窓ガラスが一際激しく鳴り響き——そして、しんと静寂が訪れた。


 唐突に始まった怪奇現象は、始まった時と同じくらい唐突に終わりを迎えたのだった。

 どれくらいそうしていただろうか。あたしは力み過ぎてゴチゴチに強張った肩甲骨を無理やり動かし、布団から亀のようにのそりと首を少しだけ伸ばして、薄目を開けて恐る恐る辺りを伺った。

 真っ先に視界に入ったのは緑色に光る時計の文字盤。

 『02 : 15』——目覚めたときに確認した時間は『02 : 14』だった。永遠に続くかと思う程に恐ろしく長かったあの時間が、たったの一分間の出来事だったなんて。

 ああ、そうか——幻だ。

 すべて幻聴だったのだ。

 ぐらりと視界が揺れて、あたしは意識を手放した。



 *



 翌朝、検温に来た看護師に叩き起こされたあたしは、病室内の様子がいつもと違うことに気がついた。

 遮光カーテンは看護師の手によって開けられて夏の眩しい朝日がいっぱいに射し込んでいるのに、どことなく空気が澱んでいる。

 いつもなら真っ先に隣のおばちゃんがおはようと挨拶してくれるのに、今朝はそれがない。

 看護師が、みんな元気ないわねぇ、寝不足?などと首を捻りながら退室して行った。

 どうしたんだろう……。

 あたしは訝しみながらも洗顔のためにベッドから降りた。なるべく窓の方は見ないようにしなきゃと思うのに意識がそちらに引っ張られてしまう。

「あやちゃん」

 突然声をかけられ、背中がビクンと跳ねた。

 あたしが油の切れたロボットのおもちゃみたいにギクシャクと振り返ると、おばちゃんがベッドから身を起こしてこちらを見ていた。

 その双眸は不安気に揺れている。

「おはよう、ございま……」

「昨夜のこと、覚えてる?」

 蚊の鳴くようなあたしの挨拶を遮り、おばちゃんが言った。

「あやちゃん夜中に電気点けたでしょう。あれ、なして?何かあったの?」

「……え、ナニかって……?」

 おばちゃんの問い詰めるような口調に嫌でもが思い出されて、一瞬で頭が真っ白になった。

 ドクドクと動悸が走る。

「あ、アレは、電気が勝手に点いて……」

 言ってから、しまったと後悔した。普通に考えて電気が勝手に点く訳がない。頭のおかしな子だと思われた。

 でもなぜそんなこと聞くの?アレはあたしだけが体感した幻聴のはずなのに。

 ああでも、一体どこからが幻だったのか——

「待って。電気が勝手に点いたって」

 突然、おばさんの声が割って入った。見ると仕切りのカーテンを開いて物凄い形相であたしを睨みつけている。そのままベッドから降りてあたしの目の前に立ったおばさんの得も言われぬ迫力に、あたしの身体は石のように固まってしまった。

 そんなあたしを尻目におばさんとおばちゃんが目線を合わせる。

 その貌はどちらも蒼白だった。おばさんは自らの二の腕を両手でさすり首を竦めている。

 おばちゃんは口を半開きにして、ああ、やっぱり、と呻いた。

 そんなふたりを見遣りながら、あたしは、昨夜の出来事が幻なんかじゃなかったことを思い知らされたのだった。


「あれ、どうしたの、みんなして」

 扉側から呑気な声がして驚いて振り向くと、あたしの背後にお婆さんが立っていた。

 どうやらいつの間にか洗面を終わらせて戻って来たらしい、キョトンとした表情であたしたちを見上げている。

「お婆ちゃん!お婆ちゃんは聴かなかった?!夜中のアレ!!」

 おばちゃんが唾を飛ばす勢いで捲し立て説明し始めたその内容は、あたしの体験と殆ど一緒だった。

「変な音?さあ、聞いてないねぇ」

 小首を傾げたお婆さんに対しての大人ふたりが落胆とも羨望ともとれる溜息を吐いた。きっとあたしも似たような反応をしたと思う。

 けれど同室にいてこの差はなんだろう。お婆さんとあたしたち三人の違いなんて——

「その時間なら起きてたけどねぇ。ちゃんと仏様にお教をあげてたんだけど」

 お婆さんが緩やかに微笑んだ。誰にともなくこっちこっちと手招きする。

「アタシね、毎晩ね、二時から三時にかけてね、お経を唱えているんですよぉ」

 言いながらお婆さんは自分のベッドを仕切るカーテンを緩慢な動きで開けると、脇にある床頭台上部の観音扉を、やけに丁寧に開いた。

「!!」

 ソレを見たあたしたちは、全員が絶句した。

 そこには——数珠と経本と、誰のモノかも知れないがそっと置かれていたのだった。

「——ね?」

 皺だらけの貌をくしゃくしゃに歪めて笑いながら、お婆さんが濁った眼であたしたちを見渡した。



 *



 それから、いつも通りの一日が始まった。

 朝食、薬や点滴、担当医の回診、昼食。

 病室になんか居たくもないのに、どうしてもベッドから離れられない理由があった。

 それでもあたしは隙間時間にこうしてデイルームまで逃げ出せるのだから、まだマシだろう。他の人はどうしているのか。特に脚を怪我しているおばちゃんは自由に動いたりできないし、あの病室でお婆さんと一緒に……。

 いや、お婆さんは何も悪くない。にお婆さんは関係ないのだ。

 もう、訳が分からない。

 ダメだ。やめよう考えるのは。怖い話は好きだけど、怖すぎる体験はちょっと、今夜もあの病室で眠らなきゃいけないのに……。

 あたしは、部屋から持って来た文庫本を一行も読み進められずに、開いたままのページに溜息をこぼした。


 午後二時を過ぎたデイルームは、見舞客と患者さんがそれなりに居てざわざわとしている。この喧騒が今はありがたい。院内散歩の気分でもないし——

「いたいた、成宮さーん」

 呼ばれて顔を上げると看護師が近づいて来て、病室の方を指差して笑顔で告げた。

「お見舞い、お友達来てるよ」

 ——えっ?あたしに友達の見舞い⁈

 慌てて立ち上がり指し示された廊下を覗くと、310号室の前にふたりの少女が立っていた。

 ひとりは明るいショートカットのスラリとした美少女。

 もうひとりは小柄でぽっちゃり、襟足にちっちゃなポニーテールの——

「聖子に、お、岡本おかもとさん?」

 突然のクラスメイトの訪問、しかもそれが聖子と、彼女とは正反対な真面目少女の岡本望    のぞみで、あたしは心底驚いた。

 なぜか顔がカッと火照る。心臓までドキドキしてきた。そのおかげで、あたしの恐怖心は一瞬にして吹き飛んだのだった。


「あやちゃーん、元気じゃーん!入院したって岡本おかもっちゃんから聞いて、なまらビビったしょやー」

 重苦しかった病室内に、聖子の朗らかな声が響き渡る。聖子が笑うたびに空気が澄んでいくようで、美少女には空気清浄機能でも搭載されているのかと本気で思ってしまいそうだ。

 そんな聖子とふたりベッドに並んで座り、岡本さんには椅子をすすめた。けれど岡本さんは扉付近に立ったまま、忙しく視線を彷徨わせている。病室が珍しいのだろうか。

 意外な組み合わせに思えたふたりだったが、小学五年生からの同級生だったらしい。

「でも驚いたよ。なしてここが分かったの?」

 入院については担任や同じ部活のみんなには報告していたけれど、クラス全体に伝えたわけではなかった。

「わたしがね、青ハゲから聞いたんだけど……」

「青ハゲ?いつ?」

 定まらない視線で岡本さんが言った。

「うん、あの……」

 岡本さんが意を決したかのようにあたしと聖子を順番に見ると、顔を近づけてくる。自然とあたしたちも岡本さんに顔を近づけると、ヒソヒソ話の姿勢になった。

「ねえ、ここってなんかあった?昔、死んだ人がいたりとか……」

 岡本さんが囁いた瞬間、横隔膜がギクリと締まる。忘れかけた恐怖心が戻りかけたその時。

「バカだなぁ岡本っちゃん。病院なんだからそんなの当たり前じゃーん?病気で助からなかった人とか、フツーにいるってぇ」

 あっけらかんとした聖子の言葉に、あたしはなんだか目から鱗が剥がれ落ちた気がした。

 そうだ、ここは病院だ。良くも悪くも死と隣り合わせの場所だった。

 がいつ起こっても不思議じゃない場所なんだ。

 岡本さんは、そうだよねなんて相槌を打っているけれど、居心地が悪そうにもじもじしている。もしかしたら岡本さんて、霊感とかがあったりして……?

「あ、あのさ。よかったら、なんだけど……」

 あたしは珍しく勇気を出して、ふたりにある提案をしてみたのだった。


「でさ、セェコってば終業式も速攻帰ったしょや。溜まったプリントとか置きっぱで。したら青ハゲがわたしに届けてくれって言ってきてさ。家も知ってるし、まぁいっかなって」

 場所を変えた途端、岡本さんが流暢に話し始めた。真面目だけれど明るくて友達も多い印象そのままの感じだ。

 『リズム』に誘ってよかったかも。

「その時さ、青ハゲに成宮さん入院すること知ってるかって聞かれてさ」

「もぅ、あやちゃん教えてくれないんだも」

「いや、聖子ほぼ学校来てないし」

 岡本さんが吹き出して、三人で笑い合った。

 あたしたちの目の前には、しゅわしゅわと弾けたクリームソーダが並んでいる。

 最初は子供だけで入店したら怒られるかと思ったけど、そんなことはなかった。ちゃんとお客様として、こうして楽しい時間を過ごせている。

「あたしも青ハゲに言われたよ。終業式の日」

 ふたりの視線がこちらに集中する。メロン味の炭酸で喉を潤し、あたしは言った。

「廣安とこのまま仲良くしてやってくれって。聖子、もっと学校おいでよ」

 聖子が長いスプーンでアイスを掬いながら、そうだねぇ、と呟いた。

「とりあえず、始業式は行く」

「遅刻早退、禁止ね」

 すかさず岡本さんが突っ込んで、聖子がムリーと泣きを入れて、あたしはお腹の底から笑った。


 それからはおかしなことは何も起こらず、あたしは無事に退院した。



 *



 始業式は生憎の雨だった。

 聖子の登校が気になったけれど、遅刻ギリギリで教室に現れた姿を見て、あたしと岡本さんは密かに目配せをしてよしと頷きあった。

 始業のチャイムが鳴る。

 教室の扉が開き、入って来たのは果たして白衣の理科教師ではなかった。

「おはようございます」

 凛とした声音に教室中が静まり返る。

 ポロシャツにジャージ姿の女教師、副担任の早川はやかわが教壇に立っている。

「青木先生ですが、ご家庭の事情でしばらくの間学校をお休みすることになりました。戻られるまでの間、私がこのクラスの担任を務めます」

 早川の声が遠ざかる。

 青木。線香の匂いがしていた。

 線香の匂いには、いつだって死の影が付き纏う。

 あたしは識っていた。

 識っていたじゃないか——


 青木休職の噂は一瞬で校内を駆け巡った。

 奥さんが不治の病だとか、いや青木本人がもう助からないだとか色々な憶測が囁かれたが、生徒に真実は知らされないまま日々は慌ただしく過ぎていく。

 そうしていつの間にか誰も青木の話題は口にしなくなっていった。

 結局、あたしが卒業するまで青木が学校に戻ることはなかった。



 了



 

 

 

 

 


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