幻想世界の入口
菊池藍
幻想世界の入口
一. 白無垢の天女
「白無垢の天女は、忘れないように大事なものを守り続けた人の前だけに現れる」
このように、私が幼かった頃に、一度だけ、私のお爺さんから聞いたことがあった。
例えるならば、盲目の犬が雪の中をはしゃぐとする。その犬の目には、視覚的には、色を感じることなどなく、真っ暗な世界が広がっていると、一般的には思われるだろう。
雪の降る地上が白いことも、分からないと思われるだろう。しかし、実際には、その犬の眼には、白無垢の天女が見えているのだ。仮に、そのことに対しては、物理的にはそのようなものは見えないと論を立てざるを得ないだろう。
今、こうして話している私がいるのは、夢の中なのだろうか。
意識が朦朧としていて、現実なのか、特定できない。すると、何処からか声が聞こえてきた。
「見えない、と決めつけた者の前には、天女は現れない」
私に、言葉を言い残し、その場を立ち去った。
天女が目の前に現れた。
白無垢の格好をしていた。
今日。
私は、天女に初めて出会ったのだ。
やはり、今、私がいる場所は、どこか答えることができない。
夢の中、とでも、設定しておこうか。
霧が晴れたように、意識が戻ってきた。
視界が開けて来ると、私の目の前には、駅の地下通路に繋がる階段があった。
階段の途中に、パチンコ屋が見える。今日は七のつく日、スロットデーらしい。
開店前の並んでいる人たちが、通路の片道にずらっと並んでおり、地上までその列が連なっている。
腕時計の時間を確認すると、出勤に遅れそうな時間であったため、急ぎ足で、その列を素通りするように、いつも通り勤務先へ向かった。
地下鉄に乗り、北の方位に位置し、八つ先の駅で降りる。降車駅は、八ヶ丘駅という名の駅で、中心街に隣接している街である。
ペットショップの中にある、トリミング室が私の職場である。
そして毎日、お客様の犬、猫をトリミングさせて頂いている。
出勤の日は仕事が終わると、帰宅途中どこにも寄り道せずに、朝乗ってきた地下鉄に乗り込み最寄り駅で降りる。最寄り駅から、徒歩で自宅まで帰宅する。
今この瞬間、私は仕事の帰り道の途中で立ち止まった。
夜空を見上げると、そこには満月があった。
雲が何重にも重なって、満月が顔を出す度、蛹から蝶に脱皮するかのように、一枚ずつ剥がれていくように段々と明るくなってゆく。
満月は地球を挟んで、月と太陽が真正面に向き合ってできるため、太陽の光を一身に浴びる。
まん丸い形をした満月が、私をゆっくりと月光で照らす。
月光に照らされた私の心は、まさにフルムーンの如く満ちている。
私は急に眠たくなり、近くの公園のベンチに腰を掛けて数十分程仮眠した。
満月の光に照らされながら。
月光下ではいつもとは違う力が働くようで、数十分間の仮眠でさえ月の「力」を大きく感じる。
そして、それは「月光浴」に近いシチュエーションであった。
二. 月の大地
「今日は、何が見える?」と疑問を投げ掛けられた。
一体誰の声かも分からないまま、私は石と岩でできている大地に足をついて、目の前に広がる景色を眺めた。
空は、夜空のまま。
公園のベンチで寝る前に見た空の色と何も変わらず、暗く、黒い。しかし、今、いる「此処」は地球ではない。
大地には、大きなくぼみが存在し、水の存在をすぐには確認できない。人の存在も確認できない。しかし、一人だけ、白い服を着た髪の長い女性がこっちを見て、佇んでいる。
「今、何が見える?」
遠くの方から、彼女の声が僅かに聞こえてきた。
先程聞いた声も彼女の声であろうと確信した。
私はこちらに近づいてくる彼女のことを、ぼうっとした感覚で眺めていると「今、何が見える?」彼女から、先程と同じ言葉を投げ掛けられた。
私は、彼女に対して何と言えば良いか分からなかったので、ただここに佇んでいることしかできなかった。
クレーターのようなものがある大地では、少し風が吹いていて、そこにただ立っていることが難しいくらいの場所に、今私は足をついて、しっかりと意識を働かせている。
彼女は徐々に近づいて来る。
もう少しで彼女の顔がはっきりと見えるくらいの位置で、私は意識が朦朧としてきて、ただ彼女の「今、何が見える?」という言葉の記憶だけを残しその場に倒れ、暗い広い大空を見上げて再び眠りについた。
しばらく時間が経過したのか、私は身体がつめたくなって目を醒まし、背伸びをしてから、寝ていた公園のベンチを後にした。
三.愛の模様
公園から少し歩き続けて帰宅すると、家族の一員である猫がお出迎えしてくれる。
華奢な白猫が待ちくたびれた様な表情をして、にゃーと、一言鳴き甘えてきた。
まさに白無垢の天女のようだ。
側から見たら私の日常は「幻想」のように見えるかもしれない。しかし、私にとってはそれが「現実」である。
現実とは、一人一人が目に見える世界が異なるだろう。
白い雪でおおわれた地上で雪遊びをしたり、水族館で海の生き物を観察したり、ペットと会話したり、「現実」は各々の目の前に、多種多様、千差万別の現象として存在している。
つまり、白無垢の天女が現れることも、また、「現実」の一部であるのだ。
それを私のお爺さんは、密かに知っていたのかも知れない。
私のお爺さんは、生前、地理の勉強を独学で研究していた。
占い師の仕事と、占いの先生の職を手に持ち、生活をしていた。そして、沢山の人々をコンサルタントという仕事で、それぞれ各々の目指す道へと、お客様を導いた。時には、テレビ出演も果たしたそうだ。
おそらく、その中での「人」との出会いで、白無垢の天女が現れたのであろうかと考えられる。
実際のところ、真相は分からない。
一生寄り添い続けてくれた愛妻か、もしかしたら秘密の関係を続けていた彼女のことかもしれない。
それは、お爺さん以外、誰にも分からない真実なのであるが、白無垢の天女と聞くと「花嫁姿」を想起させるため、おそらくは愛妻のこと。
つまり、私のお婆さんのことを指していると思う。
私のお婆さんは、関東の田舎から東京の浅草へ上京し、針仕事をしていた。上京中、東京空襲に見舞われ、大変苦しい生活を強いられていたそうである。
その時代の中で、針仕事で作った服を卸していた卸先、東北の港町で元々呉服屋で働いていたお爺さんと、知人を通してお見合い結婚をしたらしい。
当時、お爺さんとお婆さんがお互いに恋文を送り合っていたことを、私の父からお婆さんが亡くなった日に教えてもらった。
お婆さんの当時の花嫁姿を白無垢の天女と、お爺さんが名付けたのではないかと、私は思っている。
改めて。
真相は、誰にも分からないままである。
四.夢の欠片
大地に降り注ぐ、金色の粒子。
光の雨。
あの日の夢の続きを見たのか。
私は、飼っている猫が枕元にいるのも気づかないくらいに、夢の中で深く眠りについていた。
猫はあくびをして、きょとんとした瞳で私を見つめている。
きっと、猫から見えるこの世界は、残酷な世界なのだろう。
しかし、反対に、希望や、幸せという概念も感じることもできて、猫にとっても私といることが、良い経験、良い生の時間なのだろうとも感じた。
今はまだ、夜遅い時間なのだが、窓を開けて、空気を入れ替えた。
眠気も吹き飛んで、久しぶりに読書でもしようかと思った。
本は、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が本棚にあったので、一頁めくって読み進めた。
読書を続けていると、だいぶ時間が経ったらしく、窓の外は夜明け頃の空色になり、風がまた吹き始めていた。少し疲れてきたので、コーヒーを一杯ドリップし、ごくっと音を立て飲んだ。
今日のコーヒーは、いつもと違い珈琲屋に置いてある海外のコーヒー豆を使った。濃度の濃さも、もちろん海外の濃さではあるが、何といっても香りが香ばしい。
ドリップ式のコーヒーは、朝方に飲むと、なんとも味わい深いのかと、私は思った。
コーヒーを一杯飲み終えて、テーブルの上で脱力しもたれ掛かりながら、部屋の電気を付けてぼうっとしていた。
先程見た夢の続きを、再び考えていた。
名前も、関係も分からない彼女と夢の中で、微笑ましく遊んでいる。
私と彼女は、おそらく同じくらいの年頃で、二十歳は超えているだろうと、流れてきたイメージで分かる。
彼女は私に必死に声をかけて、その話に私は応える。
何気ない会話を、どの関係性かも分からない者同士が繰り広げている。
その様な展開が、夢の中で映像として流れて来た。
その話は、飼い猫と私のストーリーと被るところがある。
大型スーパーの駐車場の片隅に、小さな段ボールに入れられて、たまたま横を通った私が、にゃあにゃあと鳴く猫の鳴き声に引き寄せられて、その段ボールを拾い、それから、猫と私の生活が始まる。
猫と私の、今に至るまでの話に、少し似ていて。
この猫と私は、もしかして、前世で人間同士でパートナーだったのかと、思わざるを得ない関係性にも時々感じる。
布団で一緒に寝たり、夢を見る時には猫が枕元にいたり、私の身体が不調で寝込んでいる時には、ぺろぺろと顔を舐めてくれて、グルーミングしてくれたりと。
当たり前に思うことが、実は、形、現象を変えて、輪廻の中で繰り返し、生まれ変わって行われているのかもしれないと思うことがあるのだ。
地球が誕生した時、もしかしたらそれ以前からも、誰かと何かしらの関係性で繋がっていて、記憶の欠片の一部として、今日まで歴史として繋がって来たのかもしれないと、猫との日常から気づきを得たのであった。
もしかしたらそれは、夢の欠片であり、魂の欠片の一部かもしれないと感じられることである。
夢とは、何かを考えさせられる存在。猫という、不思議な存在である。そして、人間という、不思議な存在である。
地球という、不思議な美しい惑星の物語である。
幻想世界の入口 菊池藍 @star_earth_kr
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