椿繚乱、流れ往く時(三)

 壱流が帰った後も誠一は試作に身が入らないようだった。

 いつもならしないような分量間違いや材料の取りこぼし、失敗が続いたので初日は寅助の「できない時はやるな」という厳しくも暖かい助言により打ち切りとなった。

 しかし翌日になると誠一はいつもの様子に戻り、朝からカステラケーキの試作に打ち込んでいた。

 誠一は笑顔だったが何かを堪えているようにも見え、同時に「聞かないでくれ」と言われているようにも感じた。

 結局いつも通り赤字の帳簿を付け、呼ばれれば誠一の手伝いをして過ごした。

 気分はどうあれ通常営業とカステラケーキの試作を続け、きちんと仕上げて村上にも見てもらい完成となった。

 そしてやって来た村上の父の誕生日当日、黒田彩菓茶房は貸し切りでパーティを開くことになった。昼食も兼ねようということになり、開始時刻は十二時だ。

 時計が十二時を示すと、黒田彩菓茶房の扉が元気よく開かれる。


「お邪魔します! 父さん、さあさあ! 準備はできてるよ!」

「良い年をしてそう急くな。失礼しま――お、おお? 壱流君、随分と雰囲気が変わったね。穏やかになってまあ」


 村上の父は入って来るや否や、今一番聞きたくない男の名前を口にした。

 薫子と誠一が纏う空気にぴきっとひびが入る。


(な~んで今その名前が出て来るのよ! もー!)


 薫子は焦って誠一の顔色を窺うが、さすが誠一は冷静で穏やかに微笑んでいる。


「壱流をご存じでいらっしゃるんですね。僕は誠一といいます。壱流は兄です」

「弟? なんと。弟がいたのか。そいつは知らなかったな。そうか。噂に聞く二代目マスターは壱流君と随分違うと思ってたんだ。そうかそうか」


 村上の父は何故か安心したようにほっと息を吐いた。


(壱流さんを知ってるも人いるんだ。マスターとは入れ違いなのよね。いや、入れ違いとは言ってないか……)


 誠一と壱流、誠一の祖母がどういった流れで人生のいつ頃を黒田彩菓茶房で過ごしたのか具体的には聞いたことが無い。

 けれど寅助のように昔から黒田彩菓茶房を知っている人物は薫子以上に知っている事があるのだろう。それは少し気になったが、誠一にとんっと肩を叩かれた。


「薫子さん。ケーキの準備をして貰えますか。僕は珈琲を淹れます」

「あ、はいっ! 村上さん。今日は貸し切りです。ゆっくり楽しんでくださいね!」


 余計なことを考えないように、薫子は意識をカステラケーキに集中させた。

 試作に試作を重ね、本番用に昨日の晩から今朝まで準備を続けた懇親の一作だ。

 村上の父の前に誠一の祖母の再現をしたカステラケーキをゆっくりと置く。


「おお! これは凄い! 百合子さんのカステラケーキだ!」


 ケーキを置いたと同時に、村上の父は立ち上がりかぶりつくようにカステラケーキを覗き込んだ。その勢いはいつもの寅助にも負けず劣らずだ。


(百合子さんっていうのがマスターのお祖母様? 花のお名前はぴったりね)


 初めて聞く名前で、横目に誠一を見ると変わらず笑顔を浮かべている。

 けれど仄に空気が重いように感じられて、薫子はそっと視線を村上の父に戻した。


「懐かしいなあ、この桃色。百合子さんの生け花菓子はみんな大好きでしたよ。百合子さんが歌いながら活ける姿も声も美しくて、男は皆虜になったもんだ」

「そう言っていただければ嬉しいです。見たことが無かったので再現できるか自信がなかったんです。文字の記録だけでは感覚を共有できているかも分からない」

「そのものだよ! いやあ、誠一君は顔も技術も百合子さんによく似てるんだね。壱流君は全然似てなかったけど父親似なのかな」

「壱流は腹違いですからね。そんなことより今日は村上さんのお祝いです。これは僕から贈らせてください」

「おお……! これは凄い! 宝石が花束になったようだ!」


 誠一が差し出したのは、誠一なりに作り上げたカステラケーキだ。

 土台は同じカステラだが、ふんわりとバニラやフルーツの芳醇な香りが漂う。

 カステラを彩るのは食用花ではなく、誠一が得意とするバタークリームの花と花の形に切った果物だ。飴を纏う多彩な果物たちはきらきらと輝いている。

 ルビーに見まごう大粒の苺と、散りばめられたブルーベリーは紺碧の星座だ。

 彩りと形状が花のように咲き誇る果物は繊細に絡み合い、まるで大胆なアートのようだった。


「艶やかな果物は百合子さんと同じだね。バタークリームの花というのは噂で聞いていたんだよ。百合子さんがよくそんなことを言っていただろう?」

「僕は直接聞いたことは無いんです。ただ花が好きな人だったので、時代に相応しい花を作ることができればと」

「さすが黒田彩菓茶房のマスターだ。代が変わっても志は同じだね。いやね、百合子さんがいないこの店に来るのは辛かったんだよ。でも来てよかった。やっぱりここは黒田彩菓茶房だ」

「有難うございます。当時を知るお客様にそう言っていただければ僕も少しは自身が持てます。よろしければお召し上がりください」


 誠一は宝石の花束に包丁を入れ、村上の父の前に出す。村上にも差し出すと、一口口に含んだ親子の笑顔で空気が明るくなっていく。

 周りに花が咲いたような賑わいに誠一も幸せそうに微笑んでいるが、薫子の心には村上の父の言葉が気にかかった。


(お客さんまで辛くなるようなことがあったってこと? 壱流さんがいた頃に?)


 気になるのは、誠一が壱流ではないと分かった時に村上の父が見せた、ほっと安心したような顔だ。それは壱流が何か恐ろしいことをしたということではないのか。


(そういやあの人は何で黒田彩菓茶房にいたんだろ。黒田家には関係無い人よね)


 祝いの場だというのに不穏な考えが過ったが、それを問うのは今この場は相応しくないことくらい薫子にも分かっている。

 今日はただ楽しく過ごそうと、薫子は誠一と一緒に商品であるケーキを無料で振る舞い一日を過ごしていった。

 盛り上がれば時が過ぎるのはあっという間で、気が付けば日が暮れていた。

 食べきれなかったカステラケーキは村上親子へ渡し、薫子は誠一と店内の片づけを始めた。


「今日は大成功でしたね! 皆さん喜んでくれてよかった!」

「本当に。上に本を戻してくるので寅助さんの分を梱包しておいてください」

「分かりました。賞味期限が近い焼き菓子も出しちゃいますね」


 誠一は祖母が遺した生け花の本を手に二階へ上がる。倉庫ならぬ元誠一の自宅から持って来た荷物は一まとめにして二階の一室へ置いている。

 薫子はショーケースから明日は売れなくなる、賞味期限が今日までの焼き菓子を取り下げていく。

 すると、きいっと外から扉が開いた。誠一が戻った二階ではなく店の出入り口だ。

 客が入ってきてしまったのかと薫子は断ろうと振り返る。


「申し訳ございません。今日は貸し切りで、営業終了なんです」


 入って来たのは艶がある青いワンピース姿の少女だ。帽子を目深にかぶりっていて顔はあまり見えないが、さらさらと流れる栗色の髪はしなやかだ。

 すっと一歩踏み出す所作は滑らかで、それだけで良い家で教育を受けたお嬢様であることが伝わってくる。

 つい見惚れてしまったが、我に返り薫子は少女に謝罪の意を込めて頭を下げた。

 しかし少女は構わず店内に足を踏み入れ扉を閉めてしまう。


「客ではございませんの。ご挨拶をしにまいりました」

「マスターですか? 今ちょっと席を外してるんです」


 少女はゆっくりと帽子を脱ぎ、薫子はその指先に目を奪われた。

 それは所作の美しさや白い肌――にではない。少女が持っている物に見覚えがあったからだ。

 少女は美しい懐中時計を握っていた。それは田村が修理依頼を請けた懐中時計だ。


(え? あれは壱流さんが持って帰ったはずじゃ……)


 はたと田村の言葉を思い出した。田村は依頼をしてきた人物は青いワンピースに帽子を目深に被ったお嬢さんだと言っていた。


(身なりが良くて言葉も所作も美しい。まさかこの子)


 田村の説明に合致した少女を見つめると、少女はたおやかに微笑んだ。


「私は椿一華。九条家のご子息を唆した庶民の悪女を成敗にまいりましたわ」

「……へぇい?」


 椿一華といえば華族椿家の長女だと壱流は言っていた。

 身なりの良さや上品な所作からしてその名乗りには納得ができるが、が言っていることは納得がいかない。


(つまりマスターを連れ戻しに来たのね。初対面で失礼なのは華族共通なのかしら)


 一華は薫子の頭からつま先までをじろじろと見て、明らかにわざとだと分かるようなため息を吐いた。


「品の無い方。一体どういうおつもりなのかしら。こんな庶民を選ぶだなんて」


 再びため息を吐かれ、前置きも無く喧嘩を売られた薫子は怒りを堪えて微笑んだ。


「さすが華族のお嬢様は態度が大きくていらっしゃいますね。初対面で悪態をつく図太さには感服いたしますわ。とても真似できません。人として」


 喧嘩を売られて黙っているような性格ではない薫子は一華を睨んだ。

 一華も負けじと睨み返し、女二人は火花を散らした。


「いい度胸ですわね。こんな礼儀知らずに壱流様を渡すわけに参りませんわ!」


 一華は下品にも靴の踵をがんっと大きく踏み鳴らした。その振る舞いからは怒りがほとばしっているが、薫子は聞き捨てならないその言葉に身を乗り出した。


「いやいやちょっと待って! 全然貰って欲しくない人の名が聞こえたんですが!」

「まあ! どこまで無礼なのかしら。いいこと? よくお聞きなさい!」


 一華は怒りを隠さず、どすどすと足音を立てて薫子ににじり寄る。

 繊細な髪は歩くだけでふわりと揺れ、一華が勢いをつけて胸を張ると髪も舞う。

 そして一華は宣言した。


「九条壱流様の婚約者はこの私! 壱流様は庶民になんて渡しませんわ!」


 ――面倒臭い!

 一華の明後日の方向を突いた宣言に、億劫な気分が薫子の胸中を占めていた。

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黒田彩菓茶房 その謎美味しくいただきます 蒼衣ユイ @sahen

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