しとねのうた

月 冬香

春の唄

 身体を売る事に、特別な感情など無い。

 私にとってはただ、生きる為の手段。


 本当は、別のものになりたかった。でも、なれなかった。心が死んでしまうと、身体はただの容れ物に過ぎないのだと、知った。私は腐った精神を胸に宿し、日々、脚を開いては男を受け入れていた。


 呪われているかもしれない、この身体で…。




 時羽が陰間の支度を整えた頃、茶屋の主人・伊佐田が部屋にやって来た。

「時羽。悪いが、大室様は今日は顔を見せないそうだ…」

「そうですか…分かりました」

 大室は大店の呉服屋の店主で、もう一年近く、定期的に時羽の元へ通う馴染み客だった。

「いや…もう大室様は、来ないだろうねぇ…」

 伊佐田は渋い顔で腕を組んだ。そして、溜息を盛大に吐いた。

「それは、どういう意味ですか?」

 時羽は眉を顰めた。前回の逢瀬の際に、何か気に障る事でもしたのかと思ったからだ。伊佐田は声色を下げた。

「いずれ耳に入ると思うがね、大室の旦那、首を括ったんだよ…」

 言いながら、自身の首を指差す。

「…どうして…?」

「さぁな…動機は分からんがね、今朝、蔵の天井からぶら下がってたんだと…」

 ゆらりと、軽い眩暈を覚えた。

(どうして…また…)

 伊佐田は、気を落とす時羽の肩に手を置いた。

「そう気にするな。また新しい客が付く」

 景気付けるように時羽の背をポンと叩き、伊佐田は部屋を出て行った。



 心が落ち込む。

 黒い水の中に佇む。

 腰の辺りから、白く縁取るように波紋を描く。

 この黒い水は、私を捕えて放さない。

 重くのしかかる静寂は、果てしない。

 光が、見えない。



「時羽!」

 唐突に声がかかり、肩が跳ねる。

さっき伊佐田が出て行ってから、随分と時間が経っていたらしい。

「まだ突っ立っていたのかい?お客さんだよ」

「あ…わ、分かりました…」

 我に返った視線の先、傾いた鏡が自身の纏う赤い振袖を写した。項の後れ毛を気にしながら、客を迎える為、居住まいを正す。

「御新規さんだよ。久々のお武家さんだ、良かったじゃないか」

「…はい」

 廊下の奥、客を案内する伊佐田の声を聞きながら、膝を折り、三つ指を付いて頭を下げた。やがて、床を踏む軋んだ音が近づいて来る。その足音とは裏腹に、静かに襖が開いた。男特有の気配が、滑り込んで来る。

「いらっしゃいませ。」

「…顔を、見せてくれないか」

 わざと恥じらうように、おずおずと顔を上げた。

「なるほど…綺麗だ…」

 精悍な顔をした若い男だった。彫りが深く、切れ長の目は力強い。けれど、何処か深い闇を匂わせる、そんな雰囲気があった。


「では、酌を…」

「はい…」

 武士だという男の隣に侍り酌を始めると、空いた手を時羽の肩に回してきた。

「幾つになる?」

「十七です」

「いつから、売っているんだ?」

「…十四からです」

 盃を口に運びながら、男は時羽に質問を投げかける。

「その着物の下は…男なのだろう?」

膳の上に盃を置くと、時羽の手から酌を取り上げた。肩を抱く力が強くなる。

「身体が、見たい……」

「…どうぞ、お好きなように」

 言いながら顎を上げると、男の熱い唇が降ってくる。口内に侵入した舌を互いに堪能し、情事は幕を開ける。着物の合わせに滑り込んだ手が胸をまさぐった時、その動作が止まった。

「…っ…どう、しました…?」

 吐息混じりに問うた。

「あ、いや…本当に男、なのだなと…」

「嫌になりました?」

「…いいや。ただ、男を抱くのが初めてでな…」

 時羽は両腕を男の首に絡ませ、耳元で囁いた。

「女とそう変わりませぬ…」

 そのまま耳を甘噛みしてやると、男の欲情が手に取れた。刀で鍛えられた腕は、一気に陰間の帯を解く。


 赤い着物の上、広げられた白い身体はやはり男のものであったが、同性のそれが何故にこれ程劣情を生むのか、理解出来なかった。

張り詰めた局部をやんわりと手で包み、軽く動かしてやれば、それは手の中で頭を振った。

「あぁ…だ、めッ…」

「何故だ?」

「すぐ、果てて……んッ…」

「好きなようにと言ったのは、其方だ…」

 男の手の中で、時羽自身が育っていく。動きは速度を増し、もう片方の手で乳首を摘まれてしまう。

「あっ、や、あぁぁ…!」

 小刻みに内腿が震えて、暫くの間快感に悶えた。潤む眼で男を見ると、口元に満足気な笑みが滲んでいた。

「次は…私が…」

「いや、もう待てない」

「ッあ…!」

 起き上がろうとした裸体を反転させられ、時羽は、四つん這いで腰を差し出す形になった。背後で着物を脱ぎ捨てる音がする。

「これを…」

 盛りがついてしまった雄の前に、枕元にあった熨斗袋を差し出す。

「…これは?」

「通和散です…女ではないので、自然には濡れませんから…」

 男は少し冷静さを取り戻し、袋を手に取った。

「まずは一枚取って、口の中で溶かしてください。唾液と混ぜるように…」

 上目遣いに見上げると、男の頬が少し赤らんでいた。それは酒の酔いのせいなのか、陰間を抱くという行為のせいなのか、定かではなかった。

「通和散が溶けたら指に絡めて、私の中に入れて…」

 そう言って脚を開くと、男の喉が動いた。


 侵入する指の感触を感じつつ、時羽はゆっくり息を吐いた。

 中で指が蠢いている。何かを探すかのように、肉の壁を擦る。おそらく、女にする時と同じように、悦ぶ箇所を探っているのだろう。

「あぁッ…」

 唐突に指が悦に触れた。

「此処か?」

 今度は的確に指で押され、ゾクりと戦慄する。

「…ぁ…そこ、が…」

「良いのか?」

「あ、あぁ…!」

 さっき一度達したのに、また先端からポタポタと濁る雫を零した。

「はぁ…ぁ…ん…」

「時羽…」

 初めて名を呼ばれ、伏せていた顔を上げた。覗き込む男の漆黒の瞳に、色欲の火が揺らいでいる。こうなればもう、言葉はいらない。

「お願い…もう…」

 身体に戦慄が走る。

 入口に猛るソレを当てがわれただけで、脳にまで鳥肌が立った。こんな時、望んで陰間になった訳ではないが、向いていたのではと、思ってしまう。生来、誰もが真っ当だと思う仕事には、何の興味も持てなかったのだから。

「はッ…あ……」

 蕾を押し広げられる感覚に、己の欲が絡み付く。好きや嫌いより、欲は遥かに強い。

「あぁッ…」

 まぐわいは、時に非現実をくれる。犯される違和感、その先にある快感、狂いそうな程の快楽を、与えてくれる。その為に生きているとしても、何ら不思議ではなかった。

「はぁ…はぁ…ん…」

 男自身を根本まで受け入れ、呼吸を整えた。

「…動くぞ」

 耳元で低く囁かれ、ゾクゾクするような高揚感を感じた。

「お願い…早く…」

 自然と強請る言葉が口を吐いた。

「あ、あ、んッ…あぁッ…」

「時羽…」

 後ろから突きながら、乱れた項に唇を落とす。

「肌が、白いのだな…」

 独り言のように男は呟いた。

 肉を抉る魔羅の感触。追撃は徐々に激しくなる。脱いだ着物を握り締めながら、発情の声を上げた。

「時羽…名を…俺の名を呼んでくれ…」

「ま、まだ…ぁ…聞いて、な……」

 切れ切れに時羽が答えると、ハッとしたように男は動きを止めた。

「雪安だ…」

「ゆき…やす…」

 耳に、熱い吐息がかかる。

「雪様…」

「いい子だ…」

 再び腰を打ちながら、時羽の背中に覆い被さった。深くなる交わりに、喘ぎが溢れ出す。

「ああッ、や、あああッ、ゆ、き様ぁッ…!」

 背中を反らすと、より深く魔羅が肚に喰い込んだ。

「ああッ、だめ…もうッ…」

「共に逝こう…」



 背徳の想いを胸に宿しつつ、

 開いた扉の向こう側、

 待っていたのは白椿一輪、

 指先触れて、春が落ちる。



 外では盛大な風が吹き、満開の桜を容赦なく散らしていた。そんな幻想的な風景でさえ、誰の記憶にも残らずに、毎年繰り返していく。

 


***



 消えたい想いは硝子瓶に詰めて、神社の鳥居の下に埋めてしまいたい。いいや、こんなもの、烏の餌にでもなればいい。喰われてしまえば、消える。


 時羽を水揚げした僧侶は、それが済むと、役目を果たしたかのように亡くなってしまった。元々それなりの年齢であった事と、病を抱えていたと後から判り、仕方ないと思った。

 次に贔屓にしてくれたのは、妻子のある侍だった。何度か通ってくれたが、深夜に辻斬りに遭い、呆気なく逝ってしまったらしい。時羽は呑気にも、残された妻子が哀れだと思っていた。

 そして、大室の旦那の首吊り……。


 茶屋の前に立つ桜は、もうすっかり葉桜となっていた。時羽は窓枠に腰掛け、来るのかどうか分からない客を待つ。

(雪様…もう、来ないのかな…)

 暮れ行く茜色の空を見上げながら、溜息を吐いた。紫色の逢魔が刻の闇が、すぐ其処まで来ている。

(また、あの人に会いたい…)

 名前しか聞けなかった。それと武士である事と、男を抱いたのが初めてだったという事。

(あ、でも…)

 馴染み客になってしまったら、あの人も死んでしまうかもしれない。

 視界を横切る烏達をぼんやり見つめて、また、心が黒い水の中へと沈みそうになる。現と想を繰り返しながら、日々は流れて行く。客を取っている間も、時々意識が何処かに行ってしまう。そんな時は気絶したふりをする。そうすれば、それ程までに自分との情事に感じたのかと、客は気を良くするからだ。

 弄んでいた扇子を閉じると、時羽は重い腰を上げ、窓を閉めた。


 夜の帳が、今宵もその身体を、誰かの色欲に染めるのだろう。

 叶わぬ願いだけが、いつまでも窓辺で揺れていた。




 

 初めて遊女を買ったのは、十六の頃だったろうか。

 春画を見せてくれた悪友に引っ張られ、大門を潜った時の桜を今でも憶えている。既に性の経験があった悪友は、目当ての遊女を指名すると、さっさと廓の奥へ消えて行った。独り残され困り果てていると、客引きの男に中級の遊女を薦められ、言われるがまま奥に通された。

 決して、遊女の質が悪かった訳ではない。器量も気立ても良かった。ただ、自分の身体が何の反応も示さなかった。唇を吸われても、裸を見ても、豊満な乳房に触れても、何も…。それでも遊女は、気にしなくていいと言ってくれた。ただ何かさせて欲しいと、脚の間に顔を入れて、外的刺激を与え精を搾り出した。

 その年は、その記憶だけで終わった気がする。


 屋敷内の長い廊下を足取り重く歩いていると、夕焼けに染まる中庭が見えてくる。手入れの行き届いた庭は、今日も変わらない。

「ん?」

 よく見ると、大きな庭石の上に一羽の白鷺が止まっている。片翼を半分ほど広げ、毛繕いをしていた。どうやら羽根を休めているらしい。

(あ…あれはまるで…)

 雪安は立ち尽くし、その白鷺に眼を奪われた。その時、胸の奥で小さな火が爆ぜた。線香花火のように、パチパチと火花を散らす。

「時羽……」


 雪安は急ぎ自室に向かうと、軽く支度を整え、そのまま外へ出た。

 夕闇迫る町へ、何かに導かれるように、その後ろ姿は掻き消えて行った。



***



 襖が閉まるのが先か否か、視界は艶やかな着物の柄と、白粉の匂いに包まれた。

「会いたかった…」

 雪安の肩にすがる時羽の頬に触れ、顎をなぞり、唇を重ねた。見上げる長い睫毛に縁取られた黒目がちの瞳は、湖面のように潤んでいる。

「時羽…すまない…」

 瑠璃色の振袖が白い肌に映えてよく似合っているのに、それをもう剥ぎ取りたい衝動に駆られている。

「お前が欲しいッ…!」

 切羽詰まったように、雪安は時羽をきつく抱き締めた。

「どうして謝るんです?私は、求められる為にいるんですよ…」


 用意された酌にも手を付けず、二人は絡まり合った。一刻も早く生肌に触れたくて、帯を解くのも、袖を抜くのも、全てがもどかしい。だからせめて舌と舌を絡ませて、焦れる気持ちを抑えていた。

「雪様のここ…凄く張り詰めてる…」

 布越しでも伝わる程に熱く猛る核心を、時羽の掌が撫で上げる。

「待て…そう触ってくれるな…」

 眉間に皺を寄せ耐える雪安を、時羽は愛おしく思った。客に対して、持つ事の無い感情だった。

「一度、出して差し上げます…」

 色を宿した眼で雪安を見つめながら、足元に跪いた。布地を手際良く剥いで、火照った核に舌を這わせる。

「ッ…時羽っ…」

 裏筋を丁寧に舐め、そのまま口内深く咥え込んだ。時羽の頭上で息を詰める声がする。吸いながら舌を使い、首を前後に動かした。濡れた音が耳に障り、全身が熱に浮かされていく。

「もう…駄目だッ…と、きわ…!」

 堪らず、雪安は時羽の肩を掴み引き離した。見上げる時羽の口から透明な糸が引いて、紅で染まった唇を汚していた。その顔が一瞬、不安に翳った気がした。

「雪様…?」

「あ…いや…違うんだ…」

 狼狽しながら膝を付き、時羽を抱き寄せた。はだけた襦袢姿の時羽の身体にも、欲情の形が見て取れた。

「俺は…果てる時は…お前の中で…」

「雪様ッ…」

 二人はそのまま褥へと沈んで行った。


 陰間と客との間で交わした契りなど、花が咲いて散るより儚い。まして未来など、到底語れはしない。唯一誓えるとすれば、心中の約束くらいだろう。身体を開いて相手の粘膜に触れても、その奥の心の更に奥、精神に横たわる黒い闇までは、己以外の誰も辿り着けはしないのだ。


 夜のしじま、歌声が鼓膜を叩いた。

 首を捻り見た先には、月明かりの中、襦袢姿の時羽が窓辺にもたれ、小声で何か歌っている。結い髪が、さっきまでの情事で乱れ、艶やかな髪の束が幾つも肩に落ちていた。

「夏に冬の歌か…」

 雪安の独り言にハッとして、時羽は歌を止めた。

「起こしましたね…ごめんなさい…」

「いいや…歌、上手いな…」

 暗がりの中、時羽が微かに微笑んだ気がした。

「本当は…舞台子になりたかった…」

「…そうか…」

 此処は花街から離れていて、周辺は寺社ばかりのせいか夜は静かだ。虫の音や風の音がよく聞こえる。そして、別室の喘ぎ声も響いてくる。こちらもまた然りだ。


「なぁ…時羽。俺と時雨滝を見に行かないか?」

「え…?」

「岩に当たった水が砕けて、時折、滝壺に降り注ぐ…それがまるで、時雨が降っているように見えるんだ…」

 時羽は大きな声を上げそうになった。こういう誘いを持ちかける客は、今まで一人もいなかった。欲しい物を買ってやると言う客は結構いたが、此処から連れ出そうとする人間は初めてだった。こんな、まるで……。

「行きたい…!その滝、見てみたい…!」

 弾んでしまいそうな声を出来るだけ抑えて、時羽は答えた。感じた事がないくらい、心臓が早鐘を打っている。思わず前のめりになり、畳に両手を付いていた。その様子がおかしいのか、雪安はクスクスと笑っている。

「そんなに喜んでくれるとは思わなんだ…おいで…」

 張り裂けそうな自身の鼓動を気にしながら、雪安の隣に身を侍らせる。すぐさま力強い腕に抱き寄せられた。息が、上手く出来ない。

「二人で行こう…」

「はい…」

 接吻と膝を割られたのはほぼ同時で、舌が余り深く侵入してくるものだから、更に息が

出来なくなる。襦袢の隙間から入り込んだ大きな手が、太腿を這い上がり、しな垂れていた時羽を弄び始める。

「まだ足りないんですか…?」

 少し睨んで見せると、腰紐を解かれてしまった。

「足りないな……時羽が足りない」



 どうしよう…。この人を、死なせたくない。今までの客のように、死んで欲しくない。この人が死ぬのなら、自分も一緒に…。

 暗く黒い水に浸かる頭上に、ひとひらの白い花弁が舞う。それは雪の欠片。心の奥を照らす、一片の希望のように…。



「雪様…私も…貴方が欲しい……」



***


 

 淡い浅葱色の着物に袖を通し、濃紺の袴を履いた。普段あまり履かない足袋が、少し窮屈に感じた。髪は結わずに、後頭部で一つに結んだ。これで少しは若侍に見える筈だった。

(何か…変かな…?)

 鏡の中に、素顔の自分が写る。

 これから三日間、男の姿だけで過ごす為、化粧はしない。陰間なら当然のようにする化粧を。

(雪様は、どう思うだろう?)

 本来ならば男同士なのだから、それ程意識する事もないだろう。この着物と袴も、雪安が昔着ていたものだという。雪安は時羽を連れ出す為に、三日分の玉代を払い、更に色まで付けたらしい。安くない額を払わせた事に、時羽は罪悪感を覚えたが、それを本人に言うのは野暮というもの、陰間が気にする事ではないのだ。時羽は、振り払うように頭を横に振った。

(行こう…!)

 小振りの風呂敷包みを背負い、草鞋を素早く履いてしまいたかったが、やはり慣れない為、少々手こずってしまう。そんな自分に焦れながら、早朝の朝もやが立ち込める中、時羽は羽を広げ飛び出した。


『町外れの、稲荷神社の下で落ち合おう。』


 その言葉を耳の中で繰り返しながら、息を弾ませた。昨夜までの雨は止み、灰色の雲の隙間から、綺麗な水色が覗いている。空が自分に味方してくれているようで、心が舞い上がりそうになる。それが怖くて、必死に浮き上がる気持ちを抑えていた。今までの人生の中で、これ程満たされた気持ちになった事があっただろうか。時羽の背を押すように、雲の切れ間から陽が差し始めた。

(早く、雪様に会いたい…!)



 朝もやの中、独り佇む。

 鳥居の真ん中にいるのは流石に憚られ、左右の脚の片方に、身を隠すように収まった。

旅の理由は、病床の父の回復祈願という事になっている。事実、あの滝の傍には神社があり、立ち寄って参ろうと思っていた。屋敷を発つ際、家人の誰かを供に付けてはと言われたが、父に万が一の事があった時は、人手が必要だろうし、三日程度で戻るからと、何とか説得する事が出来た。何より長兄が、雪安なら案ずるなと、言ってくれた事が大きかった。我ながら、大それた事をしたと思う。自分が、こんな事をする人間だとは夢にも思わなかった。

 我が身を足元の水溜りに写し、時羽にも笠を買ってやらねばと、密かに思案した。

(早く…顔が見たい…)



 稲荷神社の朱い鳥居は、朝日を浴び輝いていた。

 弾んだ息を整えながら、時羽は辺りを見渡した。そう、雪安を探して。

(あれ…早かったかな…?)

 少し不安を感じながら、鳥居を見上げた。   

 鳥居は結界だと、昔聞いた事がある。人間がいる場所と、神様がいる場所を分けているのだと。だから、鳥居の向こうは別世界なのだと。これから行く場所もまた、別世界なのかもしれないと、時羽は思った。

「ときわ…時羽か…?」

 唐突に声をかけられ、思わず身を竦めた。右手の茂みが音を立てて揺れ、長身の人影が現れた。

「あ、俺だ…雪安だ…すまない…」

 笠を脱ぐと、そこには見慣れた男の顔があった。

「雪様…!」

 微笑む時羽を見て、今度は雪安が驚いた。

「陰間姿も艶やかで綺麗だが……」

 雪安は片手を時羽の頬に伸ばし、親指で唇をなぞった。

「素顔も無垢で綺麗だ…」

 時羽の頬が、薄紅色に染まる。朝日の中で見る雪安の端正な顔立ちが、言葉の意味をより際立たせているようだった。

「その着物も、よく似合っている…」

「こんな上等なもの…頂いて良いのですか?」

「上等と言っても古着だ。気にする事はないさ」

 雪安は笑うと、時羽の頭に軽く手を乗せた。

 雨が洗い流した空気に、心の奥まで澄んでいくようだった。こんなにも穏やかな朝が、この世にあったのだと、初めて思い知る。

「手を合わせて行こう」

 雪安は鳥居に向き直り、合掌すると眼を閉じた。時羽も隣に並び、同じように手を合わせた。



 二人の頭上、空には一羽、白鷺が雲の波間に消えて行くところだった。



***



 滴るような緑に溜息が零れる。

 新緑の頃とは違う濃い緑の森は、埋もれてしまいそうな深みを湛えている。そして、樹々の葉から差す木漏れ日は、キラキラと眩しくて目が眩んだ。

 時羽は、高揚感を抑え切れず景色に見惚れてしまうので、どうしても足が遅くなり、その度に慌てて雪安を追う事になる。

「どうした?大丈夫か?」

「あ、はい、すみません…色んなものが、その…綺麗に見えて、つい…」

「綺麗?」

 不思議そうな顔をする雪安に、自分がどれだけ舞い上がっていたかを自覚し、時羽は気恥ずかしくなった。

「見るものが全て、輝いて見えるんです…初めて見た訳じゃないのに…変ですよね…」

 時羽は自嘲気味に笑った。

「そんな事はないさ…町と山では、空気も景色も違うからな…」

 雪安は空を仰ぎ、日差しに眼を細めた。

「これが…日常だったら、いいのに……」

 か細くなる声を追って視線を落とした。俯く白い横顔は、明るい光の中でも艶かしく、すぐにでも掻き抱きたい欲望を芽生えさせる。行燈灯る、陰間部屋を思い出させるように。

「そう思えば、そうなるさ…」

「え…?」

「たとえ目の前が苦界でも、心までは誰も奪えまい…」

 時羽の澄んだ瞳が、光を受けて煌めく。雪安は、照れを隠すように踵を返した。

「行こう、陽が暮れてしまう」

「はい」

 広い背中を見つめながら、時羽は微笑んだ。



 それから二人は黙々と歩いた。

 山の奥へ入れば入る程、生い茂る樹々で日差しが遮られていく。足元にも大きな石が目立つようになり、歩く事にも注意を払わねばならない。時折、雪安が振り返り手を差し伸べる。その手を取りながら、時羽も悪路を進んで行った。それでも、心はとても穏やかで風が凪いでいた。このまま帰りたくない…手と手を取り合う温もりは恐らく、二人に同じ想いを抱かせていたのだろう。この深い森に、取り込まれてしまいたいと、願う程に…。


 不意に、雪安の足が止まった。

「雪様…?」

「時羽…聞こえないか?」

 鳥のさえずりの中、微かに聞こえる。白い水飛沫を上げ、激しくうねり、解き放たれたように弾け落ちる。

「雪様、これは…時雨滝?」

「もうすぐだ、急ごう」

 雪安は時羽の手を取ると強く引いた。

「あッ…ま、待ってくださいッ…!」

 快活に笑いながら、足を速める雪安はまるで子供の様で、時羽は少し戸惑った。茶屋で見せる、大人びた仕草や熱っぽい行為からは、到底想像が出来なかったから。こんな無邪気に笑うなんて知らなかった。

(でも、何だか…)

「可愛い…」

 時羽は小声でそっと呟いた。



 水音を頼りに藪の隧道を潜り抜けると、強い光で目の前が真っ白になった。白い闇の中、閉じかけた瞼を開けると、盛大な水量と轟音が五感を叩いた。

「うわぁ…!」

 時羽が感嘆の声を上げると、雪安も嬉しそうに笑った。風で流れた霧状の水が頬に当たり、ひんやりとして心地良い。

「これを見せたかったんだ…ああ…あの時と同じだな…」

 轟音を上げる水は、勢い良く滝壺に向かい落ちて行く。落下する水の一部が時折、突き出た岩にぶつかり、砕け、雨のように降り注いだ。秋の終わりに降る、時雨のように。

「雪様は、前にも此処に?」

「ああ…父と来た。俺の元服の記念にと…もう十年も前の事だ…」

 時羽はちらりと、雪安の横顔を盗み見た。

「そうだったんですか…」

「父はもう…此処には来れまい」

 再度雪安を見ると、今度は眼が合った。

「父は今、病で床に伏している…」

 時羽は、どんな言葉をかければいいのか判らず、俯いた。その時、雪安の右手に肩を抱き寄せられた。鼓動が、一瞬にして跳ね上がる。

「この近くに、神社があるんだ…そこで父の回復祈願をしようと思う…」

「…御供します」

 顔を上げると、自然に唇が重なった。瞼の裏の白い闇の中、久々の感触に酔いしれる。昼日中、明るい太陽の元で背徳感を覚える。しかし同時に、罰を受けても構わないと思った。過去より未来より、今この瞬間が何より大切だった。

 接吻が終わっても、感覚が麻痺したように、目の前にある滝の轟音が、遠く遠く遥か彼方に聞こえていた。



***



 旅籠・半月屋に辿り着いたのは、西陽が山肌を照らす頃だった。

 十年前、雪安とその父が利用した宿で、雪安の父はそれ以前から、度々立ち寄っていたらしい。それ故、店主夫婦とは顔馴染みだった。

 雪安は、半月屋のひっそりとした雰囲気が好きだった。老夫婦だけで切り盛りしているせいか、商売気がない。その為、相部屋を要求される事がない。店の間口も狭いので、多人数の客も来ないのだ。大体が一人から二人の客で、そっと立ち寄っては、さっと立ち去る。その中には人目を忍んでいる者もいるので、不用意に話しかけられる事も少ない。


 秘め事は何故、こんなにも、人を惹き付けて止まないのだろう。


 老夫婦に十年前の話をすると、憶えていてくれたようで大層喜んだ。青年となった雪安を見て、孫を愛でるように目を細めた。そんな様子に、時羽も微笑ましくなった。

「あら、そちらの方は?」

 女将が、雪安の後ろに控えていた時羽に声をかけた。

「あ、えー、この者は、某の側付きの…」

 雪安の動揺を感じ取り、時羽は咄嗟に口を開いた。

「時佑と申します。」

 そう言って一礼すると、女将も主人も頷いて納得し、御立派になられたと、更に喜んだ。


 その後、通された部屋は、十年前と同じ上弦の間だった。

「またこの部屋に泊まれるとは…運がいい…」

 雨戸を開けて連なる山々を眺めながら、雪安は一息ついた。

「さっきは助かった。ありがとう…」

 振り返り、時羽に微笑んだ。

「あ、いえ…慣れてるんです…嘘を吐く事に…」

 客にひと時の春を与える陰間は、嘘に嘘を重ねなければ成り立たない。俯く時羽に、雪安の影が迫る。

「お前はお前の中に、何を隠している?」

 いつの間にか両手首を掴まれ、背を壁に押し付ける格好になっていた。鷹のような鋭い   眼光が、時羽を射抜く。

「ゆ、雪様ッ…?!」

 雪安の声が、耳元で響く。

「何度抱いても、お前は遠い…あと何度、抱けばいい…?」

 そのまま耳を軽く吸われた。

「…だ、め…」

 掠れた声で、やっとの思いで抗議する。引きずられてしまうから、悦の底無し沼に、溺れてしまう。

「お休みのところ、すみません」

 突然の声に、雪安は素早く部屋の入り口へ向かった。戸を引くと、そこには女将がいた。どうやら夕げの支度が出来たらしい。雪安と女将のやり取りを聞きながら、時羽は深呼吸を繰り返す。手首は既に解放されたのに、何故か壁から離れられない。そして酷く、顔が熱い。

「時羽?」

 ハッとして顔を上げると、視線の先にはいつもの雪安がいた。

「さっきは、その…意地の悪い事をした…すまん…」

「いいえ…平気ですから…」

「平気か…それはそれで悔しいな…」

 苦笑いを浮かべる雪安に、形容し難い不安定さを感じた。全てを持っているように見えるのに、その中心に黒い空洞があるような気がした。

「夕げ…でしたよね?行きましょう…」

「…そうだな」


 部屋を後にする際、何気なく振り返った窓の外は、薄暗い茜色で、静かに山肌を燃やしているようだった。



***



 ひらひらと、舞うのは花弁か。

 はらはらと、落ちるのは涙か。


 桜が満開に咲いている。

 此処は、何処だろう?

 ずっとずっと向こうまで、桜が咲き乱れている。

 綺麗だな…。

 あ、神社の鳥居だ。そうか、此処は昼に立ち寄った、あの神社だ。春にはこんな風になるんだ。

 鳥居の向こうに人影が見える。

 紋付き袴姿に、角隠しと白無垢…ああ、誰か祝言を挙げるんだ…。

 え…?嘘…雪様…?

 ああ…そうか…雪様もいつかは、女の人と一緒になるんだ…。いつまでも、私のような陰間の所になんか、来てちゃいけない…わかってる…わかってるのに…目の前が歪んでいくのは、何故だろう…?頬が冷たい…冷たいよ……。


 雪様…!!


 首だけ振り返った角隠しの、紅を引いた口元が、ニヤリと嗤った。



 悪夢を終わらせたのは、頬を撫でる涼風だった。

(夢…?)

 時羽は、横たわったまま脱力した。

 夕げの後、湯に浸かったら一気に疲れが出て、床に入るなり眠り込んでしまったのだ。

(あ、雪様は…!)

 寝返りを打つと、月の光が、畳の上に滑り込んでいた。その光源を辿ると、開けた窓の下に雪安が座り、外を眺めていた。時羽はそっと起き上がった。

「…寒いか?」

 気配を察し、問いかける。

「いいえ…風が心地良いです…」

 この風が夢から引き戻してくれたのかと、時羽は酷く安堵した。

「ずっと、起きていたのですか?」

「いや、あの後すぐ床に就いたが、少し前に目が覚めてしまった…寝直そうとしたが、寝付けなかった…それで月見だ…」

 雪安は、頭上の月を指差す。時羽はクスクスと笑った。

 暫くの静寂の後、夢の余韻を拭えずにいた時羽は、恐る恐る尋ねてみた。

「雪様は何故…陰間を買ったのですか?遊女ではなく、何故……」

「遊女も買ってみた…でも…駄目だった」

 雪安は月を見上げたまま答えた。

「駄目…?初見世の遊女だったんですか?」

「いいや…俺が、駄目だった…」

 そよぐ風が、虫の鳴き声を耳に運んで来る。こうしていると、世界に二人だけしかいないような錯覚に陥る。

「俺は…女に欲情出来ない身体なんだ…」

 時羽はただ、雪安を見つめていた。月光に照らされた横顔を、ただ…。

「恥を忍んで、医者に相談した事もあった…だが、時が来れば治ると言われるだけだった…」

 次第に俯く雪安が、泣いてしまうのではと、時羽は不安な気持ちになる。

「俺は、一生独り身だ…幸い、次男だしな…」

 それならば自分を…という想いが過ぎって、時羽は口を噤んだ。あまりにも虫が良すぎる、そんな都合良くはいかない。

「それに…添い遂げるならば、お前がいい…時羽」

雪安はいつの間にか、時羽を見つめていた。

「私を…身受けするつもりですか?」

「そうしたい…」

「身を滅ぼしますよ?」

「構わない…」

 濁りのない漆黒の瞳が、真っ直ぐに見つめている。逃げる事も忘れてしまうほど、魅入られていく。耐え切れず、時羽は雪安に背を向けた。

「私は、何も約束しません…」

 果たされない約束ほど、絶望するものはない。だから、何も信じたくない。

「それでもいい…だからせめて、出来る限り、俺といてくれ…頼む…」

 雪安は、時羽の解いた黒髪に顔を埋め、子供のような仕草で、その身体にすがった。長い髪を掻き分けて白い頸を吸うと、肩が僅かに震えた。耳元で、低く静かに囁く。

「初めて会った夜…お前の着物を脱がす時、酷く欲情した…」

「…ッあ…」

 後ろから腰に手を回し、時羽の夜着の腰紐を解いた時、手に硬い感触が触れた。

「時羽…何故こんな事になっているんだ?まだ、触ってもいないのに…」

「…夢を…見た、から…」

「夢…?」

 肩を脱がしながら肌に口付ける。

「夢の中で、雪様が…女の人と、祝言を…」

 消え入りそうな声で話す時羽に、黒い劣情を覚え虐めたくなる。

「なるほど…」

 布の下から露出した時羽自身は、張り詰めて先端から涙を零している。その涙を雪安の指が拭った。温かな掌に包まれ、今にも達しそうになる。

「それでこんなに硬くして、泣いているのか…」

「あッ…ゆ、きッ…あぁ…」

 喘ぐ唇に、雪安は人差し指を当てた。

「あまり大きな声を出すと、誰かに気付かれるやもしれん…」

 そう、此処は人里離れた旅籠の一室。茶屋での日々が肌に染み付いていた時羽は、自分が恥ずかしくなった。それと同時に、息を潜めて行為に及ぶ緊迫感に、余計に感じてしまいそうだった。

「んんっ…!」

 時羽は咄嗟に、手で自分の口を塞いだ。首筋と乳首、局部の三点を一度に攻められ、濡れた啼き声を上げそうになった。声の代わりに、目尻に涙が滲んだ。潤んだ瞳で振り返ると、雪安が笑みを浮かべていた。

「ひどい…」

 拗ねた口調で言うと、その口を塞がれ、口内を舌で、局部を手で蹂躙される。月明かりを瞼に受けながら、頭が真っ白になっていく。

「んっ…ん…ン、ふ…ぁぁ…」

 か細く喘いだ瞬間、雪安の手の中を白く汚して果てた。


 夜着を剥いだ時羽の身体は、月の光で青白く染まった。結い上げていない腰にまで届く髪、化粧を施していない素顔と唇。全てが茶屋とは違う。此処は、別世界。

 前戯の後、引き起こされて、雪安の腰を跨いだ。

「このまま、俺を受け入れてくれ…」

 畳んだ手拭いを口に咥え、時羽は頷く。息を吐きながら、身体を沈めていく、欲に塗れた男に貫かれる。挿入の途中でさえ、内腿に既に快感の兆しを感じる。腰を少し反らすと、よく慣らした事もあり、容易く奥に届いた。

「んっ…!」

(あぁ…深い…)

 雪安に乳首を吸われたり、腰を撫でられたりする度、肌が粟立つ。いつもなら喘ぎ、よがっているはずが、それが出来ず、発散されない言葉に身をよじるだけだった。

「時羽…」

 鎖骨に軽く歯を立てながら、下から突き上げた。時羽は背中を反らし、内腿を雪安の腰に擦り付けながら、涙を零す。本能的な快楽の涙を。時羽が感じると中も締まり、魔羅を抜く事を許さない。

(あぁぁ…もっと欲しい…奥にもっと…滅茶苦茶に…)

 雪安が一定の間隔で動き出すと、時羽は喉を反らし、腰をくねらせ悦を追い駆けた。

「ン、んっ…んんっ…」

 髪を乱し腰を振る様は、いつにも増して艶めかしく、卑猥な光景だった。それが男を煽らない訳がなく、雪安も額に汗を滲ませ、白い裸体をひたすら貪った。達してしまう事が惜しい、ずっとこの悦楽の渦に飲み込まれていたい、息も出来ないくらいに…。

「時羽…俺を、感じるか…?」

「…雪様…このまま…抱いて、殺してッ…!」

 咥えた手拭いが口から外れた時、肚の中と外が熱く満たされていった。恍惚とした視界に月が宿る。汗ばむ肌に指を這わせ、時羽の唇を探った。内腿がまだ、小刻みに震えている。

「時羽…大丈夫か…?」

「…いいえ…怖かったです…」

「怖い?」

 潤んだ瞳は、揺らめいて色香を漂わせる。

「感じ過ぎて…死ぬかと……」

 目を伏せると、雫が朝露のように数滴落ちた。



 今宵、上弦の間は、この世にあらず。

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しとねのうた 月 冬香 @Tsukino36

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