【怪談】ある兵士の復讐
月見里清流
夜寒の船上にて祖父より怪談を聞く――
「――顔が潰れていたんだ」
子どもの時分、祖父から珍しく戦争の話を聞いた。
――昭和二十年八月に戦争が終わり、戦地や海外領土から、軍民の引き揚げが始まった。
南方戦線にいた私は、前線から集められた同胞と共に、海軍の輸送船で長い航海の旅に出た。
その輸送船の中での出来事だ。
嘗て栄光と共に万里の
皆、一様に地獄を味わってきた。
遠ざかる地獄の余韻に浸りながら――、ゆっくりと輸送船は前後へ、左右へ大きく傾き、兵士達を
波間に落ちる度に脳髄はぐらりと揺れ、すぐに平衡感覚など失ってしまう。陸地にいた時間が長すぎたせいだろう、乗船後間もなく兵士達は皆、グロッキーに酔い潰れた。
揺れるデッキの片隅で、私は一人座り込む。
キラキラと輝く南国の星空。
その時――、視界に一人の男が入ってきた。
頬
男は、辺りの兵士に声を掛けて廻っている。本人は必死な様子なのだが、声を掛けられた兵士達は皆一様に無視している。
辺り数人に無視された後、とうとう私の所にやってきた。
「――なぁ、あんた、第二二二連隊にいた伊藤軍曹という男を知らんかね」
背は丸まり、見るからに栄養失調の様相なのだが、声は鬼気迫るものがあった。
――無論、知る訳はない。そんな名前の戦友も、知り合いもいない。階級も、そもそも所属部隊も違う。
この船にいたとしても、デッキから船倉まで兵士で埋め尽くされているんだ。知りようもない。
吐き気で苦しい中、目を瞑って首を振った。
こんな気持ち悪い時に、何をしているのか。相手の目を見る気力も起きず、耳だけで聞いていた。
どうやら男は隣に座り込み、なおも話しかけてくる。
「聞いてくれ、奴の罪状を――」
この男曰く――、である。その伊藤
ニューギニア、ビアク島――。
歩兵第二二二連隊に所属していたという男は、海岸で敵戦車と遭遇した。
「でかい、頑丈な鉄の塊だ。こっちの弾なんて全然通りゃしねぇ」
私は一度も敵戦車にお目にかかることもなく終戦を迎えたが、男は引きつるように語り続ける。
「敵戦車の赤い弾がよ、俺たちに向かってくるんだ。撃たれたら、こっちは蛸壺に引きこもるしかねぇ。あの狭くて、臭くて、暑くて、死にたくなる蛸壺によ」
それは、――身に染みて分かる。
蛸壺は、待避壕であり、蒸し風呂であり、棺桶だった。米兵と戦闘になる前、或いは砲撃が降り注ぐ中、見えもしない神様によく祈ったものだ。
「すぐ隣の奴は、様子を見ようと顔を出したら、血煙上げて顔の上半分がなくなっちまった」
男の声に力がこもる。
「それでもよ、俺たちは必死に闘ったんだぜ。同じ小隊にいた奴は爆薬を引っ提げて、肉弾を成功させたんだ。木っ端微塵になったがよ――」
ごぅごぅと、波の音に合わせるように、まくし立てる。男は喋りながら右から左へと場所を移動した。揺れる船上で器用なものだ。
「そしたらよ、敵さんが一度後退したんだ。それから部隊を再編成する時間はたっぷりあった
――ハズ。男はそこだけ語気を強めた。
「だが、上官だった伊藤の糞野郎は、中隊長に戦果を報告するとかほざきやがって、一人後方へ逃げやがったんだ!」
敵前逃亡は軍法会議で重罪であるが――、上官に限ってはその限りではない。
末端の兵士が幾ら敵弾と砲火に消えようとも、上に行けば行くほど、我々の
「それからは悲惨なもんよ――」
取り残され、満身創痍の兵士達の眼前に立ち現れるは、鉄の猛獣。嘆きは声にならず、恐怖は顔に刻まれる。
「俺のいた蛸壺にも、遂に戦車がやってきやがったんだ」
唸るエンジンが声を潰し、キャタピラーが土砂を削り、無骨な深緑の車体は天蓋となる。
光も差さぬ穴蔵、崩れくる土砂、息を詰まらせる排気ガス、蛸壺の上には敵戦車――。
「――分かるか。あいつらは、人間ごと磨り潰すんだよ」
僅か1メートルもない、土の棺桶である。戦車はその場で左右に揺れ、壁を削り取り、徐々に沈んでくる。
轟音とガスにまかれ、僅かに残った隙間が、空気が、徐々に徐々に、なくなっていく。
「下手に手なんか出してみろ、指が、手が巻き込まれてな、簡単に引きちぎられるんだよ」
俺は、苦しくてなぁ――。
咳き込む音すら、エンジンに掻き消される。
戦車の底が、被っている鉄帽を乱暴に押し下げる。
苦し紛れに壁を掘ろうと手を伸ばす。
その時、指が、腕が土砂と共に、鋼鉄のキャタピラーに巻き込まれた。
”ぶちぶち”と、絶対聞きたくもない、肉をかみ砕く音が聞こえた。
叫び声すら上げられない激痛が、身体を貫き、汗が噴き出る。
だが、恐怖と苦痛に歪む顔すらも、やがて――
――ちょっと待て。
「なんで
具体的すぎる――。
蛸壺という棺桶。迫り来る鉄塊。浴びせられるガス。崩れゆく土壁。そこまでは分かる。
だが、手や身体が削り取られる、潰されていく事が分かる訳がない。
「こういうことだよ」
男の顔。いや、――
顔面の上半分がグシャグシャに潰れ、赤と黒の肉片の合間から、白い頭蓋骨が露出している。
右肩から先は、千切られた様に赤黒い肉片がぶら下がっている。
嗚呼、
男は唯静かに、口元をニタリと歪ませ――。
――それから祖父の記憶はない。
ふと気がつけば、
「翌朝になってな、輸送船のボイラー室で遺体が発見されたんだ」
例の男の――、ではない。
ボイラー室で補助動力装置に挟まれ、顔と右腕が潰れた兵士。胸ポケットに残っていた手帳や証言から、第二二二連隊所属の伊藤兼次軍曹ということがすぐに判明した。
同じ室内にいた兵士によると、就寝前には確かに居たのに、誰にも声を掛けることもなく、気がつけばいなくなっていたとのことである。
復讐を果たすために、誰かに知って欲しかった――。そう思うことにして、祖父は復員後、名も知らぬ兵士を供養してやったという。
だが、船旅で夜になると思い出す、暗闇の中に浮かぶ、白い目玉と怨嗟の声、そして――潰れた顔。
供養もされず、無念を抱えたまま命を落とした兵士達。地獄から抜け出せぬまま、今も嘆いているに違いない――。
了
【怪談】ある兵士の復讐 月見里清流 @yamanashiseiryu
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