この世界に神様がいないワケ

レイトン

第1話 3つの約束

 そこは、神と人が共に暮らす理想郷。


 世界は平和だった。争いはなく、神は人を愛し、人も神を愛していた。


 しかし、永遠と思われた平和も、終わりを迎える。


 最後に生まれた三柱の神によって。


 その日、世界は悪意で満たされた。


 その日、世界から神はいなくなった。


 *****************************************



 少女は夢を見る。それは過去の記憶。

 遠く、儚い、泡沫の夢。


 それは少女の母が生きていた頃のお話---


「...リア...ア...!」


 私を呼ぶ声が聞こえる。母だ。


「アリア?もう朝よ。礼拝の時間に遅れてしまうわ。」

「んぅ...まだ眠いよ...。」


 寝ぼけた目を擦りながら、体を起こす。


「今日はあなたの12歳の誕生日でしょう?昨日あんなに洗礼を楽しみにしていたじゃない。」


 私はこの日までローズル修道院の見習い修道女だった。12歳の誕生日を迎えた時、私たち一族を守護する"名もなき神"から祝福を受ける。ずっと前から決まっていた私の運命の日。


「お母さん!まだ時間ある!?準備しなきゃ!」

 尻尾を踏まれた猫のように飛び起きて、広い廊下を走って洗面台に向かう。


「修道院の中を走ってはいけないといつも言ってるでしょうアリア」

 廊下の先にいる母はいつもと同じ微笑みを浮かべながら母を言う。


「そういうと思って、いつもより少し早く起こしたのよ。まだ30分はあるわ。」


 変わらない朝。いつもと同じ変わらない日常。違うのは洗礼の儀があるということだけ。


「ありがとう!お母さん!」


「今日はプレゼントととても大事なお話があるわ、準備ができたら礼拝堂へいらっしゃい」


「ふぁい!ふぁのひみ!(はーい!楽しみ!!)」


 鼻歌交じりに髪を梳き、喜びを隠しきれない私とは対照的に、鏡越しに見た礼拝堂へ向かう母の姿は、どこか寂しそうに見えた。



 修道服に着替え、準備を終えた私は礼拝堂へ向かう。

 そこにはいつもより早く祈りを捧げている母の姿があった。


「・・・名もなき神よ、今日まであの子に私たち一族の真実を伝えられなかったことを、どうかお許しください・・・」


 そう呟く母の声は、私には届かない。


「お母さん、準備できたよ!」


 呼び掛けても、返事がない。


「お母さん?」


「...あぁ、ごめんねアリア。準備できたのね」

 余程祈りに集中していたのか、二度目の呼び掛けでようやく気付いたようだ。


「洗礼の儀を、始めましょうか。」


 美しい銀髪と首につけたロザリオを揺らしながら母は礼拝堂の最奥、鎖のかけられた十字架の前に立つ。


 私はこの日を楽しみにしていた。やっと見習い修道女を卒業し、母と同じ本物の修道女シスターになれるのだ。


 母は私の憧れだった。母は強く、美しく、そして何より優しい人だった。

 二人しかいないこの閉ざされた世界で、私に生きるためのすべてを教えてくれた。家事、勉学、礼儀作法から森での狩りの仕方に至るまで沢山のことを学んでいた。


 母は私にとって全てだった。無理もない。小さい私にはそれこそ神様のような人だったのだから。



「アリア。よく聞きなさい。」


 そこにいつもの母の笑顔は無かった。私が修道女シスターになるのを誰よりも祝福してくれると思っていたのに。


「お母さん・・・?なんか怖いよ・・・?」


 いつもと違う母の姿に不安を隠せない私。今日は記念すべき日になるはずなのに。どうしてそんな顔をしているのだろう。


 母は血がにじむほどロザリオを握りしめ、瞳を閉じてこういった。


「今日、この洗礼の議をもって、私は死を迎え、天の国へ還ることになります。アリア、あなたは今日から一人で生きていかなければいけないの。」


 言葉を句切り、一つ一つ噛みしめるように母は言う。



 私には母の言うことがわからなかった。

 いや、わからなかったのではない。わかりたくなかった。理解してしまえば、答えてしまえば、それは現実になってしまう。


 しかし、私にはわかってしまったのだ。

 母の悲痛な面持ちが、その言葉が嘘では無いことを雄弁に物語っている。


 一瞬の時が、何千年にも感じるほどに、その言葉は重かった。


 世界が音を立てて、壊れていく。



「な、え、・・・ど、どうして?嫌だよ、私はお母さんと一緒に暮らしたいよ!!」


 かろうじて出た答えは、拒絶だった。母の言葉を認めるわけにはいかなかった。


「洗礼の儀が、神が、私とお母さんを引き離すなら!私は一生見習いでいいっ!一緒にいてよ!お母さんっ!!」


 叫ぶ。ありったけの力を込めて私は叫んだ。母を失うわけにはいかなかった。


「・・・・・・・。」


 母は何も答えなかった。



 ただその閉じた瞳から流れた一筋の涙が。ロザリオを握りしめる手から流れる一滴の血が、それが逃れられない運命なのだと私に理解させた。


「・・・どうして・・・どうしてなのお母さん・・・」

 聞きたかった。避けられない運命ならば、せめてその理由ワケを知りたかった。

 泣きじゃくりながら私は母に問う。


「ずっと話さないといけないということはわかっていたの。でも話せなかった。怖かった。あなたをこの運命に巻き込むことが。悲しむあなたの顔が見たくなくて、後1日、もう1日と、引き延ばしてしまった。必ずこの日が訪れることを知っていたのに。」


 初めて見る母の泣き顔。あの完璧だった母とは信じられないほどに、弱く見えた。


 一拍置いて、母は涙を拭い、語り出す。


「もう逃げることはできないの。心して聞きなさい。私達ローズル家と叛逆の神について。」



 今から3000年以上前、創世の時代。この世界に神は実在していた。そこは多くの神と多種多様な人が共に暮らす理想郷。神は己の守護する者に自らの力を分け与え、寵愛を受けた者達はそれを使い、一層神への敬愛を深めたという。


 だが、神と人の穏やかな暮らしは終わりを迎えることになる。


 神の中でも、最後に生まれた三柱の神。


 彼等は世界に終末をもたらすもの。神と人に仇なす叛逆の神。


 冥府の扉が開かれ、悪魔と死者の魂が現世へと流れ込む。


 理想郷だったその場所は、地獄の業火に焼き尽くされた。


 しかし突然に世界から叛逆の神も、悪魔も、地獄の業火すら消えた。


 人の信じる神々と共に。


 その理由を知るものは誰もいない。


 その理由を知るものはもう誰もいない。






「これが、外の世界の神話。どこまで真実なのかはわからないけれど、そう伝わっているわ」


 初めて聞く外の話。私は修道院周りの森から出たことがない。母に固く禁じられていたから。


「・・・・。」

 私は黙って母の話を聞いていた。これが母との最後の会話になるかもしれない。どこかそう感じていた私は母が伝えたい言葉を一言一句聞き漏らさないために、母と同じように涙を拭い、喉元まできていた泣声を抑えた。


「神の寵愛は一族にひとつ。私達ローズル家のご先祖様も神の寵愛を受けていたのよ。」


「信じた神は叛逆の神の一柱。ローズル家は終末の日、神と共に世界を終わりへ導かんと戦ったと伝わっているわ。」


「その罪によって神は名を奪われ、私達一族は寿命を奪われ、短命の呪いを受けた。その罰は3000年たった今も続いているの・・・」



 言葉が出てこない。当然だ。それはあまりにも突然で、私には及びもつかない荒唐無稽な話だった。

 言いたいことも聞きたいこともたくさんあったのにも関わらず、私は口を開くことができなかった。


 それでも母は歴史を紡ぐ。未だ瞳は閉じたまま。



「・・・この呪いを解くために私は世界中を旅したわ。きっとご先祖様もそうしたでしょう。でもわかったことは外の世界は私たちにとってはとても生きづらいということだけ。私は修道院ここに逃げ帰ってしまった。」


「それでも、希望はあったわ。いえ、希望は生まれたの。あなたよ、アリア」


 閉じた瞳をゆっくりと開き、その紅の双眸で私を見つめる。


「あなたは私の光。生きるための希望そのものだった。」


 再びその眼から流れるのは涙。頬を伝うその雫はステンドグラスから差す光で煌めいていた。



「死ぬことなんて、怖くなかった。私の信じる神の下へいけるのだから。・・・あなたが生まれるまでは。」


 震える声で母は言う。


「けれど、こんなにも、こんなにも、あなたと一緒にいられなくなることがつらいだなんて、思わなかった・・・!」


 震える体で私を強く抱きしめる。


 応えるように私も母を抱きとめる。


 堰き止めていた何かが壊れてしまった。


 修道院中に広がる声で私たちは泣いた。




 空白の時間、聞こえるのは鼻を啜る音と床に落ちる水音だけだった。



 ✴︎


「...もう、時間がないわ。」


 大きな柱時計の針が、もうすぐ12時を指す。


「...お母さん...」


 少しだけ落ち着きを取り戻した私は母に問いかけをする。


「どうしてお母さんは...神を...名もなき神を信じられるの...?お母さんがこんな目にあっているのは...神のせいなのに...!」


 私の中で生まれた感情は母に対する同情でも、未来に対する悲壮でもなかった。


 それは怒り。純粋な怒り。それまで母と共に育んでいた名もなき神への信仰心は、露と消えた。あるのはただ自分から母を奪う神への怒り。


 そんな私に、袖口を濡らした母はいつもと変わらない慈愛の微笑みを浮かべ言った。


「・・・あなたは昔の私にそっくりね。その答えはこれから先、自分自身で見つけなさい。いずれあなたにもわかる時が来るわ。今は、今はそれでいいのよ」


 許せない。赦せない。こんなにも優しい母を連れて行ってしまう神なんて。


「さぁ、お話はこれでおしまい。お別れよ、アリア。」


 その紅の眼にもう涙は無い。あるのは覚悟の炎を灯した強い意志を感じる瞳だけ。


 交差するように斜めに鎖をかけられた十字架の前に母は立ち、首にかけられたロザリオを外す。


 鎖がついたそのロザリオを私の首にそっとかけてくれた。


 ずっと欲しかったそのロザリオは、私の想像よりずっと重かった。


「こんなに弱くて自分勝手な私を母と呼んでくれたこと、心から感謝を。」


 その場に跪き、祈りを捧げる母の最期の姿。鏡のように私もその場で跪く。


「最後にわたしから二つ、お願いがあるわ。」


 私ももう涙は見せない。母を送り出す顔が涙であってはいけない、そう思ったから。


「勝手なのはわかってるわ。でもどうか聞いて頂戴。母からの最後の願いよ」


 母の表情は、未だ微笑みのまま。


「一つ。そのロザリオを決して無くしてはなりません。それは私達と神を繋ぐ唯一の手掛かり。どんなに神が嫌いになっても、それだけは身につけておいてね。」


「二つ。強く在りなさい、そして自由に生きなさい。どんな一生を送っても構わない。神が憎いなら、修道女を辞めたって構わない。ただ気高く、誇りある人生を送ってくれる事を私は願っているわ。」


 その瞳は、しっかりと私を見据えている。

 今だけ私は怒りを飲み、涙を飲み、母の願いを聞く。


「約束...約束するよお母さん。必ず守ってみせる。」


 私はこの時、ある決意をする。決してその決意が折れぬよう、母との約束にもうひとつだけ。


「お母さん。私はやっぱり神を赦せない。だからね、必ず私達の神を見つけてお母さんのもとへ連れて行くから。そして今までのこと全部謝らせてみせる。天の国まで迎えに行くから、待っていてほしい」


 少し驚いたような顔をして母はすぐ笑みを浮かべた。


「いつの間にか...こんなにも大きくなっているなんてね。」


 私たちは向かい合い、互いの額を合わせる。


「わかったわ。それが私との3つ目の約束よ。」


 手を取り、小指を結ぶ。


「いつかその時を、この大空で待っているわ。」


 変わらない約束を、その身に刻んで。


「心はいつも、あなたと共にある。」


 時計の針が、12時を指す。



「愛しているわ。アリア。」



 そう言った母は満面の笑みを浮かべ、淡い光となって天へと還った。


 ステンドグラスから差す光に、伸びる影は二つから一つへ。


 確かにそこに在ったはずの、母の温もりはもういない。


 日が沈むまで少女の声は修道院中に響き渡る。


 応える者はもういない、ひとりぼっちの修道院。


 その日、小さな世界から神様はいなくなった。

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