エピローグ 黄昏の終わり(3)

 わたしは夜の街を一人で歩いていた。

 三人の時と違い、人ならざるものを警戒することなく堂々と歩けたら良いのだが、最近は事情が変わってきていた。黒いハナコの一件後、夜道の隅や暗闇に人ならざるものの気配を感じることができるようになってしまったのだ。

 強力な怪異に接した影響か、それともイブさんのかけた大量のバフと術後の強烈な痛みによるものか。どちらにしろわたしは視える側の人間になりつつある。

 これは実に困ったことだった。何故ならわたしはホラー的な不意打ちの脅かしに弱く、影に潜むそれっぽいものを目にしただけで、ひえっとなってしまうからだ。

 昔からそうだったわけではなく、中学に入った頃から突如として現れた恐怖症だった。幸いにしてわたしは怪異を見る体質ではなく、夜の街に巣食う不可思議とも無縁だった。脅かしメインのホラーを視聴しなければ大丈夫だったのだ。ユウコやキララと出会い、夜不可視を始めるまでは。

 昨年の冬に根本的な問題は解決したが、それで症状がすぐに収まるわけではない。虐待を受け続けた子供の心理的な問題が後々まで尾を引くのはよくある話なのだ。わたしは激しい不安に駆られて衝動的に家から飛び出すこともなくなり、睡眠も安定するようになったから、まだ大分ましなほうなのだろう。

 そう言い聞かせてみたものの、怖いものはやはり怖いのだった。

「霊が怖い霊能力者だなんて洒落にもならないよな。霊が怖いお化けだったらまだお笑いのネタになりそうなものだけど」

 そんなことをわざとらしく呟いて自分を鼓舞しようとしたが、上手くいかない。誰でも良いから道に人が歩いていないかなあと思っていたら、少し先の電柱に酔っ払いが寄りかかっている。その隣には小さな子供がおり、俯きがちにしていた。

「こんな遅くに出歩いちゃ駄目ですよう」

 どうやら運悪く絡まれたらしい。酔っ払いに下心はなく、純粋に身を案じている様子だが、逆効果にしかなっていなかった。

 穏便にことを済ませるためさりげなく二人に近付いたのだが、そこでわたしは信じがたいものに遭遇してしまった。

 かつてこの世界を焼こうとした黒いハナコが目の前にいたのだ。

「あ、お姉ちゃんだ」

 こちらが目を白黒させている間にも、黒いハナコはわたしの腕を掴んでくる。酔っ払いはそうかそうか、お姉ちゃんと会えて良かったなあ、夜道は危ないから一人で出歩くんじゃないよ、などと大きな声で言いながら遠ざかっていく。

 酔っ払いの姿が見えなくなると黒いハナコは素早く腕を離し、不機嫌そうに鼻を鳴らす。顔形や体型はかつての彼女そのままだが、これまでと違って黒いセーラー服を着ており、どことなく存在感が希薄に見えた。

「ハナコの力に焼かれて灰になったはずだよな? どうしてここにいるんだ?」

 わたしの戸惑いを見て、黒いハナコは人を小馬鹿にするような笑みを浮かべる。

「ごく僅かだけど、キララの袖にわたしの灰が付着していたの。それを核にして何千人と憑かせていた黒い靄を呼び寄せ、力を集結させることができたわけ」

 あの靄は黒いハナコがいなくなったことで消滅したと思っていたが、そうではなかったらしい。なんとも忌々しいしぶとさだった。

「紙一重の幸運だった。日頃の行いが良かったのかな?」

 世界を焼こうとした企みのどこに良さがあるのかは分からないが、黒いハナコは自分の言ったことが随分と気に入ったようで、くつくつと笑い声を立てた。

「で、お前は何をする気なんだ? 世界を焼くつもりなら見逃せないわけだが」

 わたしは背中に隠した手でスマホを操作し、メッセージ送信の準備を整えながら相手の答えを待つ。じっちゃんの心と繋がっているならわたしを直接攻撃することはできないはずだが、指を差して痛みを与えて来るかもしれないし、靄人をけしかけてくるかもしれない。どちらをされてもハナコやイブさんのバフがない今のわたしではひとたまりもないだろう。わたしにできるのは何かされたとき素早くメッセージを送ることだけだ。

 勝ち目はないと分かっていたが、わたしは顔にも態度にも出さず、黒いハナコに立ちはだかる。

「当然よ、わたしは世界を焼くために生まれてきたのだし……」

 黒いハナコの顔に、わたしでも分かるような迷いがくっきりと浮かび。

「そのように生きてきたの。他の生き方ができると思う?」

 不安そうに問いを投げかけてくる。自分のことが全く分かっていないと告白しているも同然だった。

 わたしは送信ボタンをタップするのをやめ、画面を閉じてバッグにしまう。いまここにいる黒いハナコはかつての彼女と違う……そんな気がしたからだ。

「わたしは人間としてしか生きていないから、人でなしが変われるのかと訊かれても分からない。一つだけ確かなのはかつてサオリに力を奪われたとき、お前は世界を燃やすことができない自分に耐えられなかった」

 だからハナコは慈悲として、魔を滅する力で黒いハナコを焼いたのだ。

「今は耐えられるのか?」

「分かんない。少しだけ力を取り戻したけど、今のわたしにはやっぱり世界を焼くことなんてできないの。そして戦争はとっくの昔に終わってるから、補充することもできない。ほら、わたしって焼夷弾が人を焼いた煙の集合体だから」

「いや、そんなこといきなり言われてもな」

 えぐい出自に顔をしかめると、黒いハナコは大袈裟に両腕を広げてみせた。

「何千もの人間に、かつての記憶を夢として見せてやったわ。鳥の化け物が夜空を飛び交い、炎の星を容赦なく降らす。何千何万もの人たちが惨たらしく焼け死んだ。男も女も、大人も子供も、一切の区別なく。とてもとても酷いことで、だからみんな怒ってくれると思った。でも、そうはならなかった」

 黒いハナコの話を聞いて、わたしは父の反応を思い出していた。

「父さんは酷く悲しんでたよ。きっと他の人もそうだったんだろ?」

「ええ、そうよ。怒ってくれた人もいたけど、ほとんどの人は悲しみと憐れみだけ。あれをやった奴らに報復するなんて考えなかった。まるで戦争という選択肢がこの国からすっぽりと消えたかのよう。かつての日本人はみんな当然のこととして考えていたのに」

 わたしは黒いハナコの嘆きに何も答えることができなかった。父と同じものを夢として見たら悲しみと憐れみを感じたはずだし、怒りを抱いたかもしれないが、報復なんて思いもよらなかったはずだ。

 戦争はあまりに縁遠く、想像の及ばないものだから。

 かつての大戦が終わってから八十年近く、日本は戦争を行っていない。自衛隊という専守防衛の組織を作り、人道支援の名目で海外に隊員を派遣することはあったし、経済支援という形で軍を出さずに加担したこともある。でも、少なくとも国土が戦火に焼かれるようなことはなかった。

 そんな国に生きてきた人たちが、たとえどんなに非道な行いであっても、報復してやろうなんてそうそう考えられるものではないはずだ。

「そんな思いが一気に入ってきてさ。わたし、分かんなくなっちゃったんだ」

「分からなくて、苦しいのか?」

「ええ、その通りよ。でも、耐えられないほどじゃない。わたしは分からないままで存在できている」

 黒いハナコはやはり、かつての憎悪に取り憑かれていた怪物ではないらしい。羊のように迷うその姿には人並みの弱々しさすら感じられた。

「何をしていいか分からないし、どこに行って良いかも分からない。ただ、もう一人のわたしの近くにいると存在を気取られてしまうから……」

「だからこんな所にいたんだな」

 わたしが今いるのはチャンプの家の近くで、ハナコの憑いている学校からかなり離れた場所だ。わたしは今日、喧嘩の立会人としてここに来ていた。最近になって女が頭を張ってるからとナメた真似をする奴らが現れ、最終的に頭同士の喧嘩で決着をつけようということになったのだ。

 背丈も重量も相手のほうが上だったけど、結果はチャンプの圧勝だった。続いて脇に控えてた奴らが一斉に殴りかかってきたが、チャンプはそいつらもあっさりと蹴散らした。屈強な男たちはプライドをずたずたにされ、這々の体で逃げていったのだ。わたしはかつて、よく彼女に勝てたなと思う。

「そんな格好で歩いてたら素行の悪い奴に目をつけられるぞ。いや、お前なら槍でも鉄砲でも効き目はなさそうだが、騒ぎを起こされてごたつくのは避けたい」

 わたしは山彦が起こした一連の騒動を思い出す。彼女は自分から被害を加えようとしない大人しめな妖怪だからあの程度で済んだが、黒いハナコがそれ以上の騒ぎを平然と起こすことは想像に難くないし、見て見ぬふりをすることはできなかった。

「じゃあ、どうすれば良いの? わたしのために家でも用意してくれる?」

「そいつは無理な相談だけど、そうだな……良い話がある」

 わたしは黒いハナコのような、行き先のない人外が軒を借りるための場所を知っている。

「教導神社ならお前を置いてくれるかも」

 教導の名前を出すと、黒いハナコは露骨に嫌そうな顔をした。

「ゲンの世話になるなんてできるわけがない! わたしは彼を乗っ取って、命の危険に曝したんだから」

「そうかな、あのじっちゃんなら笑って受け入れそうな気がする」

 わたしの言葉を黒いハナコは否定しなかった。そういう人物だとよく分かっているから反論できないのだろう。

「それにあの仏頂面した暴力女もいるのよね?」

 だからサオリのことを持ち出して、渋り始めた。

 サオリの優しさをわたしはよく知っているが、それはそれとして人外に対する容赦なさを否定することはできなかった。黒いハナコを教導神社に連れて行ったとき、サオリがどう反応するかはわたしにも読めないところがある。

「あいつさ、気持ち悪いんだよね。わたしをぼこぼこにしたときも、なーんも表情がなくてぞっとしたもん。本当に人間なの? 人として致命的に欠けたものがあったりしない?」

「いや、そこまで言うのは流石に酷くないか?」

「いいえ、いいえ。わたし、あのおっかない女がいる所には行きたくないもぅん」

 黒いハナコは駄々をこねる子供のような態度を取る。サオリの底知れなさを警戒するのは理解できなくもないが、黒いハナコをこのまま放置するわけにはいかない。

 なんとかこの駄々っ子を連れていかなければという思いに駆られ、拙い頭でもう一案だけ捻り出した。

「神社で暮らすようになったら、キララが会いに来てくれる」

 わたしは先月の今頃、浅草近くの喫茶店で話してくれたことを思い出していた。

『友達だったんです、とても短い間だったけど。嘘じゃありませんよ』

 キララは真剣な顔で言ったけど、あまり期待はしていなかった。黒いハナコにとってキララは単なる人質であり、あの同情はストックホルム症候群みたいなものだと考えていた。

 だが、そうではなかったらしい。キララの名前を出した途端に黒いハナコの頰が赤くなり、全ての考えが抜けてしまったかのように、ぽかんと口を開けてしまった。

「キララはお前のこと、友達だと言ってたよ」

 効き目ありと見て追撃すると、黒いハナコは可哀想なくらいに動転し、首を何度も横に振った。

「うそ、だってわたし、キララを酷い目に遭わせたし、もう少しで殺すところだった。そんなわたしと友達になりたいだなんて嘘に決まってる!」

「神社に来たらわたしの言葉が嘘かどうか、分かると思うけど」

「やだ、そんなのやだよ! だって、キララがわたしのことを怖いって、嫌いって、近づくなって言ったらどうすればいいの?」

 黒いハナコの取り乱しように、わたしはかつてサオリが語ったことを思い出す。

『キララはね、人ならざるものや現象を惹きつける性質があるの。今まで神隠しに遭ってないのが不思議なくらい』

 その時は軽く笑い飛ばしたものだが、黒いハナコはキララをはっきりと好いている。同じクラスの双子姉妹も実は人ならざるものでキララを溺愛しているし、わたしが知らないだけでキララに惹かれている人外は他にもいるのかもしれない。

「サオリに倒されたお前をキララは必死で庇ってくれた。覚えてるよな?」

 わたしはこの機を逃すまいと更に押していく。追い詰め過ぎて逃げられる可能性もあったから僅かに身構えたが、黒いハナコはすっかり項垂れてしまった。

 そんな彼女の手をそっと握る。少しだけ抵抗されたが蚊に刺されたようなもので、わたしに手を引かれるとゆっくり歩き始める。

 それから神社に着く少し手前まで一言も話さなかった。黒いハナコはずっと真剣に何かを考えているようだったし、わたしはといえばどう話を盛り上げて良いか分からなかった。

 サオリに事情を話してさっさと引き継ぎしよう。

 そう考えて歩を早めようとしたら、黒いハナコは突如として足を止める。

「あのさ、色々と考えてみたんだけど」

「神社の世話になるのはやっぱり怖い?」

 直前で怖じ気付いたのかと思ったのだが、黒いハナコは首を横に振った。

「別に怖くなんかないもん。わたしが考えていたのは新しい名前よ」

「新しい名前って、どういうこと?」

 何を考えているのかが分からずに訊ねると、黒いハナコは察しの悪さを咎める視線を向けてきた。

「新しい生き方をするのだから、相応しい名前を用意する必要があるでしょう?」

 そこまで真剣になるものかと思ったが、彼女はかつて存在意義を失ったことで消滅を余儀なくされた。もう一度この世に存在するならば、自分のことをできるだけはっきりと定義し直す必要があるのかもしれない。

「で、ようやく思いついたの。クナコってどうかしら?」

「くなこ……えっと、どういう由来なんだ?」

 まさか黒いハナコを略して……いや、新しい生き方をするための名前でそれは流石に安直すぎるから、きっと別の意味があるに違いない。

「変な顔してるけどしっくり来ない?」

「いや、自分で決めたなら良いと思うよ」

 曖昧に同意すると黒いハナコは明らかに機嫌を良くし、足取りも軽くなる。

「じゃあ決まりね。これからはわたしのことをクナコと呼ぶように」

 なんとも無邪気な物言いで、かつて敵の全てを焼き尽くそうとしたようには見えなかった。キララもそんな言動にほだされて、彼女と友達になろうとしたのだろうか。父を酷い目に遭わされたし、わたし自身も死の淵に追いやられたが、今の彼女を憎む気持ちにはなれなかった。

 もうすぐ神社に着くというところで、クナコはわたしの方にくるりと振り返る。

「わたしね、やっぱり怒ってる。敵も、敵の力で復興したこの国も焼いてしまいたい。でもね、悲しみや憐れみをくれた人たちがいる。わたしを友達と思ってくれる子がいる。これからどうなるか分からないことに、不安と楽しさの両方を感じている。この気持ちをどうすべきか、まだ何も決まっていないの」

 その告白を聞き、わたしはクナコが何になってしまったのか分かった気がした。

 今のクナコは限りなく人間に近い存在なのだ。だから、自分が何者か分からなくても存在していられる。分からなくても生きていけるのが人間というものだから。

 わたしはその発見をクナコには伝えなかった。これは教えられるものではなく、自分で気付く必要のあることだと思ったからだ。

 そのための時間はいくらでもある。彼女が再び世界を焼こうとしない限り。

「何も分からなかった今日が終わる。何も知らない明日が始まる。怖いけど、それはきっと悪いことじゃない」

 再び前を向き、神社の階段を登っていくクナコを見ながら、わたしは切に願う。



 どうかそんな日が訪れませんように、と。


   終

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ガールズ・イン・トワイライト 仮面乃音子 @robert2nd

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