エピローグ 黄昏の終わり(2)

 三月十日、わたしは半日の外出許可を得て、久々に病院の外に出た。

 本当は外出を許可するつもりはなかったそうだが、どうしても今日でなければと頼み込んで押し切った形だ。

 二週間近くも寝たきりでかなり衰弱していたからリハビリは不十分で、外出には車椅子を使わなければならない。

 だからユウコ先輩とサオリ先輩が付き添ってくれることになった。

 今日は金曜だから出席しないといけないはずだが、当然のような気軽さでその役目を引き受けてくれたのだ。担任に事情を説明したら、今日は学外で勉強をする日だと言って快く許可を出してくれたらしい。

 車椅子を漕ぎ、病院前のバス亭からバスに乗って近くの駅へ。そこから電車に乗り、揺られることおよそ一時間ほど。両国駅の側にある慰霊堂へ参り、一駅戻って秋葉原へ。サオリ先輩が副業用のPC部品をいくつか購入するため少しだけ寄り道したのち、バスに乗って二つ目の目的地である戦災資料センターに向かう。

 目的は東京大空襲の足跡を辿ることだった。本当は浅草駅近くにある慰霊碑など他にも行きたい場所があったけど、体調の問題で二つだけに絞った。

『人を悼むのはいつでもできる。記念日である必要はないんだよ』

 お医者さんは外出の目的を聞いて親切に諭してくれた。わたしはそれに従うべきだったし、無理をしたからこそ先輩がたに迷惑をかけている。分かっているけど、衝動を止められなかった。

 炎で燃える街ではなく、復興を成し遂げた街を今日この日に訪ねたかったのだ。

 二つの施設を訪ね、街の雰囲気を味わうと、わたしたちはいつもなら足を運ばないような雰囲気のある喫茶店を選んで入店した。別に手頃なチェーン店でも良かったけど、人の目が気になってしまったのだ。

 先輩たちは雰囲気のある美人だから大学生でも通るかもしれないが、わたしはどう見ても高校生、下手したら中学生に見られるかもしれない。あとは車椅子に乗ってるとみんなじろじろ見てくるから、それがどうにも落ち着かなかった。

 店の前で車椅子を下り、先輩がたに支えられてゆっくりと店の中に入る。一つだけ用意されている四人がけの席には常連っぽい男の人が座っており、わたしたちを見ると何も言わずカウンター席に移ってくれた。わたしはその人にお礼を言ってから席に座り、ユウコ先輩が車椅子を畳もうとするとマスターが空いているスペースに置いておけば良いと言ってくれた。

 いつも閑古鳥だからな、休日は席も埋まるんだよといったマスターと常連っぽい男のやり取りを見て、雰囲気のある外観よりはずっと気安い店なのだなと分かった。料理や飲物のメニューを見てもチェーン店よりは高いけど、目玉が飛び出るほどのものではなかった。

 おすすめとあったので店長特製のタルトとコーヒーのセットを三人前、ここはわたしの奢りだ。本当は交通費も入館料もわたし持ちにしたかったけど、社会科見学のようなものだからと聞き入れてくれなかった。午後のカフェはその範疇外なのか、それともわたしの気持ちを汲んだのか、素直に奢られてくれた。

「それで、どうだった?」

 水を軽く飲んで喉を潤していると、サオリ先輩がストレートに訊いてくる。今ではすっかり慣れたけど、出会ったばかりの頃はこの前置きのなさに戸惑ったものだ。

「授業で聞いて知っていたこともありましたが、知らないことのほうがずっと多かったです」

 近現代史はただでさえ覚えることが多く、一つ一つが印象に残りにくい。それに暗記というのはいちいち気が滅入るものだ。まあ、近代学習と暗記は切り離せないものではあるんだけど。

「例えば教科書に乗っている大空襲以外に何十回と飛行機がやってきて、爆弾を落としていったことなんて初めて知りました。あんなのがしょっちゅうだったら当時の人はさぞかし怖かっただろうなと考えたりもしましたし、大空襲前後の写真を比較すると悲惨なことが起きたんだなと分かりますし、それでも今の街があるのだし……すみません、なんだかとりとめがないですね」

「展示物とか見てると、過去に起きたことなんだって実感が湧いたな」

 わたしのとっちらかった発言に対し、ユウコ先輩の意見はなんとも素朴だったが、サオリ先輩は深く頷いてみせた。

「キララが言ったようなことは、今だと様々な媒体で調べることができる。本でも動画でも良い、何かしらの方法で知識を手に入れられる。けど、実感を得るためには間近で触れるしかない」

 ハナコに攫われるまでのわたしなら、サオリ先輩の話を古臭いと思ったかもしれない。でも、今のわたしは時間をかけて見聞きし、感じることの意味を少しだけでも理解しているつもりだ。

 そこまで考えてようやく、わたしはこの街に来たいという衝動の本当を知ることができた。

「わたしはハナコがいた場所を感じたかったんです。そこでかつて何を考え、何に触れていたのかを知りたかった」

 今日なら彼女の生と死を感じることができると思った。でも、この街は活気があって平和で、戦争とも炎とも無縁の場所だった。

「友達だったんです、とても短い間でしたけど。嘘じゃありませんよ」

 恐怖と痛みに心を握られた不平等な関係だったけど、対等なものもあったと信じたかった。

「わたしはキララの言葉を疑ったりしない」

 サオリ先輩の言葉にユウコ先輩は深く頷く。そう思ってくれる二人がありがたくて、迂闊にも目に涙が浮かんできた。

「おすすめセット三人前、お待たせしました」

 マスターが絶妙なタイミングでやってきて、感情がひゅっと引っ込んだ。目頭に溜まった涙はゴミが入ったふりをして拭い、小さく頭を下げるとコーヒーに角砂糖を一つ、ミルクを多めに入れる。ユウコ先輩は香りを堪能してから何も入れずに一口含み、目をぱちぱちさせる。

「良い豆だな。これ、分けてもらえないかなあ」

 生のままの味と香りを褒めるユウコ先輩の横で、サオリ先輩はコーヒーに角砂糖を二つ、そしてミルクをたっぷりと入れる。

「サオリはほんと、風情のないコーヒーの飲み方するよな」

「眠気覚ましに糖分補給、どちらも大事なことだと思うけど」

 コーヒーに機能しか求めないサオリ先輩にユウコ先輩は不満そうだったが、おそらく過去にも似たようなやり取りがあったのだろう。すぐに説得を諦めるとタルトをかじり、舌鼓を打った。

「うん、リピ決定。こっちに来る用事があったらまた寄ることにしよう」

 サオリ先輩は黙ってタルトをもぐもぐしている。声には出さないがよほど気に入ったらしい。

 そんな二人のやり取りを見ながら、わたしはハナコの言葉を思い出す。

『わたしを理解すれば、あなたは境界を超えるのよ。わたしと同じになって、痛みに狂い、怒りと憎悪で世界を焼くの』

 空襲の悲惨な事実をもっと知れば、ハナコの気持ちが少しでも分かるかもしれないと思った。でも、実際に浮かんできたのは悲しみであり、痛みへの忌避であり、こんな光景を二度と見ることのない国であって欲しいという、強い願望だった。

『ねえ、キララ。わたしと友達になろうよ』

 目の前にいる二人の先輩とは面白おかしい関係を続けたいし、ヒナタやヒカゲとはずっと良い友達でいたい。ネットを漁るのもデジタルコンテンツに触れるのも、オカルト系チャンネルの配信もみんな楽しい。これらは全て、世界が燃えてしまっては味わえないことだ。

 ハナコが指摘した通り、わたしには人ならざるものへの強い憧憬がある。できれば境界を飛び越えたいとも考えている。でも、そのためにいまある世界を台無しにしたいとは思わない。

 だからどんなに願っても、わたしとハナコは友達になれなかった。わたしはあのとき、針千本を飲まないといけない嘘をついてしまったのだ。

 そして全てが灰になってしまったいま、挽回の機会は訪れない。

 この嘘はきっとわたしの喉に、つかえとして残り続けるのだろう。



 その時は、それが覆しようのない事実だと思っていた。

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