霧立人

速水涙子

霧立人

 石段は下生えに隠れて見えなかった。

 それでも茂みに分け入って、その長いきざはしを上ると、行く手には見覚えのある鳥居が現れる。そうして辿りついたのは荒れ果てた神社だ。

 とはいえ、もはや見る影もないかと思われたその場所は、そう考えていたよりかは遠い記憶の面影を残している。とても足を踏み入れることはできない――というほどではない。

 草木に埋もれた石灯籠を、苔むした狛犬を、朽ちた社殿を横目に進んで行くと、その先にあったのは――

 大きな銀杏いちょうの大木が、かつてと変わらぬ姿でそこに佇んでいた。根元まで歩み寄り、その威容を仰ぎ見る。

 ――古い木ってのはなあ。化けるんだ。

 よく知らない老人の言葉。しかし、なぜか驚くほどはっきりと耳に残っている。

 ――そういう木は人の心をよく映す。

 そんな言葉とともに、そのときふと、ある物語を思い出した。この木にまつわる、不可思議ないわれを。

 昔々、ある村人がこの木を切ろうと考えた。するとその夜、木は夢に現れて、どうか切らないでくれと涙を流したそうだ。切らないでくれるなら、この姿ある限り村のことを守り続けよう――そう約束したらしい。その木が切られることはなく、今も御神木としてそこにある――という話だ。

 これに似た話は、どうも各地にあるらしい。その事実を知ったのは後のことだが、それでもこの話が特別だと思ったのは、関連してもうひとつ、別の話が伝えられていたからだ。

 あるとき、村の子どもが行方知れずとなった。村人たちは必死に探したが見つからない。かと思えば、次の日には自力で家に帰って来た。いなくなった間は、神社で見知らぬ人に遊んでもらっていたのだと言う。御神木が子どもを守ってくれたのだろうと、村人たちは感謝した。

 これはどこそこの家の話で――と続く程度には、そう昔のことでもないらしい。少なくとも、これを話してくれた人はそう言っていた。

 つまり、この話は事実として語られていたわけだが――そうはいっても、まさか本当に木が子どもを助けてくれた、と考えたわけではないだろう。山中にでも迷い込んで、御神木のいわれを元に夢でも見ていた――と、落とし所としてはそんなところか。

 だとすれば、この木が不可思議なことを起こしたという、はっきりとした話はどこにもない。とはいえ――

 そのときふいに、子どもの笑い声が聞こえた――気がした。しかし、こんなところに子どもが来るはずもない。

 それでも十年ほど前、この神社は村の子どもたちにとっての遊び場だった――






 僕が生まれ育ったのは小さな村で、周りには山以外に何もないところだった。細い川に沿って一本の道が通っていて、それに寄り添うようにぽつぽつと家が建っている――それがこの村のすべてだ。

 村人たちが拠り所にしているわりには、その道はどこにも続いてはいない。別に意味もなく通したわけではないだろうが、かつては何かの産業の地であったのが廃れ、その結果、この村が終点になってしまっただけのことだ。

 先細ることは、すでに目に見えていたからだろう。その年の春、村で唯一だった学校の廃止が決まっていた。

 やむを得ずこの地に残る者たちを除いて、これを機にと移住を考えた者は多かったようだ。中学生になる僕も、春からは平地の町に引っ越すことになっていた。一家でこの村を出て行けば、もう戻って来ることもない。

 故郷を去る日はだんだんと近づいている。それでも、そのときの僕はそんな実感を抱くわけもなく、春休みの毎日をただ遊んで過ごしていた。

 ある日のこと。いつものように、たまり場の神社で友人たちと遊んでいると、五歳年下の弟がふいに御神木の方を指差した。

「銀杏のところに誰かいるよ」

 そう言って、弟は僕のうしろに隠れてしまう。

 引っ込み思案だった弟は、その頃ずっと、僕の後をついて回っていた。本当にどこへ行くにも一緒だったので、こんなことで転校した先の学校でひとり、やっていけるのだろうか――と密かに心配していたほどだ。

 ともかく――

 神社への入り口はひとつしかない。そこに誰かいるのだとして、その人物はいつの間に現れたのか。

 気になったので、僕はそのことを友人たちに伝えた。行ってみよう、ということになり、僕たちはそろって銀杏の木へと向かう。

 御神木の下にいたのは、見知らぬ老人だった。老人のわりにはがっしりした体格で、どこを歩いていたのか服や持ち物は土で汚れている。

 村の外から知らない人が来ることは珍しいので、僕たちは少しだけ怖気づいた――が、老人の方は思いがけず気さくに応じてくれる。

「おう。村の子か?」

 その気安さから、誰かが老人に問いかけた。

「何をしてるんですか?」

「木の具合を見てるんだよ。古い木ってのはなあ、化けるんだ。そういう木は人の心をよく映す。ここの木は少し泣き虫でな」

 僕たちは顔を見合わせた。冗談のような内容だが――どうも、本気で言っているように聞こえたからだ。

 きょとんとしている僕たちに、老人は笑いながらこう言った。

「近頃の子は、村の御神木のいわれも知らんのか」

 その言葉は責めるというよりは、どこかおもしろがっているかのようだった。

 そう感じたのは、気のせいではなかったのだろう。なぜなら、老人は嬉々として語り出したからだ。村の御神木にまつわる物語を――

 老人の話はとてもおもしろく、御神木のこと以外にも、世話をしている木についていろいろと教えてくれた。しかし、楽しい時間はあっさりと終わりを告げる。

「もう、こんな時間か。近々、嵐がやって来る。老いた木を守ってやらんとな。俺はそろそろ失礼するよ」

 老人はふいにそう呟くと、近所の家にでも帰るかのように、山中に入ろうとした。しかし、その先は深い森しかなく、神社から出るには石段を下るよりほかない。

「そんなところからじゃ、どこにも行けないよ?」

 誰かがそう言うと、老人は軽く笑い飛ばした。

「そんなことはないさ。山にも向こうがある。しかし、どうもよくないな。森がさわいどる。昔のようにはいかんからなあ。どうなるか、わしにも読めん……」

 奇妙な言葉を残して、老人はどこかへ去って行った。



 神社から家へ帰るとき、僕はいつものように近道をした。山の斜面にある道とも言えないようなところだが、村の子どもたちはよく通る場所だ。

 途中、見晴らしのいいところがあって、崖下にある家がよく見えた。そこは何かと噂がささやかれている家で――しばらくは年寄りのひとり暮らしだったのだが、少し前に娘と孫が出戻って来たらしい。何でも、暴力を振るう相手から逃げて来たのだとか、あるいは捨てられたのだとか――

 いずれにせよ、およそ子どもに聞かせるような内容ではない。おそらく表立って話していたわけではないだろうが、子どもというものは案外耳敏いものだ。僕もいろいろと口さがない噂を耳にしていた。

 そんなわけで、その家の近くを通るとき、僕の視線が思わずそちらに向いてしまったことも仕方がないことだろう。

 そのとき、僕が目にしたものは――

 高校生くらいの少女が、縁側で仰向けに倒れていた。見えるのは肩の辺りから上だけ。ただ、学校の制服を着ているらしいことはわかった。

 少女は虚ろな目をして、ただ呆然としている。

 家の奥からは、何かをわめくような大声が聞こえていた。ここからでは姿は見えないが、近くに誰かいるのだろうか。

 どこか異様な光景に、僕はぎょっとして立ち止まる。きょとんとしている弟をとっさに背後へ隠して、思わず息を潜めていた。

 少女の肌は驚くほど白く、生気がない。投げ出された腕はだらりとしていて、よく見ると痣のようなものがあった。そのことに気づいて、視線が泳いだその先で――

 ふいに目が合ったかと思うと、少女はその顔に力なく笑みを浮かべた。

 見てはいけないものを見た気がして、僕は慌てて目を逸らす。そして、弟の手を引きながら、すぐにその場を後にした。



 その日の夜、村に嵐がやって来た。吹きすさぶ風と激しい雨音。雷鳴は止まず、まばゆい閃光が時折、暗い室内を照らし出す。木々は騒ぎ、外からはたまに何かが飛ばされるような音が聞こえていた。そして、どこからか響いてくる、轟々とした唸りと振動――

 僕は布団にもぐり込みながら、そんな嵐の音にしばらく耳を傾けていた。とても眠れる気がしない。それでも、昼間に遊んだことで疲れていたのか、やがては夢の中へと落ちていった。




 嵐が去った次の日の朝。村中がさわぎになった。

 土砂崩れが起きたらしく、町まで続く唯一の道路が通れなくなってしまったらしい。外部への連絡も取れないという話で、大人たちもかなり混乱していた。

 とはいえ、子どもの僕にくわしいことが説明されるはずもなく、それらはすべて両親の会話から知ったことだ。僕は弟と一緒に家にいるよう言いつけられていて、その日はじっとして待つよりほかなかった。

 ともかく、そうして注意深く外の様子をうかがっているうちに、さわぎの原因が災害だけではないことがわかってくる。

 どうも、何人か行方不明者がいるということで、一家でいなくなった例もあれば、家族の何人かが忽然と姿を消したところもあるらしい。どこか別の場所に避難したのか、土砂崩れに巻き込まれたのか。あるいは――

 結局、その日は一歩も家から出してもらえず、僕は弟と室内で過ごしていた。そうして、状況は何も変わらないまま、日は落ちていく――

 夜も更けた頃、僕はどうしても眠ることができずに、窓から外をながめていた。

 昨夜とは打って変わって静かな夜。月に照らされて深い紺色に沈んだ村を見渡していると、ふいに夜道を誰かが歩いていることに気づく。

 ひとりは制服姿の――例の家の少女。そして、彼女に手を引かれていたのは、同い年の友人だった。

 不思議には思ったが、そのときの僕は、特にこれといった不安を覚えたわけではない。むしろ、こうして盗み見ていることが、何か後ろめたいような気がして、自然と息を潜めていた。

 ふたりはゆっくりと歩いて行く。しかし、その道の向こうは土砂に埋もれているはず。行く先には神社くらいしかない。

 いったい、どこへ行くのだろうか――




 そうして、夜が明けた次の日。村にはさらなるさわぎが起こっていた。

 何でも、昨夜に見かけた僕の友人が、姿を消してしまったのだと言う。

 僕はあのとき見たことを両親に話した。それは村の大人たちに伝わって、さっそく少女に話を聞きに行こう、ということになったようだ。

 どうしても気になった僕は、家をひとり抜け出して、その後を密かについて行った。そうして、いつもの近道に潜み、崖の上から様子をのぞき見ることにする。

 少女の家はしんとしていた。

 嵐の後、村の大人たちが住人の無事を確かめたらしいが、それ以来、誰も表に出て来てはいないらしい。そのとき会ったのも、少女の母親だけだったと言う。

 村人が訪いを告げると、家から中年の女性が出て来た。あからさまに不機嫌そうな顔で、何の用か、と村人たちをにらんでいる。

 しかし、娘はどこかとたずねられた途端、彼女は明らかに狼狽した。どうしてそんなことを聞くのか、と声を荒げた、そのとき――

「どうかしたの?」

 玄関の前に集まっていた村人たちの背後に、いつの間にか少女がひとり立っていた。やはり制服姿で、散歩に行っていただけ、とでもいう風に、首をかしげながら歩み寄ってくる。

 そのとき突然聞こえた、耳をつんざくような叫び声に、誰もが一斉に振り向いたのは少女の家の方だった。

 声を上げたのは、少女の母親だ。自分の娘をじっと見つめながら、何か恐ろしいものでも見たかのように震えている。

 ぎょっとしたのは村人たちだ。

「いったい、どうしたんだい」

 そうして心配する声にも反応することなく、母親は呆然としてこう呟く。

「だって。この子は、私が」

 そう言ったきり、母親はわなわなと震えている。村人たちは顔を見合わせた。

 とにかく、いなくなった子どものことだ、ということになって、村人たちは口々に説明し始める。別の子どもが――これは僕のことだ――いなくなった子どもと少女が一緒にいるところを見たらしい、と。

「だったら、そいつが連れて行ったんだ――この……化けもの!」

 女はそう叫ぶと、勢いよく家の戸を閉めてしまった。村人たちは呆気にとられた表情で固まっている。ただひとり、少女の目だけが妙に冷ややかだ。

 それからは、どれだけ説得しても母親が出てくることはなかった。この家には彼女の他にも家族が――少女にとって祖母にあたる人物が――住んでいるはずだが、元より足腰を悪くしていて、家を出ることは久しくなかったらしい。おそらくは家の中でじっとしているのだろう。

 戸には鍵がかけられていて、カーテンはどこも閉め切られている。いくら声をかけても、何の反応も返っては来なかった。

 村人たちは、ともかく少女から事情を聞くことにしたようだ。

 そうして村人たちに囲まれた少女は、昨夜のことについて、こう話した。

「夜の散歩をしていたんです。それで、あちこち崩れて、通れなくなっているでしょう? 村の子を見つけて、迷っていたみたいから道を教えてあげたの。ちゃんと家に帰って行ったと思う。でも、後のことは知らない」

 少女は嘘をついている。僕は確かに、彼女が友人とともに何もない道の先へ――神社の方へと歩いて行ったところを見たのだから。

 しかし、そのときの僕は、その場に出て行って、それを追及することはできなかった。ほんの子どもだったし、少女の言葉への違和感も、うまく説明することができなかったからだ。

 結局のところ、理由はわからないが、友人は山に迷い込んでしまったのではないか、ということになったようだ。

 捜索するにしろ、救助を待つにしろ、先行きの見えないこの状況で、村人たちの意見はまとまらず、皆が途方にくれていた。そうして、たいした進展がないままに、また日は暮れていく。

 それから、問題がもうひとつ。少女のことがあった。

 少女は家から閉め出されている。しかし、これについては、村人のひとりが自分の家へ来るように提案したことで、行く先は決まったようだった。

 これ以上は話を聞いていても仕方がないだろう。そう判断した僕は、誰にも気づかれないようにその場を後にする。

 家に帰った僕は、ひとり置いていったことを弟に責められた。しかし、もう二度とひとりにはしないと弟に約束したことで、それはどうにか許してもらえたらしい。

 家族そろっての夕食のあと、疲れていた僕は早々に眠りにつく。ひとりきりで、言い知れぬ不安を抱えながら。

 そうして――

 次の日。少女は招き入れた家の皆とともに、忽然と姿を消した。




 満月の夜。僕は眠ることなく、窓から外をながめていた。目の前を少女が通りはしないかと見張っていたからだ。しかして――

 夜も深まった頃、少女はふいに現れた。今度は誰も連れずに、たったひとりで。

 僕は両親に見つからないように家を出ると、少女の後を追って行った。そうして息を詰めていたときに、ふいに服の裾を引かれて、僕は飛び上がるほどにどきりとする。

 振り向いた先で、弟と目が合った。どうやら僕が家を出たことに気づいて、ついて来てしまったらしい。

「ダメだよ。家に帰るんだ」

 僕はそうたしなめたが、弟は一緒にいることを約束したと言い張って、戻ろうとはしない。

 仕方なく、僕は弟を連れて行くことにした。ぐずぐずしていては少女の方を見失ってしまう。

 弟には僕の言うことを必ず聞くように言い含めた。弟は神妙にうなずくと、いつものように僕のうしろにつき従う。

 そうして、先行く少女に気づかれないように、僕たちは夜道を歩いて行った。彼女が向かっているのは、どうやら村外れの神社のようだ。

 少女を追って長い石段を上っていくと、行く手には見覚えのある鳥居が現れる。そうして石灯籠を、狛犬を、社殿を横目に進んで行くと、その先にあったのは――

「何か用?」

 御神木の下で、少女が僕たちを待ちかまえていた。

 彼女の背後では銀杏の木が季節外れの黄色い葉を生い茂らせて、その枝を夜空へと広げている。月明かりが、その姿をぼんやりと照らしていた。

 ついこの間まで、この木は葉を落とした姿だったはず。奇妙な光景に、僕の不安はさらに大きくなっていた。

 その中で、少女だけが平然とした顔をしている。

「みんなをどこへやったんだ」

 震える弟をうしろに庇いながら、僕は少女に向かってそう問いかけた。少女はしばし無言で僕のことを見つめていたが、ふいに笑みを浮かべたかと思うと、右手を差し伸べながらこう告げる。

「いいよ。連れて行ってあげる。みんなのいるところに」

 差し出された手を取ることには、さすがにためらいがあった。それでも、ここまで来たからには――と、僕はその手を取らずに、少女に向かってただうなずく。

 少女はうなずき返すと、僕たちに背を向けて歩き出した。ついて来い、ということだろう。

 そうして少女が足を踏み入れたのは、御神木の向こうにある森だった。僕は弟の手を取ると、少女の後を追って木々の間にある道なき道を進み始める。

 山の中は深い霧に沈んでいた。姿を見失うことを恐れて、僕は仕方なく――弟とつないだ手とは違うもう一方で、先行く少女の手を取ることにする。少女は振り返って、ただ笑みを浮かべるだけ。

 途中、悲鳴のような音を立てながら風が吹き抜けていった。驚いた僕が思わず強く手を握ると、どこか悲しげな声で少女が呟く。

「ここの神様は泣き虫だね」

 そのとき、ふいに手を引かれて、僕は立ち止まった。僕を引き止めたのは、少女とつないだ方とは別の手――

 白い霧の向こうから、弟の怯えた声がする。

「兄ちゃん。僕、そっちには行けないよ」

 そう言ったきり、弟は一歩も動こうとはしない。怖いのだろうか。しかし、それも当然だろう。僕だって怖くないわけではない。やはり弟は連れてくるべきではなかった――

 僕は弟の元へ引き返そうとする。しかし。

「ダメよ。あなたはこっち。でも、その子は……ダメ」

 少女は驚くほどの力で、僕の手を引いた。弟とつないだ方の手がそれに抵抗したが、その力は弱々しい。ついには、弟は声を上げて泣き始めた。

 僕は思わず弟の元へかけ寄ろうとする。しかし、少女は僕のことを引き寄せると、弟とつないだ手を強引に振りほどいてしまう。

 弟の悲痛な声が辺りに響いた。

「何をするんだ!」

 僕は激昂した。しかし、それ以上に強い口調で少女は叫ぶ。

「この子はダメ! でも、あなたはまだ間に合う。行って!」

 少女の手を引く力は、もはや普通のものではなかった。僕は半ば引きずられるようにして歩いて行く。弟をひとり残して――

 兄ちゃん、と呼ぶ声が、遠く後方から聞こえてくる。

 弟を哀れむ思いと少女に対する恐れと、そして行き先への不安から、僕は必死に抵抗した。しかし、どうしてもその手を振り払うことができない。

 ただの少女に、これほどの力があるものだろうか。僕はいったい、何に導かれているのだろう。

 深い霧の中を進んで行くと、やがて視界が白一色になる。足元の地面はおろか、自分の手や足すら見えなくなった頃――

 ふいに、霧の奥から声がした。

「よく思い出して。嵐の夜に何があったか。私は自分がどうなったか覚えていたから気づけた。あなたは私とは違う。だから――」

 やさしい少女の声。気づけば、手を引く感覚はもうない。代わりに、そっと僕の背を押すものがあった。

「あなたはここにはいられない」

 目の前の霧は、月の光に照らされてぼうっと白く輝いている。その中へ足を踏み入れた途端、僕は落ちていった。下へ下へ。そして――

 そして、僕は夢から覚めた。




 気がつくと、僕は寝台の上にいた。

 弟の姿も、僕の手を引いていた少女の姿も、そこにはない。夢でも見たのだろうか、とも思ったが、どうやらここは家ですらないようで――運び込まれた病院の一室で、僕はやがて、自分の家が土砂に流されてなくなっていたことを知った。

 あの嵐の夜。大規模な土砂崩れによって、村のほとんどが壊滅したらしい。多くの村人が未だに行方不明の中、僕は奇跡的に救い出された者のひとりだった。

 夢の中でいなくなったと思っていた人たちは、むしろ無事に目覚めることができた人たちだったようだ。話ができた何人かは、土砂に埋もれている間、いつもどおりの日常を夢見ていたことを話してくれた。

 彼らが僕と同じ夢を共有していたかどうかは、わからない。

 その後、僕が両親と弟の生きた姿を目にすることはなかった。すべてを失った僕は、それからしばらく茫然自失の毎日を送ることになる。

 だから、これは後から聞いた話で――何でも、行方不明者の捜索中に明らかな他殺体が見つかったそうだ。それは、制服を着た十六歳の少女だったと言う。



 それから十年の月日が流れた。



 あの災害からこちら、村には住む者もいなくなり、僕の故郷は失われていた。こうして御神木の元を訪れたのも、久々のことだ。

 銀杏の木の下に立ち、しばらくその姿を見上げていると、山の方から、ふいに見知らぬ人が姿を現した。

 男だ。老人ではない。三十代くらいだろうか。がっしりした体格で、どこを歩いていたのか服や持ち物は土で汚れている。

 男の方も僕の存在には驚いたようで、あからさまにけげんな顔をしていた。そんな彼に向かって、僕は自分がかつてこの村に住んでいた者であることを告げる。

 男は納得したようにうなずくと、自ら片桐かたぎりと名乗った。

「古い木っていうのは化けるんだ。俺たちは、そんな木を世話して回っている奇特な集団だ」

 御神木のいわれを語った老人も、似たようなことを言っていた。だとすれば、あの老人もそのひとりだったのだろう。

「昔、同じようなことを話してくれた人に会いましたよ。この場所で。人の心をよく映す、とか」

 おそらくは仕事仲間だろうから、その意味がわかるかと思ったのだが、男はむしろいぶかしげな表情を浮かべた。

「あ? 誰がそんなこと言ったんだ? 桜庭さくらばのじいさんか?」

 残念だが、僕はあの老人の名を知らない。

 そんなことよりも、せっかくだからと、僕はずっと気になっていたことを男にたずねた。

「木が化けるっていうのがよくわからないんですが……もしかして、この銀杏の木が、切らないでくれと夢の中で泣いたり、迷子に夢を見せていたことを言っているんでしょうか」

 男が顔をしかめたので、僕はすべてを打ち明けた。老人から教えてもらった村の伝承も、土砂に埋もれている間に見た夢のことも――

 僕はあらためて、こう問いかける。

「この木には特別な力があるのでしょうか。僕は今このときにも、この木が見る夢の中で、村の皆が生きているような気がしてならないんです」

 男はしばらく無言で考え込んでいたが、僕の顔色をうかがうと、こう答えた。

「どうだか。おまえはそういうことにしておきたいんだろうが……仮に、こいつが夢を見せたんだとして、その伝承からすると、それは死者のためじゃなく――おまえのためだろう」

 僕はその言葉にはっとする。

 あの幻のような日々のことを、僕は死に瀕した者たちが見た夢ではないかと思っていた。僕が救い出された後も、両親や弟は、夢の中でいつもと変わらぬ毎日を送っているのではないか――と。

 その空想は、ひとりきりになった僕にとっては、確かに救いだった。

 しかし、銀杏の木にまつわる物語はいつも、ただ生者に夢を見せていただけだ。村人に己の嘆きを見せたように。迷子に楽しい夢を見せたように――

 僕は知らず涙を流していた。男は目を逸らしてから、こう続ける。

「どう考えるかはおまえ次第だ。だが、その死を受け入れて、弔ってやるのも、ひとつの道だと思うが」

 男はそう言うと、じゃあな、とひとこと告げてから、さっさと山中に消えていった。気をきかせて去ったのか、それとも本当に通りすがっただけなのか。

 ひとり残された僕は、あらためて銀杏の木を仰ぎ見る。

 ふと――ここの神様は泣き虫だね、という少女の言葉を思い出した。すべてが夢だったとすれば、彼女の存在はいったい何だったのだろう。すべては、この木が見せた幻にすぎないのだろうか。

 それでも僕は、あのとき霧の奥から聞こえたやさしい声のことを、決して忘れはしないだろう。

 真実はわからない。しかし、僕は残された御神木にそっと寄り添うと、遠く霧の向こうに隔てられた、ありし日の故郷と今は亡き人々のことを思った。

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霧立人 速水涙子 @hayami_ruiko

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