掘り返すのは思い出と、骨の味と、温故知新。埋めるのは、深い悲しみと慟哭

骨身に染みる自身の味。
地中に埋めて、熟成の時を経て今。

自身に大きく影響を与えた物の当時の新鮮さを覚えていると、しばらくして違った形でその真新しさに触れたときにどうしても、受け入れがたいもので。誰にでも手に取りやすくするというのは、平坦にするというのは、(悪い意味で)順位付けをしないという現代日本を反映しているかのようですね。ヘンリーのバックボーンに対する捉え方も、とことんまで「個性」をそぎ落としては、後に残るのは無機質な「没個性」のみ。水面から顔を出すこともかなわず、水没する個性。もがけども、水面ははるか遠く。
出る杭は打たれる。しかし、杭を一直線に並べたら、その上にはつるりとした断面だけが残るだけ。そこに凹凸があるからそ、「個性」なのであって、それが伸びていくからこそ、最後には、大樹へと成長する。向上心・探求心といった飽くなき渇望が糧となり、空へと伸びていく様は、見ていてとても気持ちの良いものです。もちろん、常にまっすぐに成長するわけじゃない。隣の木とぶつかるかもしれないし、強風にあおられて、幹ごとぽっきりと折れてしまうかもしれない。でも、そんなむき出しの「美しさ」こそが今、叫ばれているのかもしれません。
ようやく訪れた静寂の時。自身が出て行った時のまま、時が止まった部屋。骨壺に収められた、ばあちゃんの姿。思い出の箱を紐解くように、蓋を開けば美しき骨。故人を亡くした者にとって、火力の調整が~とは非常に複雑な心境だったかとお察しします。故人を思ってのことということもわかりますが、その身に余る悲しみが降りかかる側からすると、「ありがとうございます」と口にするのも違うように思います。何が正解かは……個々人によって意見が分かれるところですね……。
ばあちゃんの骨に触れ、温かさを感じる。昔、その「優しさ」で孫を包んでくれたように。今度は、自分がその「恩(温)」でばあちゃんを包む。溢れる「涙」では包めないから。
珈琲に溶かした美しい骨。珈琲の「黒」と混ざり合う骨の「白」。
その様子から、葬儀の鯨幕をイメージしたのですが。調べてみると、鯨幕は元々慶事でも使われていたということを知り、「骨を孕む」という、ある種のお祝いの日を象徴しているかのような感覚に陥りました。まさに、キラキラと輝く美しき骨のように。

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骨を孕む

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