ウェザーカレンダー(Ⅳ)

 僕の中で何かが弾けた。

 無我夢中でデスクに飛びつくと、ありったけのディスプレイを眼前に展開させ、制御システムへ命令を下していく。危険予測シミュレーション結果はものの数秒で弾き出された。オールグリーン。いける。

 胸中でガッツポーズを決め、衝動に突き動かされるまま制御実行フェーズへと進む。だが早々に躓いた。管理室長権限が無いため、変更を承認できないのだ。

 駄目か、と挫折しかけた、その刹那。承認許可待ちリストの文字列先頭に忽然とチェックマークが出現し、操作画面が実行モードへ移行した。思わず周囲を見回すと、望月が気障っぽく片目をつぶって見せるので僕は唖然とする。まさか、ハッキングしたのか?

 もう後戻りはできない。腹を括ってワイシャツの袖をまくり、望月と画面共有で作業分担しながら装置の作動に取りかかった。

 本来であれば一時間半後の予定だった降雨開始に備え、関東エリア上空でまどろんでいた制御装置たちが、エンターキーの一押しで一斉に覚醒する。装置稼働状況を示すエリアマップ全体に無数の青いランプが灯り、唸るような駆動音すら聞こえた気がした。

 十分と経たず、レーダーに点々と現れ始める雲の影。小さなゴミのようだったそれらは見る見るうちに膨張し、凄まじい勢いでエリア全域を覆い隠していく。上空への水蒸気輸送はフルスロットル。氷晶核投入量も許容限界寸前。地表付近ですら湿度はすでに百パーセントに到達した。対流圏で発達した積乱雲が、東京の空を支配する。


 六月五日、二十三時零分。ついに雨が降り出した。


 雨粒が窓ガラスを叩く微かな音が聞こえたかと思うと、それは急激に激しさを増して、オフィス内はたちまち周囲一帯を打ち据える雨音と厳めしい雷鳴で満たされた。

 窓越しに外の様子を窺っても、黒一色で塗り潰されて何も見えない。と、思いきや、空を走る稲光に一瞬だけ照らされた外界には、滝のような雨がドウドウと降り注いでいる。

 気象制御の運用開始以来、短時間集中豪雨は全て回避されてきた。こんな大雨を見るのは一体いつぶりだろう。圧倒される僕の背後で、「ざまぁ見ろ!」と望月が快哉を叫んだ。

 異変に気付いた室長や同僚たち、さらには上層部や外部からメッセージが怒濤のごとく送りつけられ、着信音と通知音が雨音に負けじとオフィス内で暴れ狂う。だが望月はものともしない。ディスプレイを侵略するメッセージウィンドウ群を管理者権限で一掃し、口笛混じりに作業を続行する。一蓮托生だと開き直り、僕もディスプレイに集中した。


 六月六日。日付を跨ぎ、雨は降り続く。


 これだけの事態を引き起こした以上、全てをコンピューター任せにはできない。レーダーと雨量計の推移に目を光らせ、シミュレーションと制御プログラムの微修正をひたすら繰り返す。長くこの都市を守ってきた雨水処理機能が、今も現役であることを切に願った。

 途方もなく長い夜の中、僕と望月はディスプレイを監視し、声も発さずにキーボードを叩き続ける。

 そうして朝四時を迎えたころ。さすがに疲労が誤魔化せなくなったのか、首を鳴らしながら伸び上がった望月が、ディスプレイから目を離して頭を振った。

 その気配で顔を上げた僕と、望月の視線が交錯する。

 時間にして約三秒。僕をぼんやりと眺めていた望月の充血した目が、次の瞬間、ぐわりと大きく見開かれた。

「ばっ……! お前、なんでまだいるんだよ?」

「え?」

「え、じゃねぇよ! 誰か来たら帰れなくなるぞ、今日は誰の誕生日だ!」

 デスクを両手で叩いて立ち上がった望月の剣幕に、そしてその言葉に、僕も遅まきながら目を剥いた。

 咄嗟に腰を浮かせはしたが、望月の顔を見ているうちに強い逡巡が湧き上がってくる。雨のあと、襲ってくるのは大火事だ。

「けど、お前一人に押しつけるわけには……」

 首をうち振り、僕はのろのろと座り直してディプレイに向かう。だが、その画面が突如として霧消し、続けるべき作業を見失った。

 驚き、再度顔を向ければ、唇の片端を上げて笑った望月が、まっすぐに出入口を指差して言う。

「卵焼きの借りだ。行け!」




 勢いよく椅子を蹴立て、僕はオフィスを飛び出した。

 エレベーターを待つことすらもどかしく、階段を駆け下りて無人のエントランスを突っ切る。無我夢中で屋外へと走り出れば、待ち受けていたのはバケツをひっくり返したような強烈な土砂降りだった。

 安全基準は満たしているため、これでも過去の豪雨と比べれば雨脚は格段に弱いはずだ。それでも壁のように立ちはだかる雨の迫力に、足下を揺るがす轟音に、路面から排水溝へ流れ込む水の勢いに、僕は気圧され、浮き足立つ。だが、脳裏に浮かんだ晴希と、美霞や望月の顔が、僕を雨空の下へと駆り立てた。

 昨日は晴れだったので、傘は持っていない。雨は容赦なく降り注ぎ、一瞬で全身がずぶ濡れになった。超電導リニアメトロの始発までは一時間以上ある。自動運転オートノマスバスも同様だ。タクシーを呼ぼうかと考えてポケットをまさぐり――財布も、スマートデバイスすらも、職場に置いてきてしまったことに気が付いた。

 一人息子のおっちょこちょいは、僕の遺伝だ。

 自分の間抜けぶりに失笑しながら、けれど引き返そうとは思わず、僕はそのまま雨の中を走り続ける。ぐしょ濡れのワイシャツとスラックスが肌に貼り付き、水を吸って重くなった革靴の爪先から飛沫が散る。路面にできた巨大な水たまりに嵌り、幾度となく転びそうになった。

 それでも足は止めない。闇と雨に沈む高層ビルの間を、車すらほとんど見かけない幹線道路沿いを、寝静まった住宅街を、僕はがむしゃらに駆け抜ける。

 走って走って、一体どこをどう走ったのかも覚束なくなってきたころ。ついに空が白み始めた。

 同時に、あれだけ強かった雨が段々と弱くなっていく。分厚い雲が割れ、その隙間から眩い陽光が差し込んで、夜を街から追いやっていく。雲から零れて空に撒かれた雨粒が、ダイヤのような光を放って降り注ぐ。そして。


 六月六日、五時零分。

 雨は、止んだ。


 僕は足を止めた。力尽きたからではない。十数メートル先に、自宅の屋根が見えたから。

 それ以上に、頭上に広がる晴れ渡った空が、あまりに美しかったから。

 上がった息を整えることすら忘れ、僕は上空を仰いだまま道路の真ん中に立ち尽くす。

 すると突然、前方から声が聞こえた。

「おとーさぁぁぁん!」

 目を見張り、視線を空から引き剥がせば、我が家のベランダから身を乗り出して手を振っているのは、パジャマ姿の晴希だった。

 眠れなかったのか目が覚めてしまったのか、空と僕とを交互に見ては爛々と目を輝かせる晴希。その背後では、窓際のテルテル坊主が誇らしげに揺れている。

「すごいよ、見て! ねえ、なんで、雨じゃなかったの? おとーさん、見て、なんで? すごいよ、見てよ! 今日は『晴れ』だよ!」

 頬を紅潮させて何度も飛び跳ね、興奮しきった晴希が僕に向けて叫ぶ。

 その小さな指が差し示す、雨上がりの空の彼方に架かるのは、街を跨いでなお余りある、大きく見事な虹の橋。

 頬に伝う雫を振り払い、濡れた顔をぐしゃぐしゃにして、「何言ってるんだよ」と僕は笑った。




「カレンダーどおりだろ!」






 Fin.

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