ウェザーカレンダー(Ⅲ)
六月三日、天気は雨。
昨日の記者発表のあとは地獄だった。クレーム電話やメールの嵐に晒されながら、局員総がかりで制御プログラムを変更し、機械動作をチェックし、地方支部との連絡調整に奔走する。
気象庁から公式発表されたカレンダーの変更理由は、「関東エリア制御システムの動作不具合に伴う気象制御調整」。公共放送は僕たちが四時間ででっちあげた資料を掲げ、「変更後の天気に合わせた行動をお願いします」と事務的に呼びかけるだけだ。
だが民放は、そしてSNSは違う。発表直後には気象制御調整の実態を疑うコメントが次々と現れ、翌早朝にはワイドショーで流れた報道が世間の注目を独占した。
なんでもこの週末、不倫疑惑が囁かれている経済界の大物が、夜景と屋上プールが売りの都内超高級ホテル最上階を貸し切ったとの情報があるそうだ。不倫相手はさる有名女優で、六月五日は彼女の誕生日らしい。
もしも愛人との一夜のために国を巻き込んで天気の変更を強行したのだとしたら、怒りも呆れも通り越して恐れ入る。日本中で、この管理室ではことさらに、強い怨嗟の声が上がった。
だが、僕にとっては、六月五日に誰がどこで何をしていようがどうでもいいこと。
六月六日は雨になった。その決定は、もう覆らない。
六月四日、天気は昨日に続き雨。
それもじきに止むだろう。六月五日は「晴れ」なのだから。
深夜二十三時過ぎに帰宅すると、晴希はすでに寝たあとだった。この三日間は残業と早朝出勤の繰り返しで、一度も晴希と直に会えていない。
土曜が雨だと知った際の、晴希のショックは並大抵ではなかったようだ。と言っても、怒って暴れたり、泣き喚いて手が付けられなくなったわけではない。ただ、カレンダーを指差し、強張った顔で「なんで?」と、何度も何度も繰り返し問うたらしい。美霞曰く、「泣かれたほうがマシだった」そうだ。
子ども部屋に忍び込み、明かりは点けないまま、僕は布団の中で丸くなる晴希の寝顔を覗き込む。報道から二日経つというのに、枕と頬に残る涙のあとに胸が締め付けられた。
ふと明るさを感じて窓へ目をやれば、カーテンが開けっぱなしになっていた。外の雨はほぼ止んでいる。ガラス越しに差し込む月の光に照らされているのは、カーテンレールから吊された白いもの。
晴希が祖母――僕の母から、テレビ通話を介して作り方を教えてもらったらしい。
十五年以上ぶりに見るテルテル坊主は、昔と変わらず、無責任に呑気な笑顔を浮かべている。
六月五日。天気は晴れ。突貫のプログラム変更は無事に反映された。二十二時を回った職場の窓から外を覗けば、雲一つ無い夜空にビル群の光が冴え冴えと、憎らしいまでに美しい。
怒濤の一週間を終え、疲れ果てた同僚たちが退勤した管理室には、残務処理を引き受けた僕と望月だけが残されている。
照明の三分の二が落とされた仄暗いフロアで僕がディスプレイを睨んでいると、不意に肩をぽんと叩かれた。背後を振り仰げば、コーヒーカップを持った望月の疲れた瞳の中に、死んだ魚のような僕の目が映り込んでいる。
「そろそろ帰れよ。遊園地が無くなるわけじゃないだろ?」
望月は薄く笑ってそう言ってくれたが、僕は咄嗟に返事ができなかった。
彼が言うとおり、遊園地が明日、臨時休業に踏み切らないことは確認済みだ。雨天時に乗れないアトラクションはいくつかあるが、晴希の誕生日を遊園地で祝う計画が頓挫したわけではない。
だとしても。
「十年ぶりだったんだ」
僕はぽつりと呟いた。望月がきょとんとするが、構わず続ける。
「十年前の明日……晴希が生まれた日は快晴だった。けど、次の年からはずっと雨。晴希が生まれたあとの九年連続、六月六日は雨だったんだ」
望月が驚くのが分かった。意識していなければそんなものだろう。
祝日でもなければ、催事が多い時期でもなく、まして梅雨なのだから雨の確率が高いのは仕方がない。とは言え、六月六日が雨でなければならない合理的な理由も思いつかないから、たまたまそうなっただけと考えるのが自然だ。
六月六日に雨ざあざあ。古い絵描き歌にそんな歌詞がある。議員にロマンチストが紛れているのかもしれないが、冗談ではない。たかが誕生日と言われるかもしれないが、されど誕生日だ。現に今夜は、一人の女優の誕生日を祝うためだけに晴れになったのではないか。
僕の一人息子は、物心ついてから今日までずっと、誕生日が晴れることを願い続けてきたというのに。
だが、もう決まったことだ。八つ当たりでしかないことに気付き、僕は望月から目を背けてディスプレイと向き直る。
「悪い、お前の言うとおりだな。遊園地が雨で溶けるわけでもなし。せめて明日はめいっぱい甘やかして――」
「晴れにするぞ」
力無く誤魔化そうとした僕の声に、きっぱりとした声が被さった。え、と呟き、僕は戻したばかりの顔を再び背後へ向けるが、望月の姿はすでに無い。
瞬間移動のような速さで自分のデスクに舞い戻った望月は、ディスプレイを複数同時展開させて、仮想キーボードを凄まじい勢いで叩き始めていた。
反射的に立ち上がったものの、驚くあまりに言葉が出ない。呆然と立ち尽くす僕を、望月の叱咤が張り飛ばす。
「ぼさっとするな、手伝え! 関東エリアの明日二十四時間降水量を六時間分に凝縮して、今夜から明日未明にかけて集中降雨させる。ついでにエロジジイに天罰を下してやろうぜ。降り始めは今夜二十三時零分、明朝五時以降の天気は『晴れ』だ!」
「冗談だろ? そんなことできるはずが――」
耳を疑い、慌てて否定しようとして、僕は言葉を切った。
できるはずが、ある。いやむしろ、できないはずがない。
人類は空を掌握した。気象はもはや
ゆえに立ちはだかる障壁は、技術ではなく、責任の所在。
「――二人ともただじゃ済まされないぞ。最悪、首が飛んでもおかしくない」
苦々しい気持ちを飲み下して胸にしまい、僕は静かに警告した。
だが、パーティション越しに僕を見やった望月は、ひねくれた笑みを浮かべて言い返す。
「その昔、天気が急に変わっただけで、人は誰かを責めたのか?」
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