化ける
空一
化ける
朝起きると、そこには全く違う顔が写っていた。
「化ける」
私はそのことについて、なんの驚きもなかった。まるで人間が酸素を吸って、二酸化炭素を吐き出すのと同じように、私にとってそのことは、自然の摂理と変わらなかった。
こうやって、朝起きて違う顔になったのは、初めてのことじゃない。これまで何回、違う顔になってきただろうか。覚えていない。
初めてなったときのことも、覚えていない。
布団から寒さに震える身体を出し、そのまま洗面所へと向かっていく。
バシャバシャと他人の顔にも関わらず、容赦なく水の流れを押し付ける私の手は、とっくにこの特異な現象に慣れ親しんでいた。
一つ不思議なことは、身体は変わらず、顔だけが変わるということだ。
なぜそうなのかはわからない。ただ、私はこの摂理を作った人物に腹が立っている。どうせなら、体ごと変わってしまえば、あんなことや、こんなことができたかもしれないのに。
別にエロいことではないけど。
それでも顔だけ変わるというのは何かと不便で、例えば明らかに男の顔が私に張り付いたときは、一歩も外から出られない。
別に私に胸があるとか、そういうことを言いたいんじゃない。貧乳だし。
それでも人間の摂理に従って私が行動するのであれば、いささかルールに倣わないといけない。
もちろんトイレは男子トイレ。女性用専用車両に乗れるはずもなく。婦人用キャンペーンに参加することもできない。
顔は男なんだけど、心と身体は女なんです!なんて、時代の流れも困惑するだろう。
だから私は、そんな日は外に出ないようにしている。端から見ればニートだが、人それぞれ事情があることを考慮してほしい。
ちなみに仕事をしていないわけじゃない。
テレワーク専門の派遣社員をしている。女の声で「事情が‥」といえば、大体どの企業も許してくれる。そうやって、私はなんとか食い扶持を繋いでいる。
ドライヤーで髪を乾かして、ブラシで線をとかしていく。
今日の顔は女性だった。
これまで3日連続で男が続いていたから、少々懲り懲りしていたところだった。
タンスの中から女物のワンピースを取り出して、サイズを合わせる。
冷蔵庫の中身を確認し、何が足りないかをチェックする。
今日は久しぶりにあのカフェに行ってみよう。
私はドアを開け、3日ぶりの春風を纏った。
3日間外に出なかっただけで、街は目まぐるしく変わったかのように感じる。
あそこのお店は閉店していたっけ。
ここに信号なんてあったっけ。
久々の外はなんとも怖い。
明るく元気な子供の声が聞こえる。
引きこもっていたから聞いていなかった声だ。
子供の声を聞くと、自分の将来に対する不安の考えが脳裏に浮かぶ。
私は結婚できるだろうか。
子供を作ると、その子供は私みたいに顔が変わるのだろうか。
学校にきちんと通えるのだろうか。
あれこれ考えてみると、漠然とした恐怖が迫ってきているようで、考えるのを私は止めた。
私は大きな夢を見ているのかもしれない。
曲がり角を曲がって、パン屋さんを曲がって、狭い路地に入ると、そこにアンティークなカフェがあった。
ここのコーヒー、おいしいんだよな。キリマンジャロの風味が良くて、スイーツがとろけるように甘くて、雰囲気もいい。
カランと店内に入ると、静かな落ち着く音楽が流れていた。
私は決まってテーブル席に座る。もちろん、店内が混んでいるときはカウンターへいくのだが、空いているときは、テーブルを独り占めしたくなる。
コトンと荷物をおいて、メニュー表には目もくれず、キリマンジャロのコーヒーと、ショートケーキをチョイスする。
少し通な客に見せたいのだ。
コーヒーが到着し、そっとカップを持ち上げ、ゆっくりと香りを確かめる。
こんな私だからこそ、落ち着ける空間というのは大変貴重で、香りを確かめている時間が愛おしくなる。
そうして私はコーヒーを飲んで、そのまま持ってきた本を開いた。山月記を持ってくればそれもまた面白いだろうが、私が持ってきたのはエッセイだった。
エッセイは私の心のなかに詰まっている声を、そのまま言葉にしてくれる。
「どうして、あなたがここにいるの?」
そう、こんなふうに…って、あれ?
声がした正面を見上げると、そこには若い女性が座っていた。
「ねえ、どうしてあなたがここにいるの?」
聞こえてないふりをしようにも、イヤホンなどをはめてはいなかったため、それは無理だった。
「えっと‥見間違いなんじゃないですかね。」
私は白々しくもこう返した。ちょうど届いたショートケーキの苺を頬張る。
「見間違いなんかじゃないわ。あなたは、どう見てもあの子なんだもの。」
知らない人のふりをしても、逃げ切ることはできなかった。
私は、こういった場合を恐れないでいたわけではいなかった。常に、こうなる可能性を考えていた。
だから大通りは避けて、裏道を行き、メジャーなカフェは避けて、こんな隠れ家的なカフェにやってきたのだ。
これまでその方法でバレなかったから、大丈夫だろうと思った。
特に今日の顔は可愛かった。
これまで見た中でも、目鼻立ちがくっきりしたモデルさんみたいな顔だし、この顔を自慢せずにはいられなかった。
「ねえ、どうなの?」
さっきよりも強く問いただされて、反応せずにはいられなくなる。
「‥双子の妹だよ。」
「‥は?そんなの、いないし。」
無理だった。王道展開でいけば、なんとか誤魔化せると思っていた。
「ねえ、なんでそんな嘘つくの?」
どんどん質問が強気になっていく。
「えっと‥実は、みんなに知られたくなくて。」
「え?」
「私、実は誰にも言えない事情があって。だから、あなたにも会いたくないの。今は。」
絞り出した言い逃れがこれだった。
なんだ、誰にも言えない事情って。自分でも可笑しくなる。
「そう、なの‥。だったら、あなたはミホってこと?ミホで偽りはないってこと?」
「え‥あ、うん。」
わたしはミホっていうのか。
「‥そう。あまりにも突然いなくなって、突然現れるから、取り乱したんだ、あたし。でも、まだ本物って信じられない。ねえ、あなたの誕生日は?」
「え‥?」
やばいやばい。そんな身内ネタ知らないって。
「えっと‥4月、とか?」
「10月だよ。」
やば。
「じゃあ、出身高校は?」
「え、あー。北中?」
「ざんねん、緑中。」
私の出身校じゃん。
「なら、趣味は?」
なにこれ?面接?
「ヒント。運動に関係してます。」
ヒントとか言い出しちゃったよ。
「えーっと、ピンポン!卓球っ!」
「料理ね。」
運動じゃないじゃん‥
「ねえ、本当にあなたはミホ?」
怪訝な顔をして、彼女は私に詰める。
やばいぞこれ。もう無理なんじゃないか。いくらなんでも外しすぎだろ。
「‥もしかして、記憶喪失?」
言いにくそうに、彼女は呟いた。
「えっ‥あ、そう、そう!」
思いがけない助け舟に、私はしがみつく。
「‥なるほど。副作用かなんかかな。」
「え?」
「あ、こっちの話だから。」
そういって彼女も、頼んでいたブルーマウンテンのコーヒーを飲んだ。
「じゃあ、記憶喪失になる前の記憶とか、断片的に残ってる?」
「え‥いや、なにも。」
「ほんとに?ほんとに何も?!」
彼女はなぜか、前のめりに乗り出してきた。
「あ、うん‥。」
「っはあー、よかった。」
そう言って、彼女はコーヒーをグビグビ飲んだ。
安心したのか、さっきまでの血の気が引いている。
何をそんなに焦っていたのだろう。
「じゃあ、誰かに対する強い恨みとか、ない?」
「え?いや、とくになにも‥」
とくになにもないとしか、答えられなかった。
「っはあー、よかった。」
また彼女はそう言って、コーヒーをグビグビ飲んだ。
酒を飲むかのように彼女は豪快に飲んで、そのまま、飲み干した。
「あっ、そうだ私。これから用事があるんだった。先に行くね。久しぶりに会えて、よかった。」
「え、あ、うん。」
私が答えると、彼女は笑顔を見せて、立ち上がった。
「ほんとは私、後悔してたんだ。ごめんね。」
「え?」
「あっ、こっちの話!」
そう言って、彼女は風のようにその場をあとにした。
ブルーマウンテンの残り香が、テーブルにまだ残っている。
何だったんだろ、あの子。
その後にのんだコーヒーの後味は、
薬のように苦かった。
FIN_
化ける 空一 @soratye
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