霧の中の声
遠くで鳴く犬の、おおよその方角しかわからない声を、エリーザベトは必死に追っていた。
ガス灯の光も届かない入り組んだ建物が作り出す、眼をくらます闇と霧が支配する路地をエリーザベトは我武者羅に走った。
「アプフェル、私だよ!ここだよ!
ねえ、アプフェルなの?おねがい、返事して‼」
「うるっせえ!ワウっ!うう~ワウフゥーハハ」
吐しゃ物の中、失禁した酔っぱらいが足元で笑い出した。
夢見心地のまま凍えて死ぬか、酒精が勝って生き残るかわからないこの儚い酔っ払いが、エリーザベトには悲鳴すら封じられるほど恐ろしかった。
飛び上がって驚いたあと、涙を盛り上げながら、駆け去る。
せり上がり締め付けられる喉からヒーヒー息が鳴り、恐怖で苦しくなってもひたすらに走った。
犬の声だけを目指しながら。
しかし、この犬はハズレだったのだろう。
彼女の元に向かうこともなく、鳴くのをいつしかやめてしまったのだ。
もうエリーザベトに、走る勇気は残っていなかった。
物陰から娼婦と客の甘鳴きが微かに聞こえる。
事情がまだわからない彼女には恐ろしい怪物が唸っているように聞こえ、膝を抱えてしゃがみこむ。
彼女を激しい後悔が襲っていた。
もしかしたらとアプフェルでない犬の声を追ったこと。
夜に家の外に出てしまったこと。
そしてワイルドハントが襲ってきた夜に、例えハンマーで殴られることになっても一緒に戦わなかったこと。
何度も何度もグルグルと頭を巡って、彼女を後悔が襲った。
そのときだった。
「エリーザベト!おーい、どこだ!」
BBBの声だった。
エリーザベトの後悔が飛散し、代わりに安心感が襲う。
例えすべての元凶だとしても、縋れる人がいないエリーザベトには関係なかった。
恐怖のあまり堰き止められていた涙が溢れ出し、嗚咽のせいで声も出せないが、足はしっかりBBBへ向かって走った。
しばらくして、彼女の足音か嗚咽が聞こえたのだろう。
エリーザベトの前にBBBが現れた。
腹に縋りついて泣きじゃくるエリーザベトをBBBは思わず、抱きしめてしまっていた。
「なに誘拐犯に泣きついてるんだよ。ほんとバカだな」
BBBは意地で罵倒を吐いたが、声音と頭を撫でる手は優しかった。
エリーザベトが口を開く。
「アプフェルがね」
「うん」
「アプフェルの声だと思ったの。だから」
BBBがエリーザベトの言葉を聞いて、一拍息を飲んでから、彼女の髪を小さく撫でつける。
「犬ころのためになんでそこまでするんだよ」
まるでBBBこそ迷子のような声色で尋ねた。
「アプフェル、ワイルドハントが来たとき庇ってくれたの。
なのに私は怖くて動けなくて。
だから今度こそ動きたかったの。
BBBみたいにアプフェルに友だちじゃないって、大嫌いだって思われたくなかったから」
エリーザベトの今まで誰にも言えなかった懺悔を最後まで聞いてから、BBBは彼女を抱き上げた。
「……アジトに戻るぞ」
BBBが歩き出す。
エリーザベトがコクリと頷いたあと、なにか考え込んでいるのかそれ以上彼は話そうとしなかった。
霧が顔を撫でていく中、穏やかな時間が二人を包んでいく。
だがその時間はだんだん焦りへと変わっていった。
街灯がぼんやりとその輪郭を浮かび上がらせてもいい所まで歩いたはずなのに、一向に現れないのだ。
焦りと緊張がBBBの胸を締め付ける。
おまけに濃い霧のせいで、まるで時間の中に取り残されたようだった。
エリーザベトを地面に下したBBBは膝をついて、彼女と目を合わせた。
「ごめん、エリーザベト。
道がわからなくなったらしい。
だからこの霧が晴れるまで、ここで座ってまとう」
エリーザベトは辺りを見回した。
そこは特徴的に建物が配置された
BBBには見慣れた
普通の通り道だ。
ただいつもと違って、何度通り過ぎようともここに戻ってしまうこと以外はだが。
不安に瞳を揺らすエリーザベトすら見失いそうなほど濃い霧が、座り込む二人を包む。
その時、突如として霧の中に影が浮かび上がった。
なにが楽しいのか、ご機嫌に鼻歌を歌いながらこちらに近づいてくる。
若い女の声だ。
エリーザベトはその声に聞き覚えがあるような気がして、脂汗を流した。
やがて霧ごしにもシルエットがわかるほど、女が近寄ってきたとき、エリーザベトはその正体に思い至り身を固くした。
黒いつば広のとんがり帽子に、首を垂らしたブルーベルのような形の黒いドレス、豊かな黒髪。
まちがいない。
誕生日パーティの日の、魔女だった。
ワイルドハントの黒妖犬 からっ風文庫 @KarakkazeLibrary
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