アジト
悪名高いロンドン一のスラム、オールド・ニコルが取り壊されてから20年近く経っただろうか。
第一次大戦が始まったこの頃のイギリスは、ちょうど人々の意識が変わる変革期だった。
自己責任で捨て置かれるまま放置されていた貧困と格差を、国家の構造的な問題として社会福祉の拡充で対応しようとし始めたころだった。
とはいえ、オールド・ニコルの元住人たちはお粗末な政府によって着の身着のまま追い出されたため、その恩恵を感じることはなかったのだが。
そうは言っても生活は少しづつ改善はしていたので、エリーザベトを誘拐した孤児たちのアジトも、彼らの父母が子どものころ経験した極貧暮らしほど酷いものではなくなっていた。
10人以上の子供たちがすし詰めで暮らすこのアジトは、ドアもきちんと残っていれば、献身的な住人によって定期的な建物の修繕もされ、霧と雨にやられた腐った床と天井に悩まされることもなかった。
それでも暖炉の石炭も買えず、地べたに毛布に包まって雑魚寝する子供たちから白い蒸気が立ち上るほどアジトは寒い。
この中にいる誰よりも仕立てのいい服で寒さに震えるエリーザベトを、子供たちは見ずぼらしい土気た顔の中で偉く白く目立つ眼玉で凝視する。
滑稽なピエロを眺めるような、貧者の敵意があった。
エリーザベトはまだ豊かとか貧しいとかの難しいことはわからなかったが、それでも敵意だけは伝わっていた。
BBBが自分の上着をエリーザベトの頭からすっぽり被せて背中に手を添えながら、子供たちの部屋から出る。
そして誰もいない別のワンルームに案内すると、扉を閉めた。
ベッドを窓が照らすだけの簡素な部屋だ。
「ここは?」
「俺の部屋」
そのまま沈黙が流れた。
立ち尽くしたエリーザベトは、恐る恐る掛けられた上着を外し、きょろきょろと辺りを見回した。
「ベッド、お前が使っていいから。大人しくしてたらなにもしない」
床に座って足を伸ばすBBBに、エリーザベトはおずおずと近づいて上着を掛けた。
目を合わせず床を見つめるBBBを見て、エリーザベトは気が少し大きくなり、胸に湧く怒りのまま口を開く。
「だましたの?」
わずかに眉根を寄せて黙秘を続けるBBBにエリーザベトは続ける。
「アプフェルとワイルドハントを探してくれるって約束した。
誘拐していいから、暇なときに行こうよ」
彼女は跪いて、BBBの膝に手を置いた。
誰も信じてくれなかったワイルドハントまで探そうとしてくれたBBBの言葉が嬉しかったから、嘘にしたくなかった。
「犬のためにバッカじゃねーの」
BBBはエリーザベトのひたむきさに苛立ち、彼女の手を振り払った。
「お前ワイルドハントなんてほんとに信じてるのか?」
顔を歪めて頭を振るエリーザベトに、嗜虐的な笑みを浮かべながらBBBが続ける。
「いいか、良いこと教えてやる。
ユニコーン、ピクシー。ボグルにブギーマン。
こいつらはみんな居ない。
嘘だ。俺の約束みたいにな」
その先の否定の言葉を言ってほしくなくて、エリーザベトは激しく首を振る。
だが彼女の願いを分かっているBBBは言った。
「こいつらはみんないないし、ワイルドハントももちろんいないんだよ!
お前の犬は殺されてる。
今ごろ
「うるさい!」
エリーザベトはハラハラと泣きながら、無茶苦茶にBBBに殴りかかった。
そんなエリーザベトの攻撃も、嘲笑いながらBBBは簡単にいなしてしまう。
BBBに言われずとも、エリーザベトは思っていた。
ワイルドハントなんていないのではないか。
魔女は幻だったのではないか。
アプフェルはもう生きていないのではないか。
その度に気丈に否定し、信じ続けてきた。
何度も何度も何度も、内心で疑っては否定してきたのだ。
「アプフェルは生きてる!
絶対に助けるから生きてる!」
「たかが犬コロに」
「ちがう!」
たった一人の生まれて初めてできた友だちを、エリーザベトはたかがなどと言ってほしくなかった。
そんな彼女の叫びをBBBは鼻で笑った。
「くっだらねえ」
目の前が真っ赤に染まるような怒りをエリーザベトは抱いた。
「BBBには友だちがいないからわからないのよ!」
「そうだよ」
あまりにBBBはあっさり認めた。
ビックリしたせいで怒りが真っ白に収まったあと、調子を削がれたエリーザベトは彼に尋ねた。
「……さびしくないの?」
「ああ。ちっとも」
「なんで?」
「懲りたんだよ。だから寂しくなんてないね」
「……前はいたの?」
「いたよ。でも今は大嫌いだ」
「酷いことされたから?」
しつこいエリーザベトを少し睨んだあと、BBBは気を落ち着けるために息を吐いた。
「ほらもう寝ちまえ」
そのまま彼は腕を組んで目を閉じた。
エリーザベトがしばらく揺すっても無視を決め込んでしまったので、エリーザベトは仕方なくベッドにもぐりこんだ。
眠れるはずもなく無理やり目を瞑っていたエリーザベトに油断したのか、2時間も経つ頃にはBBBは浅く眠りだした。
それでも彼女は眠れずに半刻が過ぎたころ、外で犬の声がした。
エリーザベトは思わず窓から外に飛び出していた。
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