第24話 魔王、フォーリンラブ。




 勇者が育休を取ったという話は瞬く間に王都中に広がり、モルダーン王国領のあちこちに広がり、一週間もしないうちに魔界にも知れ渡ることとなった。


「も、もう、ムリれすよお……」


 魔王城地下一階にある食堂で、最後の砦であったシオンがばたりと床に倒れこむ。顔は真っ赤で目はうつろ、口の端からはよだれ――ではなく、飲みきれなかった酒が垂れている。


「ふふん……魔族って下戸ばかりなのれえ……ひっく」


 ドン、と自分の半身ほどもある巨大な酒瓶をカウンターに置く、モルダーン王国の姫君シータ。

 彼女の周囲にはシオンの他にも限界まで飲んで力尽きた魔族たちが床にごろごろと転がっている。


「ひ、姫様……もうそれくらいにしておいた方が……」


 カウンターの向かいに立つバーテンダーの魔族は震えながらそう言ったが、姫は頬杖をつき半分目蓋の落ちた目でジトッと彼を睨んだ。


「まだ、まだよ。早く次のを出して! まだまだ飲むんらからぁ!」


 空っぽになった酒瓶を突き出され、バーテンダーは困り果てた。ここにあった酒のほとんどは姫と彼女に付き合わされた魔族たちでもう飲み干されてしまった。残っているのは魔王ジュードが大事に保管している最高級の二十年ものの赤ワインくらいしか……。


「構わん。開けてやれ」


 いつの間にか姫の隣にジュードが座っており、バーテンダーは飛び上がった。

 この有り様、いくら怠惰な魔王とはいえさすがに逆鱗に触れるのではないかと、見つかる前に片付けるつもりだったのに。

 しかしジュードは思いのほか機嫌が良さそうであった。

 何を咎めるわけでもなく、ふんふんと鼻歌を鳴らしながら赤らんだ姫の顔を覗き込む。


「酷い荒れ様だな、シータ。やけ酒か?」

「うっさい」


 シータはぷいとそっぽを向く。


「……あなたも聞いたのね。勇者のこと」

「ああ。なかなか攻めてこないとは思っていたが、まさか子を成していたとはな」


 くっくっく、とジュードが笑う。


 腹が立つ。私の気持ちを知っていながら、嘲笑っているのね。

 シータは頬を膨らませながら出されたグラスに口をつけようとしたが、阻まれた。

 ジュードの冷たく長い指が、姫の顎を掴んで無理やり自分の方を向かせたのだ。いわゆる「顎クイ」というやつである。


「何よ……」


 その強引な仕草に、反抗的な者ほど不思議と虜になるのをバーテンダーは何度も見てきた。誇り高きモルダーンの姫もその餌食になってしまうのだろうか……! バーテンダーはごくりと唾を飲み込むと、なるべく気配を消して二人の会話を見守る。


「契約は破綻したな」


 ジュードが口角を吊り上げて言った。

 契約とはそう、勇者が迎えに来たら魔石の正体を教えるのを条件に、シータを客人として魔王領に置くというものだ。


「勇者がこちらに来る気がないなら待ってやる義理はない。奴が育休を取り、新型魔工兵器とやらがまだ実用段階に入っていないうちに、一気にモルダーンを攻め落とす。そうすれば魔石の正体など知ったことではない。幸い、時間があったおかげで我が軍も戦力を取り戻してきたところだしな」


 ぎりりとシータは奥歯を噛んだ。

 確かに魔王の立場からすれば理に適っている話だ。

 だが、今すぐに攻め込むことはできないはず。


「ロックライン大橋は? まだ修復には時間がかかるはずよ」

「魔力の痕跡を調べさせたが、あれを壊したのはドラゴフィールド卿の子どもだ。よって責任もって修復させる。竜の魔族どもの力があればさほど時間はかかるまい」

「そんな! 彼は育休中の身でしょ……!?」

「だからなんだ。魔王軍に所属する以上は私のために働いてもらう」


 最低、と言おうとした姫であったが、むぎゅと指で強く頬を挟まれたせいで上手く言葉にならなかった。崩れた彼女の顔を見て魔王は「クハッ」と吹き出す。いよいよ反撃の機会が訪れ、おまけに好き放題にしていた姫との契約を破棄できるのだから、機嫌が良いのも当然であった。


「さてシータ。お前はどうする? 大人しく投降して正式に囚われの身となるか。それとも――」


 ジュードの指が彼女の顔の輪郭をなぞり、酒で火照った耳に触れた。その体温の冷たさにシータは思わず身震いする。彼女の反応を面白がるように、ジュードは長く尖った爪の先でつんつんと耳朶じだをつつくと、そっと耳元に口を寄せて、


「お前が望んで私に奉仕するというなら……自由の身でいさせてやっても良いが」


 甘く低い声音で囁く。

 これだけ身体を近づけていれば、嫌でも魔王の放つ色香を感じずにはいられない。おまけにシータは失恋直後で相当酔っているときた。正常な判断ができる状態ではない。

 ジュードの経験則からして、ここで落ちない女はいないはずだった。


 しかし。


 返事の代わりに飛んできたのは強烈なビンタである。

 バチコーン! と乾いた音が響き渡り、その場に寝転がっていた魔族たちが何事かと一斉に目覚めるほどであった。


「冗談も休み休み言ってくれるかしら」


 彼女はジュードに触れられた耳をぱっぱと撫でると、椅子を引いてジュードとの距離を取る。何をする、とジュードは苛立ちを露わにしたが、彼女の眼差しを見て思わず口をつぐんだ。ゴミを見るような目。いや、下級魔族にも敬意をもって接するような彼女は、どんなに汚いゴミに対してもこのような目で見ることはない。つまり魔王はということだった。


「こんな時でも受動的なのね。……情けない男」

「な、なにっ!?」

「別に囚われの身でもなんでも好きにするがいいわ。けどね、一つだけはっきり言えることがある」


 シータはワイングラスを――いや、ワインボトルを鷲掴みにすると、ごきゅごきゅと直接口をつけて煽る。魔王が呆気に取られているうちに「ぷはあ」と飲み干すと、彼女はボトルの底を魔王に突きつけて言った。


「あなたが魔王でいるうちは、魔石の採掘量が増えることはない」


 たとえモルダーン領を手に入れたとしても、このままではいずれ魔石が枯渇し、飢えた魔族は内側から滅びていくだろう。

 すべては少子化という問題を彼が無視しているからこそだ。


「もう一度よく考えなさい。今あなたがすべきことは、本当にモルダーンを攻めることなのか」


 シータは酒に濡れた口元を拭うと、「ごちそうさま」と言ってボトルをバーテンダーに返し、スタスタと……いや、若干千鳥足でその場を後にしてしまった。

 しんと静まる室内。酔いが覚めてきたシオンはむくりと起き上がると、バーカウンターで石のように固まっている自らの主の裾を引っ張った。


「ジュード様、ジュード様ってば」


 もうお部屋に戻りましょうよ、夜も遅いですし。

 しかし彼は平手を食らった頬をさするばかりで、なかなか動かない。

 そんなに姫に言われたことがショックだったのだろうか。


「……シオン。私は決めたぞ」


 やがてジュードが重々しく口を開く。

 もう決断したのか? いや、そんなわけない。さすがに早すぎる気が。


「あの女――絶対に惚れさせてみせる」

「そっちですか!?」


 思わず突っ込んでしまった。

 しかしジュードの表情は微塵もふざけてはいない。むしろ今までに見たことのない真剣な顔つきであった。


「自分でもよく分からないが、シータに魅了が効かないことがどうしても納得いかないのだ。理由を知りたくて、気づいたらあの女のことを目で追ってしまう。そのくせいざ目の前にいると上手く話せなくて……。今日だって、本当は失恋したのを慰めてやるつもりだったのが、いつの間にかからかってしまっていた……」


 世界はそれを恋と呼ぶんだぜ。

 ぶつぶつと唸りながら頭を抱える主に、シオンはなんと言って良いか分からずとりあえず生温かい視線を送る。

 だがふと、あることに気づいた。


(あれ? もしかしてジュード様が自分の意思で何かを決めたことって、実は初めてなのでは……!?)


 怠惰で、ナルシストで、周りにヨイショされないと重い腰を動かさず、魔王になったのだって自分にその気はなかったと時に言い訳をし、シオンの目を盗んでは惰眠と女を貪っているあのジュード様が。


 急に我が子が自分の足で立ったかのような感動が押し寄せてきて、シオンは思わず涙ぐむ。

 これは、もしかして、もしかすると……魔界が変わる兆しではないのか。

 シオンはがしと力強くジュードの肩を掴んだ。


「ジュード様。この恋、シオンは全力で応援しますよ!」

「恋!? いや、これは、そういうものでは……そういうものなのか……!?」

「そういうものです! ささ、早速姫さまを追いかけますよ!」

「なんで!?」

「も〜〜〜〜鈍い! 怒らせたことを謝るためでしょーがっ!」

「謝る!? そもそもなんで怒ったのだ!? むしろ私は情けをかけてやったというのに……!」

「そこからですか!? もう、ほらさっさと立って! 行きますよ!」


 酔っ払った魔族たちに見守られながら、強制的にずるずると引きずられていく魔王ジュード。

 彼が自らの足で恋路を歩む日は、一体いつになることやら。




 ……とにもかくにも、こうして勇者と魔王はそれぞれ新たな戦いへと身を投じることになったわけである。

 長年続いていた人と魔族の争いは一時休戦となり、世界にしばしの平穏が訪れる。

 しかし、ゆめゆめ忘れてはならない。

 平穏の中の日常にも、ささやかな戦いがいくつも繰り広げられていることを。

 とかく育児はその代表。

 さあ、耳を澄ませてごらん。

 新生児を迎えたばかりの家からは、こんな声が聞こえてくる……。


「うわあああああっ! またオムツ替え中におしっこしたあああっ!」

「待ってください、ラカン。今雑巾持ってそちらに――うッ」

「セリア!?」

「え、会陰の傷が……ビキッと来まして……」

「い、いいよ、じっとしてて! こっちはなんとかするから」

「ふえええええ。ふえええええ……!」

「ああごめんごめん、そろそろミルクだよなっ。母さーん、お湯沸かしてくれるー!?」

「はいよ! ところでこの湯沸かし魔工具っちゅうのはどう使うんかね?」

「え、説明してなかったっけ!?」

「ふぎゃぁぁぁぁっ! ふぎゃぁぁぁぁっ!」

「わかった、わかったから! ちょっとだけ待ってくれよ、なっ……!」


 ラカンは手早く赤ちゃんのお尻と自分の手を拭くと、新しいオムツをはかせてそっと抱き上げた。まだ首がすわっていないので、抱っこの時はいつも緊張する。赤ちゃんは不愉快そうに眉間にわずかに皺を寄せ、一層強く泣いた。まだ言葉が話せない上に感情表現に乏しい新生児は、何か不快なことがあると一生懸命に泣き声で訴えてくる。親はその泣き声をもとに赤ちゃんの気持ちを察し、不快要因を取り除いてやらねばならない。

 オムツは替えた。抱っこもした。あとは空腹。前回の授乳から二時間経つ頃だし、きっとこれが満たされれば泣き止むに違いない。

 現在、授乳については夜間にラカン一人でも対応できるように母乳と粉ミルクの混合で行っている。昼間は先に母乳、その後にミルクで補うというルーチンだ。

 というわけでラカンはセリアに赤ちゃんを受け渡す。

 すると……。


「うー……」


 彼女の腕の中で、心地良さそうな声をあげて泣き止むではないか。

 しばらく様子を見ていると、まだ授乳をしていないのにすやすやと寝始めてしまった。


「これって……」


 ラカンが愕然としていると、隣で見ていた母マーレはぷっと噴き出すように笑って言った。


「お母さんの抱っこの方がいいってことだろ。あんたの腕、ごつごつしとるから」


 ぐぬぬぬぬぬぬぬ。ラカンは憤慨した。赤ちゃんは無垢で聖なる存在ではあるが、時にひどく理不尽なのである。まさに気まぐれの神の如し。しかしどんなに腹が立っても親からの反撃は許されない。ならばどうするか?

 ええい、つついてやる。ぷにぷにのつるつるほっぺを。

 起こさない程度にそっと頬をつくと、赤ちゃんは寝ながら笑みを浮かべた。天使のような笑み? ……いや違う。片方の口角だけが吊り上がった、何かを企んでいるような邪悪な笑みであった。


「大丈夫ですよ、ラカン。これは新生児微笑と言って生理的な現象です。決してあなたのことを笑っているわけでは」


 と言いながらセリアもくすくす笑う。

 ラカンはむすっとしながらもう一度赤ちゃんの頬をつついた。


「ビビ。言っとくけど、セリアはオレの奥さんだからな。お前ばっかり独占するなんてずるいぞ」


 すると再び赤ちゃん、ことビビアンは、眠りながらニタァと笑みを浮かべる。

 やや不格好な笑顔であるが、そこがまたなんとも可愛らしい。


「まったく……誰に似たんだよ、お前は」


 ラカンはやれやれと立ち上がり、途中で放置していたオムツを丸めて捨てると、床にこぼれたおしっこを拭いてテキパキと片付けをする。授乳はしそびれたから一時間もしたら起きるだろう。できればそれまでに母に魔工具の使い方を教えて、会陰が痛む時に良いという円座クッションを買い出しに行って、それから……。


 やることは山ほどある。やはり育休を取って良かった。

 ラカンは自分の選択を誇りに思いながら、黙々と雑巾を庭で洗った。

 冷え切った水の冷たさにかじかむ指。ただ、降り注ぐ日差しは少しずつ春に向かって温もりを取り戻している気がする。

 雑巾を振って水を切るとパンと小気味良い音が響き、不思議と気合いが入る。


「よし。今日もやりますか」


 ぐっと伸びを一つして、ラカンは部屋の中へと戻っていった。


 頑張れ、勇者。負けるな、ラカン。

 新米パパとしての戦いは、まだ始まったばかり――。







〈第一部 おしまい〉



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

勇者ですが、育休いただきます! 乙島紅 @himawa_ri_e

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ