第14話 ネコとひとつになること
なぜ人間には二つの眼があるのか、考えたことはあるだろうか? 一説によると、それは『立体』を見るためだという。片目で物体を見ても、平面として認識することしかできない。しかし、二つの場所から同時に一つの物体を観察すれば、その差異から距離を測ることができる。二つの映像を結ぶことにより平面から立体へ、より高次元の存在として知覚されるのだ。
健「――僕はエゴに従って自己中心的な行動をしたせいで体を壊し、仕事を失い、人間関係も破壊しました。本能に任せて上手くいかないなら、情動を消し去って神の意に従うべき、ってことになりませんか?」
セン「確かに、そのような信仰を拠り所にしている信者はごまんとおるな。絶対的な正義を掲げる神に判断を委ねれば、どんな苦難にも耐えられるじゃろうて」
健「だったら、僕も欲望を捨てて、潜在意識の裁可に任せたらいいんじゃないですか? 貧乏は辛いけど、モテないのは悔しいけど、猫神様がそれでいいと言うなら、きっと我慢できると思います」
セン「ならん、決してそれはならんぞ。エホバであれ、アッラーであれ、己の内にある内在神であっても、お主は盲目的に従うべきではない。教義に示された通りに偽善を成すのであれば、それはもはや教団にいる無数の操り人形の一つに成り果て、お主の『物語』ではなくなるじゃろう。
世界を選択するのはお主の意思であり、そのための指針となるのがエゴとエヴァ・・・どちらもお主の一部じゃ」
健「僕の・・・一部」
セン「右脚と左脚には確かに筋力の差はあるが、片方を捨てていいとは思わんじゃろ? 自我と真我も、それと同じよ。この二つに順序はあっても、上下関係は存在せぬ。これらは車の両輪のようなもので、どちらが失われてもバランスを崩して、倒れてしまう。我執に囚われたネガティブ至上主義も、神仏に依存したポジティブ至上主義も、本来の己から脱線してしまっているのじゃ」
健「僕が他人に嫉妬したり、嫌ったり、悲しんだりするのも必要だってことですか?」
セン「もちろんじゃ。エゴとは心の防衛本能であると同時に、自己と他者を区別してオリジナルの物語を描くもの。監督がいくら優秀であっても、役者の熱演なしに劇は成立せぬ。名作を作り上げるには、主演の『モノサシ』が必要なのじゃよ」
健「そっか、どちらかを切り捨てる必要なんか、なかったんですね。短期的な利益を欲しがる僕も、長期的な成長を望む僕も、どっちも必要。片方から見ればこの世はとても不完全で欠乏しているように見えるけれど、複数の視点を合わせれば完全で完璧なんだ・・・」
セン「うむ、それが答えよ。天から見下ろす視線と地から見上げる視線、その双方が組み合わさって初めて世界の美しさが知覚できる。エゴもエヴァも深奥に潜む無数の集合意識も、宇宙の全てはお主の一部であり、お主の創造を支援しておる。側面からはいかに憎に満ちて映ろうと、高次元の真なる世界には愛しかないのじゃ・・・」
僕の回答に満足したのか、老猫は微笑んで僕に左手、いや左前足を差し出してきた。僕もそれに合わせて左手を出し、二人は固い握手を交わした。ぎゅっと握ると、柔らかい肉球の感触がした。
長い問答の末、自我と真我の和解は成ったのだ――。
セン「さて、そろそろ時間のようじゃな。お主の意識が脈動し、元の物質世界に還りたがっておる。儂らの合意が断絶していた意識の経路を繋げ、流れ込んだエネルギーが覚醒を促したのじゃろう」
そういえば、なんだか胸が熱い。
ふと見ると、繋いだ手から白いオーラのようなものが伝わり、僕の心臓に向かって流れているのがわかった。
健「これで、お別れなんですか? まだまだ聞きたいことが沢山あるのに・・・。僕一人じゃやっぱりネガティブに考えて、天の視点を忘れてしまうかも。そうならないように、これからも指導を・・・」
セン「いいや、これは何千分の一、いや何万何十万分の一の確率で起きた奇跡。二つの意識がこうして言葉を交わすことは、もう二度とあるまい。じゃが、心配するでない。形は違えども、儂らは元より一つの魂。お主が儂を受け入れてくれた以上、儂は常にお主と共にある。たとえ見えずとも、言葉が通じずとも、儂らは永遠に一緒なのじゃ――」
爆音とともに、白い世界が崩れていく。全てを恨んだ悲観的な僕と、その全てを喜んだ優しいネコを繋いだ一時の夢は、こうして終わりを告げた――
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