第9話 ネコは人に何を望んでおられるか

老猫が立ち上がって何もない空間で器用に前足を回すと、そこには中世ヨーロッパの風景と一組の男女が映し出された。若い男は毒とおぼしき薬を飲んで倒れ、恋人と思われる女性は遺体にすがって泣いている。そして女性は男の後を追って自殺し、周囲の人々は悲嘆にくれた。


セン「さて、この演劇が何かわかるかね?」


健「ロミオとジュリエットですよね? シェイクスピアの有名な悲劇でしたっけ。生前の母に連れられて見に行きました」


セン「そう、まごうことなき悲劇じゃ。もしお主がロミオであったら、この残酷な結末を変えたいと思うか?」


健「もちろんですよ!モンタギュー家・キャピュレット家みたいなしがらみを捨てて、二人でのどかな田舎にかけ落ちして、ずっと幸せに暮らすんです」


セン「それはそれは、若者らしい思い切った発想じゃな。いや、実際にトラブルを抱えて余命が残り少ないお主だからこそ、平凡な人生を望んでおるのかのう?」


健「平凡な人生の何が悪いんですか? 弱っていく身体を見ながら、いつ来るかわからない死を待つよりずっとマシでしょ!」


セン「決して、悪くはない。だが、おそらくロミオとジュリエットも誇りを捨てれば生き残る道はあった。だが、本当にそれでいいのじゃろうか? お主は観客としてそんな劇を見て、心から楽しめるか?」


健「観客として・・・ですか?それは困りますね。お家騒動を止めて誰もいない土地で畑仕事なんて、演劇としてはつまらないから、観るのを止めちゃうと思います」


セン「そうじゃろ? 非業の死を遂げた二人にとっては惨劇であっても、それを見る観衆にとっては感動的なスペクタクルショーとなる。当人に演技者としての自覚はなくとも、後世の人々の胸を打つことで彼らの生涯は伝説になったのじゃ!」


健「そう・・・ですね。僕は彼らが羨ましい。儚い人生だとしても、無念の死を迎えたとしても、誰かの心にそれが残るなら、それも悪くないと思います」


セン「命の紡ぐ価値は・・・己の狭い見識だけでは計れぬ。お主が描く物語とて、同じではないか?」


健「――はい、僕も、もうすぐ死にます。ロミオのようにその生き様を誰かに見せつけられればいいけど、残念ながら僕に観客はいません。このまま原因不明の病気で血液が流れなくなって、内臓の働きが衰えて、病院のベッドに繋がれながらあちらの世界に旅立ちます。

どうせなら喜劇として笑い飛ばしてほしいところですけど、家族も仲の良い友人もいないので、僕のストーリーを観て笑ってくれる人は一人もいないでしょう・・・」


セン「いいや、観客なら既におるではないか!悲劇でも喜劇でもいい。お主が全力で紡いできた物語を心から喜んでくれる者が、すぐ傍におるのじゃ――」

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