第3話 山に立ち入った理由

「うっ……」


 それからしばらくして、冷たい水を張って清潔な手拭いを浸した桶を持って部屋に戻ると、ようやく青年が目を覚ます。

 横になったまま顔を動かして、自分がどこにいるのかを確認している様子だ。


「目を覚ましたようですね」


 思っている以上に目を覚ますのが遅く、見た目以上に重症で下手したらここで命を落としてしまうのではと一瞬不安になったが、無事に目を覚ましてくれたのでほっと安堵のため息を吐く。


「二時間程度で目を覚ますかと思っていましたが、思っている以上の寝坊助さんでしたね」

「あ、あの、ここは……」


 青年のいる寝台のすぐ隣にある卓に桶を置く霊華に、そう訊ねる。

 山の森にいたはずなのに、目が覚めたら木造の建物の中の寝台に寝かされていたのだ。そう聞きたくなるのも無理はない。


「ここはわたしの住む寺、太虚院です。森で熊に襲われて怪我を負ったのは覚えていますか?」


 霊華がそう言うと、寝起きで動きの鈍い頭を捻って思い出したようで、薬が効いているのか痛みがないことを不思議に思ったのか、首を傾げる。

 何でだと頭を捻りながら青年は部屋の中を見回し、煙の出ている香炉を見つけてそれを見つめる。


「鎮痛作用のある薬草を潰して果物の果汁を練りこんだお香を焚いているので、思っている以上に痛みがないでしょう。長時間使うと感覚の麻痺を引き起こしてしまいますが、三十分に一回新鮮な空気を換気しているのでその心配はありません」

「は、はぁ……」

「あと、あなたが寝ている間に傷薬を飲ませたので、それもあるかもしれません。そっちの方が鎮痛作用が強いですし。傷口にもすり潰したものを使っています。沁みるようでしたら申し付けてください。それが交換の合図になりますので」


 足音を立てずに窓に近寄り、閉じている木製の折れ戸を開ける。涼しい風が部屋の中に入り込んで、漂っていた甘い香りが薄くなる。


「あの、あなたは……」

「自己紹介はそちらが先では? ……まあ、いいでしょう。わたしは朱鳥霊華。周りからは精炎せいえん仙人とも呼ばれています。この山の管理者で、ここ太虚院の主です。それで、あなたは?」


 胸の前で指をぴんと縦に立てて軽く頭を下げる。

 たったそれだけの所作なのだが、どうしてか青年が見惚れたようにじっと見つめてきた。


「あ、えっと、俺はジークハルト・アルトアイゼンと言います。知り合いからはハルトとかジークって呼ばれています。実家の家督争いに巻き込まれそうだったので夜逃げして、一人で気の赴くままに旅をしています」

「随分と複雑な家庭ですね。家督争いとなると、やはり良家の人か貴族なのでしょうが、ここでは関係のない話ですね。それにしても、いつの時代になっても権力者というのは権力争いや家督争いという、これ以上なく下らなくて無駄なことをする。自分が家を継ぐだの、自分が国に立つのに相応しいだの、聞いていて呆れます。この世界が作られた人が生まれた瞬間、人間は誰しもが全くの平等な立場だったというのに」


 呆れたように息を吐きながら言う霊華。ジークハルトも全くその通りだと思っているようで、うんうんと小さく頷いている。


「それより、どうしてあなたはこの山に? 見ての通り、何か特別なものがあるわけではありませんよ?」


 十分お香の香気がなくなったし、鎮痛作用のある薬も飲ませてあるので香炉に蓋をしてお香を消す。それから振り返って、どうしてあんな場所にいたのかを質問する。


「王のいない都市国家に入ってそこで人助をしたら、いつも住人を助けてくれる仙人みたいだと言われて、どんな人なのかと言う話を聞いたら一度会ってみたくなって……」

「それで熊除けの鈴を持たずに山に入り込んだのですか? 随分と無謀な行動ですね。あなた、よく考えなしって言われませんか?」

「うっ……」


 図星だったようで、ジークハルトは言葉を詰まらせる。

 思い立ったら即行動、と言うのは悪くはないのだがどうしても準備を不十分にしてしまうきらいがある。

 即断即決は戦場においては非常に重要で、もたもたしているとすぐに状況が変化して、立てた作戦が無駄になることが多い。


 判断力の速さはそのまま優秀さに繋がるわけではないが、その場ですぐに物事を判断できる人間は重宝される。

 ジークハルトは考えなしの即断即決だが、上手く鍛えればかなりの傑物になりそうな雰囲気がある。だからと言って、助けた青年を弟子にするつもりなどないが。


「それより、さっき、えっと……精炎仙人は……」

「霊華で構いません。その名前は村時代の人が勝手に付けた名前ですし、わたしとしては本名で読んでもらいたいので」

「で、では、霊華さんと。霊華さんはここの主と言っていましたが、それってつまり、」

「えぇ。あなたが聞いた仙人の話は、わたしのことです」

「でも、年齢は俺とそう変わらなさそうなんですが」

「見た目はそう見えるでしょうが、こう見えても二千歳は超えています。仙人となった瞬間で肉体の成長の一切が止まりましたから、肉体年齢はいつまでもこのままです」

「ろ、二千年……!?」


 とても信じられないが、麓の都市国家が口を揃えて村ができる前から仙人がいて、小さな集落から始まってその時から何か厄災が迫れば必ず助けに来てくれていたと言う。

 人間がそんなに長生きできるとは到底思えない。けど、実際に六千年生きていると言う本人を目の前にしてその声を聞き、嘘を吐いているようには聞こえなかった。


「霊華さんは、特殊な術が使えるとも聞いたのですが……」

「五行や呪術のことですか? 随分と細かいところまで聞いているのですね。まあ、使えはしますが教えませんよ? そもそも、なんの修行を積んでいない人に使える代物ではありませんし」

「教えて欲しいとは思っていませんし、俺は母国で魔術を習っているので」

「外の世界にもそういったものがあるのですね。それは興味深い。ぜひ見せて欲しいものですが、今あなたが一番すべきは養生することです。無理に体を動かしてはいけませんからね?」


 外の世界にも霊華の使う特殊な術に似た何かがあると聞いてそれに興味を惹かれるが、それよりも優先すべきは怪我人の治療。怪我人に無理をさせて悪化させでもしたら、それをどう償えばいいのかが分からない。

 別段命に直接大きく関わるような怪我ではないものの、下手に体を動かせば悪化する可能性もあるので、完治するまではおとなしくさせることにしている。


「あなたがその怪我を負ったのは、わたしが修行にかまけてあれほどの熊を蔑ろにしていたわたしの責任です。どうか、完治するまでここに留まってください」

「そ、そんな、悪いですよ! 助けられた上に、治るまでここにいていいだなんて」

「繰り返しますが、修行にかまけたわたしの責任です。どうか、最後までその責任を取らせてください」


 わたわたと手を振ってそこまでしなくていいと言うジークハルトに、どうか最後まで治療させて欲しいと頭を下げる霊華。

 先にあの熊を駆除していればこの出来事は起こらなかったことなので、いつから始めていつ辞めるのかを分かりやすくするために雑な準備を行い、結果的にこのようなことを招いてしまった自分の責任だ。

 それに、怪我人を寺から放っぽり出してこの長い山を降らせる、なんてこともできない。衰えた人を山に放り出すなんて、それこそ野生の獣に襲われて殺されかねない。ここから送り出すにしてもせめて傷を治療し、万全な体調にしておかないといけない。


 深々と頭を下げられてどうしようと混乱するジークハルトだが、家督争いが嫌だからというのもあるが、広い世界を見て回ってあわよくば綺麗な女性との出会いも味わいたかったので、これはこれでいい機会なのではと考えてしまう。

 いや、でも熊除けの鈴を持って行かなかった自分の自業自得だし、自分のせいでこんな怪我を負ったので助けてくれた恩人にこれ以上世話になるわけにも行かない。そう思ってやっぱり改めて否定しようとするが、その前に豪快に腹の虫が鳴る。


「……っ。そういえば、もう夕飯時ですね。少し待っていてください。夕食の支度をしてきます」


 ぱちくりと目を瞬かせてから口元に手を当てて小さく吹き出した霊華は、柔和な微笑みをたたえてから部屋を出て行った。

 ジークハルトは全くの赤の他人とは言え、麗人に自分の腹の虫を聞かれた上に小さくとも笑われたのが恥ずかしいのか、耳まで顔を赤くしていた。

 数度深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、先に出て行った霊華を追って立ち上がろうとするが、痛みはそこまで強くはないが傷がある箇所が引きつるような感覚があって、これでは手伝うどころかかえって足手まといになると大人しく待つことにした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る