第2話 仙人と異邦の訪問者

 青年と熊がいる場所は霊華のいる寺から普通に歩いて三時間かかるほど離れているが、神足通を使えば数秒で着く。

 両者の姿が視界に入った時には、熊はその丸太のような右腕を振り上げてそれを青年の頭に振り下ろそうとしていた。青年もそれが自分を殺す一撃であるのを察しているようで、拳銃を持った右腕で頭を守ろうとしている。当然、その程度で防げるはずもない。

 熊の腕が僅かに動く。振り降ろす初動だ。霊華はそれよりも速く距離を詰め、青年を抱えて離脱する。


「もし、もし、聞こえますか?」


 ぎゅっと目を閉じている青年に、優しく声をかける。まだ大分怯えているようだが、いつまで経っても痛みがないのと、人肌程度の温かさと果実のような仄かな甘い香りがしたのを変に思ったのか、ゆっくりと瞼を開ける。


「あ、あなた、は……」

「わたしですか? とりあえず自己紹介は後ほどとして、わたしはこの山の上にある寺の居住者です」


 急な展開に頭が追いついていなかったようだが、巨熊が足音を立てて走ってくるのを碧眼に収めた青年はすぐに何があったのかを思い出し、霊華の手を取って逃げようとする。

 大分近い距離で見ると、青年の体にはあちこち大小様々な傷がある。一番深いのは左腕のものらしいが、ほかのも無視できない。


「い、今すぐ逃げましょう! ここにいては危険です!」


 異邦人の割には流暢な日本語を話し、霊華の右手を掴んで離れようと引っ張る。


「むしろ追いかけてくる熊に背を向ける方が危険ですが? 片付けるので、ここでじっとしていてくださいね」


 そう言って霊華の右手をつかむ青年の右手に左手を添えると、がくんと力が抜けて地面に座り込んでしまう。一体何をされたのか分からずに呆けていると、くるりと霊華は熊の方を向く。


「ま、待って……!?」


 立ち上がって止めようとするが、体が痺れて上手く動かせないだろう。勝手に入り込んでいるとはいえ、自分の不始末を他人に任せるわけにはいかない。

 半身になって軽く握った左拳を前に、しっかりと強く握った右拳を腰あたりに構える。

 霊華は武具の扱いにもたけているが、こうして尊い命を奪う際にそれを自分の体で直接感じられるよう、基本はこうして己の拳を使う。


「ダメです、逃げてください! 自分で蒔いた種に、他人を巻き込みたくはない!」

「ここはわたしの住む寺のある山。いわば、ここ全てがわたしの敷地です。敷地内で殺されそうになっている人物を見捨てることなど、できはしませんよ」


 それだけ言うと鋭く息を吸って吐き、強く地面を踏んだ後氷上を滑るように移動して、瞬く間に数メートルもの距離が消失する。一瞬で距離が詰められ、熊の腕が軽々と当たるほどだ。

 獣の本能で反撃しようとしてくるが、それ以上の速度で拳を打ち出し、強い打撃音が周りに響く。

 数百キロはあるはずの熊が上に吹っ飛び、地面に音を立てて落ちてくる。


 ずしん、と地面に叩きつけられる音とともにわずかな振動が地面から伝わってくる。

 体は細いし、霊華よりも体が大きくて筋肉のある男性であれば、容易く組み伏せることができてしまうほど非力に見えるだろう。

 だが霊華は街を守り続けている仙人で、呪術師だ。体格差の不利などいくらでも補える。


「無益な殺生は好みませんが、こちらは人命がかかっています。これからあなたの命を奪うことを、どうか許してください」


 一度構えを解いてから頭を下げて殺すことを謝罪し、それからもう一度同じ構えを取る。

 殴り飛ばされた熊は低い唸り声をあげて起き上がると、標的を霊華に変えて襲いかかる。多少足がふらついているが、それでもあの体躯の体当たりを喰らいでもしたらそれだけで大惨事だ。


 ちらりと後ろを振り返ると、青年はなんとか体を動かそうとしても今だに痺れが取れず、何もできないでいることに歯噛みしている様子だ。そんな彼を尻目に、霊華がまた強く踏み込む。

 ぐっと身を低くして踏み込み、足から腰、腰から腕、腕から掌へと力を伝えて上に打ち出す。真下からの掌底で顎を叩かれ、強引に体が上を向いて胴体がガラ空きになる。そこに鈍い音を響かせるほど強烈な膝蹴りを叩き込み、全身の力を集中させた右拳で腹部を強打。

 分厚い毛皮の防御も意味を成さないその三つの攻撃は、熊の脳を揺らし内臓を傷つける。だが、それでも熊は死なずに後ろにひっくり返ってから、太い足で立ち上がる。


「おや? 今ので仕留めるつもりでいたのですが、思っている以上に丈夫ですね。これ以上苦しませるわけにはいきません。次で終わらせます」


 そう宣言し、長く深く息を吸って吐く。そしてもう一度鋭く息を吸い、また滑るように間合いを詰める。

 それに反射で反応した熊は太い腕を薙ぎ払って攻撃を仕掛けるが、霊華は事もなくそれを左腕で受け止め、発生している力をそのまま右腕に流し、寸勁の威力を上乗せして返す。


 その一撃は強力で、心臓部に触れている右拳は熊の胸骨を粉砕して心臓を破壊した。いくら体全体に浸透する攻撃を叩き込まれても平気だった熊でも、心臓を潰されたら生きていられるはずがない。

 苦悶の悲鳴を上げてから地響きを立てて倒れ、体を痙攣させてからぴくりとも動かなくなった。


「あなたの命は無駄にはしません。あなたの肉は人々の体を作る糧となり、内臓の一部は薬に使わせていただきます。わたしたちが食べられない分は自然に帰し、骨はこの山の土壌となっていただきます」


 動かなくなった巨熊の前で手を合わせ、その命を以って他の命を繋がせてもらうことに感謝する。

 糧となったことに感謝して手を合わせていると、後ろからどさりと音が聞こえる。

 振り返ると、青年が顔色を悪くして意識を失っているのが見えた。


「少し血を失いすぎているようですね。あとは緊張からの解放による弛緩。怪我も酷いですし、他にも獣が出ないとは限りません。ここから村に連れて行くにも時間がかかり過ぎますし、何より三日間修行に没頭してこれほど大きな熊を見逃していたわたしの責任です。完治するまで、寺で面倒を見ましょう」


 意識を失った青年の側に駆け寄り、脈を測ってから状態を把握し、この青年がこうなったのも修行前に山を見なかった自分のせいだと自責し、横抱きにしてから走り出す。

 神足通を使えばあっという間だが、それを使うと青年の怪我が悪化してしまう危険性が非常に高いため、呪力で体を強化して走って行く。それでも十分速いが、青年に対して大きな負担はかからない。


 寺に着いてすぐに来ている服を脱がしてから傷口を殺菌消毒し、軟膏を塗って簡易的な止血を行なってから包帯を巻く。それから傷薬を調合しようと薬草を探すが、こちらもあいにくと切れていたので手早く回収してくる。

 茶葉のように細かくした薬草を専用の急須に入れ、お湯を注いで薬効成分を抽出する。お茶と違って時間がかかるので、たっぷりと十分ほど待ってから水差しに注ぎ、蓋を閉じずに冷ます。熱いままだと火傷させてしまうからだ。


 十分冷ました後に青年の口に少しずつ薬草湯を流して飲ませる。今作った薬草湯には、飲んだ者の回復力を補助するという効果があり、傷口に塗って薬草湯を飲むとより効果が高まる。

 軟膏による止血もすぐには終わらないので、もうしばし待ってから包帯とともに取り除き、薬研ですり潰した薬草を傷口に塗る。意識を失っていてもそれが沁みたようで、小さく呻き声をあげる。

 それから新しい包帯を巻いて、体が少し熱を持ったので冷たい水に浸した手拭いを額に乗せて、目を覚ますのを待った。

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