久遠の朱は理想を願う  

夜桜カスミ

序章 久遠の朱に定命の金色

第1話 仙人と訪問の音

 日本のとある山。その麓には見事な山門鳥居が立てられており、そこには赤い文字で太虚山と書かれている。その山門鳥居から少し進んだところには大きな壁があり、その壁の中にはいくつもの街が集合してなった都市国家がある。

 ここは山にしては珍しく頂上付近に湧き水からなった大きな泉があり、野生の動物がその水を飲み、木々に成っている果物や木の実を食べて平穏に暮らしている。

 その太虚山の山頂には見事な木造の寺が建てられていて、その玄関と寺の中は綺麗に掃除されていて生活感がある。当然そこには誰かが住んでおり、居住者は現在泉の上に立って手印を結び、瞑想している。


 白を基調に黒と青で見事で美しい柄の道士服を身に纏い、ほっそりとした腰には青銅色の絹の帯が巻かれている。右側に深いスリットが入って、白く肉付きのいい程よく引き締まったおみ足が際どいところまで見えている。胸元も少し空いていて、その存在を主張している胸の谷間がちらちらと見える。

 水の上に立っているのは、絶世のという言葉がぴったりなほど浮世離れした美しさを持つ、十代後輩から二十代半ば程度に見える一つに括った見事な烏の濡れ羽色の髪を持つ女性だ。名を朱鳥霊華あけとりれいかといい、陰陽術と陰陽道の五行を自在に操る五行仙人、もしくは陰陽仙人だ。

 今彼女が行なっているのは神通力の一つ神足通じんそくつうで水面に立ち、立っている場所から一切波紋を広げずに三日三晩瞑想し続けるという修行だ。普通の人間だったらかなりの苦行だが、仙人となった霊華にはそれは苦行ではなくなった。


「………ふぅ。三日三晩不休の瞑想、完了。やはり、一つのことに集中すると時間の経過が早いですね」


 やがて太陽が一番高いところにまで来ると、霊華はすっと閉じていた目を開けて手印を解く。


「とはいえ、三日三晩身の清めもできないのは些か嫌ですね。……あぁ、丁度いい。天道も一番高いところに来たようですし、ここで身を清めるついでに服も洗ってしまいましょう」


 上を見上げると、そこには碧羅の天がどこまでも続いていた。燦然と日輪は輝き、これいい天日干し日和だと小さく笑みを浮かべる。

 一切波紋を広げずに水上を歩いて泉から出て一旦寺に戻り、そこから体を拭く布を持って出る。布を木の枝に引っ掛けてから、その場で道士服を脱ぎ捨てる。下着も脱ぎ捨てて一糸まとわぬ姿になると、それらを持って泉に身を沈める。


 ぱしゃぱしゃと小さく水音を立てて服を洗った後、それらを日に当たっている木の枝にかけて乾かす。その間に霊華は膝下まで伸ばしている艶やかな黒髪と雪のように白い柔肌に、塗りこむように水をかけて清潔にしていく。

 心行くまで清めた後、ふと水面に映った自分の顔を見る。そこには、長く伸びた前髪で顔の右半分を隠し、左の翡翠色の目元に泣きぼくろのある己の姿が。

 そっと前髪の上から隠れている右目下に触れる。水面に映る表情は見るからに、その下にあるものを忌避しているように見える。誰にも言えない重大な秘密が、霊華の右目にある。


「……嫌なことを思い出してしまいますね、どうしても。仙女となって不老を手にしても、悠久を過ごそうともやはり嫌な記憶は消え去らない」


 隠れている右目そのものにある、忘れたくても忘れることなく、色褪せることなく残り続ける記憶。今尚その記憶は、霊華の心を猛毒のように蝕んでいる。

 遥か昔に起きてしまった、己の最大の過ち。その証である、隠れた右目。過去を思い馳せていると、丁度近くに一匹の魚が泳いで来た。霊華の住む山にどう来たのかは不明だが、でっぷりと身を肥えさせた鮭だ。

 そろそろ産卵の時期ということもあるし、この泉には鮭は山ほどいるので素早く右腕を振るって泳ぐ鮭の体を叩き、そのまま陸に打ち上げる。


「申し訳ありません。あなたのその命、わたしの糧とさせていただきます」


 霊華も陸に上がって、ぐったりと動かなくなった鮭の前で手を合わせてから、自分の体を作る糧とするために殺生したことを謝り、その命をいただくことに感謝する。

 水浴びをして身を清めた霊華は、木の枝にかけておいた手拭いで髪の毛と肌に付着した水分を拭き取り、太陽に照りつけられて乾いた下着と道士服を身にまとい、鮭の尻尾を持って寺に戻る。


「おや、卵がこんなにたくさんあるのですか。ありがたいですが、短期間で使い切ることができませんし……、お醤油漬けにして必要な分だけ残して、あとは麓にある街のお店に譲りましょう。必要なものは……」


 台所で鮭を捌くと、腹からたっぷりの卵が出てきた。醤油漬けにした鮭の卵は美味だが、必要以上に摂取するつもりが元々ないので、すじこを作った後自分が食べる分を少量だけ残して、あとは街の魚介店にでも譲ることにする。

 必要となる材料は塩、醤油、酒、白だしだけだ。塩は水に溶かして塩水にして、卵の汚れを塩水に泳がせるようにして落とすだけに使う。あとは塩と白だし、酒に半日ほどじっくり漬けておけば、すじこの完成だ。

 すじこを作る前に身をほぐせばそれはいくらになるし、大量にあるのだから半分ずつにしようと包丁で真ん中から切り、一つは塩を溶かしたぬるま湯に漬けて膜を切って卵を表にして、親指の腹でしごくようにして剥がす。焼き網を使う方法もあるが、洗い物の手間が増えるのでやめておく。


 剥がしたあとは、お湯を取り替えながら細かな膜や血合いや白い薄皮取り除き、ざるに水揚げして水分を切り、醤油、みりん、酒で味付けする。先にみりんと酒を鍋に入れて煮ることで酒の風味を残しつつ酔わないようにして、そこに醤油を追加して三分煮詰めたのちに冷ます。

 そこに身を膜からほぐし取った卵を保存容器に入れ、そこに冷ましておいた調味液を流し込む。あとは味が染み込むまで待つだけだ。残りのすじこも手早く調味液を作って保存容器に入れて、味が染みるのを待つ。


「さて、ただ待つのも暇ですし、わたしも食事にしましょう」


 綺麗に手を洗って手拭いで水を拭き取ってから、霊華は外に出る。

 霊華の基本的な食事は、寺周辺に生える木になる果物や木の実だ。種実類などは寺の裏にある畑で栽培している。

 仙人となるには穀物を断つ断穀という修行があるのだが、それは穀物を取って消化すると気が濁るため、不老長寿を得られないという教えがあるからだ。だが完全に断つと体作りにも影響すると霊華は考え、適度に摂取はしている。それに、適度に摂取していながらも不老長寿を成し得ているし、実はあまり意味はないのではと考える時もある。


 肉類は蔵にある干し肉や燻製肉が主だ。山の獣を狩ってその肉を調理するのだが、週に一度食べる程度なので余ってしまう。調理せずに残しておくとすぐに傷んでしまうため、長期保存可能な干し肉と燻製肉にしている。それでも摂取量が少ないので、毎回獣を狩ったら半分ほどは麓の街の飲食店や治療院に寄付している。

 霊華にとって麓にある街はまだ村の時からあるもので、人が増えて街になった程度の認識だが、多くの国が集まって一つの大陸となっているイズモ大陸の中では、そこはすでに都市国家と呼ばれるほどに大きく発展している。


 複数の街が集まって出来ているためその街から代表を一人ずつ選び、その代表が政治を行うという政体を取っている。そうしているのも、彼らは仙人である霊華を至上の存在とし、王と同義に扱うことで都市国家の中に王を生み出さないようにしているからだ。

 その都市国家は主に穀物などで発展しており、毎年少量ではあるが霊華に収穫した穀物や家畜の肉を贈呈している。仙人でありながら、体を鍛えるためにそういったものが必要であると知ってから、村の時代から助けられた大恩を返すために行なっている。おかげで霊華自身で家畜を飼ったり、穀物を育てる必要はない。


 穀物や肉類は程よい肉体を作る程度に控えているが、主に食べている果物はそうではない。元から甘いものが好きで、取り分け砂糖菓子よりも果物が何よりも好物だった。

 それは今も昔も変わっておらず、一年中収穫できる果物の成る木を自分で改良して作ったほどだ。自分で調合した栄養剤を改良した木の根元に埋めて、しっかりと水をあげて太陽光に当てさせれば、短い期間で立派な果実が成る。

 林檎、みかん、桃、梨、葡萄、柿、さくらんぼ、びわ、ざくろ等々。一つの果物でも複数種類あるので、霊華本人もどれだけあるか把握できていない。明らかに一人用にしては多すぎるが、その分は自然に帰していたり、たまに山に入ってくる村の人に分けていたりしている。

 ちなみにスイカまであり、それは寺裏の菜園で栽培している。水分が豊富なので、重宝する果物だ。


「今日は林檎に梨、桃の三つにしておきましょう。あぁ、そうだ。乾燥果実も作っておきましょう。乾燥させれば甘くなりますし、何より長期保存もできる。街に何かあってからでは遅いですし、念には念を入れるべきです」


 そう言って大きめの籠の中に果物を次々と放り込んでいく。修行の後の果物は特別甘く美味しく感じるので、自分が食事を取るのに相応しいと感じるまで修行と正しい行いをするのを徹底的に心がけている。

 たまに何かを食べることはよくないことだと教えを曲解する者もいるが、食事というのは自分の体を維持して痩衰えないようにするための、最も重要な良薬だ。特に霊華は我流の拳術を使うのでそれに見合った体作りが必須であるため、修行も大切だが何より大切なのは体作りだ。何も食べなければ十分な力を発揮することができない。

 だからこそ、体内で消化したら気が濁るとなるとされる穀物も適量に摂取している。断食して体が弱っている時に何かが起きて、何もできないと対処できなくなるからだ。


「本日もわたしの糧となってくださる命に感謝します。いただきます」


 日当たりのいい木の根元の岩の上に腰をかけて、手を合わせて謝意を述べてから果物に手をつける。最初に手に取るのは林檎だ。

 よく林檎を切って皮を剥く人もいるが、皮と実の間に豊富な栄養があるので剥かない方がいい。

 真紅の林檎に小振りな口で齧り付き、咀嚼する。しゃくしゃくと子気味いい音が鳴り、芳醇な香りと、強い甘味に僅かな酸味が口一杯に広がる。芯の周りには蜜がたっぷりで、そこが特に甘みが強い。


 次は梨に手をつける。褐色の皮の梨は実がずっしりと詰まっている。しゃりしゃりとした食感に瑞々しい果肉と甘さ。水分をたっぷりと含んだそれは、スイカより小さく手頃な大きさなので、スイカ以上に重宝している。

 最後に桃だ。こちらも実が詰まっているが、林檎と梨より身が柔らかく軽く力を入れるだけで少し実が潰れる。食感はとろりと柔らかく、こちらも水分たっぷりで瑞々しくて甘い。


 果物だけの食事を済ませた後、寺に戻って台所で食べた果物の種を取り出して、小さな植木鉢に植える。種から苗木になるまでは時間はかかるが、しっかりと成長すれば実を成してそれがまた生きるための糧となる。そうなれば、もし麓の街が食糧不足に陥ったとしても、少しだけでも助けになるかもしれない。

 街に分けている苗木はすぐに実をつけるが、霊華の作った栄養剤や肥料を使っていないので、最初の数年は甘くて美味しい果物が食べられるが、その期限を過ぎると実が成りにくくなったり、成ってもあまり美味しくないものになる。

 そうなってしまった木は伐採されて冬を越すための薪にされたり、破損した建物の補修に使われる。最後に苗木を渡してからだいぶ時間が過ぎているので、そろそろ新しいのを育てておくことにしたのだ。


「そういえば、この時期は風邪も流行り出す頃でしたね。薬草も切れていますし、腹ごなしついでに薬草を採取しに行きますか」


 種を植えた後、残りの時間は苦しの調合に当てることにする。

 霊華が仙人となってから、山の麓の都市国家の住民は彼女をそれこそ神のように崇めている。というのも、畑を荒らしたり人を殺したりするような大きな害獣を手ずから駆除したり、食糧難に陥った時は山の果物や病気にかからない稲などを分け与え、雨が降らない日が続いたら五行の力で雨を降らせ、病が流行れば薬を調合して無償で提供する。

 何か不幸が起こればすぐにでも駆けつけて無償で助けてくれるため、守護神のように祀られている。

 誰かから感謝されるのは嬉しいことだしありがたいのだが、仙人はあくまで神通力を持った不老長寿の人間。神のように崇められるのは、正直辞めてほしいところだ。


「最近は苦い薬が苦手な子供もいるようですし、苦味を抑えたものも作ってみましょう。あとは……おや?」


 薬草採取に行く前に薬草を磨り潰す薬研や濾し布、液体を凝固させて丸薬を作るための薬品などを先に取り出して、帰ってきたらすぐに調合できるよう準備していると、山全体に張ってある察知用の結界に反応があった。その直後、かすかな悲鳴と共にタァンという乾いた音が耳に届いた。


「今の音は、銃の火薬の炸裂音? ……まさか、誰か獣と遭遇したのでしょうか? だとしたらまずいですね」


 準備もそこそこに寺を飛び出て、五神通の一つ天眼通てんげんつうの千里眼を発動。自分がその場から下がるのでは効率が悪いので、呪力を山の上に飛ばしてそこに誰にも見えない疑似的な目を作るイメージをして、山全体を捉える。

 そこから音が聞こえた方向に範囲を絞って、結界に反応のあった場所を見つける。そこには右手に回転弾倉式大型拳銃を持ち左腕から血を流している、イズモ大陸にはいない金髪を持った青年と、その青年を追い詰めている巨熊がいた。

 縄張りに入ってしまったようで、熊はえらく気が立っている。しかも青年の拳銃の銃口からは硝煙が上がっており、その弾丸は熊の耳をえぐり飛ばしている。殊更気が立っているだろう。


「鈴などの鳴り物を持っていれば、こうはならなかったはずですが……。異邦では携帯をしないのでしょうか?」


 場所を把握したあと、きっちりと熊に遭遇するかもしれないことを予期して、撃退用の何かを持っていればこうはならなかったのにと少し愚痴をこぼし、天眼通を解いて神足通を行使。限界を超えた速度での移動を開始し、景色が荒々しい濁流のように流れていく。

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