第3話 不審者極まりないほどの絶世の美丈夫
逃亡中に
つまり、魚を手に入れても調理する手段がない。
さすがの朱亞も、熊のように生魚にかぶりつくほど野蛮ではなかった。
(このまま生魚に噛みつくようなことをすれば、それこそ
そうしたら、男がこんなことを言ってきた。
「見たところ、その魚はすでに息絶えている。後宮の魚を密漁するのには手を貸せないが、埋葬する手伝いくらいならしてやってもいい」
男は
まるでこの火を使えとでもいうように。
「時刻は草木も眠る深夜。それにこれだけ
(この宦官、
どこの世界に、夜中に池の魚を密漁する下女の手助けをする男がいるというのだろうか。
あまつさえ、その下女は魚を食べようとしている。
そんな話、妖か幽鬼くらいしか聞いたことがない。
「その代わり、俺とここで会ったことは
なるほどと朱亞は納得してしまう。
こんな怪しい場所に、なぜこの宦官は現れたのか。
しかもこんな夜中にである。
(この宦官も、私と同じように何かやましいことをしているのね)
つまりこの火は、口止め料というところだ。
火を貸してやるから、俺のことも見逃してくれという交換条件ということなのだろう。
それならばありがたくと、朱亞は
「待った。これを渡す前に名前が先だ」と、男が待ったをかけた。
きっと、後で朱亞がこっそり不審な宦官がいたと密告をすることを
もしもこの秘密をバラしたら、朱亞の罪について打ち明けて道ずれにする。
そうないたくなければ、名前を人質にして黙っていろというわけみたい。
「私は朱亞」
「姓は?」
「
「朱朱亞? なんだその造り物みたいな名前は」
後宮に潜伏する際にいきなり名前を尋ねられ、
我ながら、なぜこうも自分は頭が回らないのかと残念に思ってしまう。
「それで、あなたさまのお名前も、もちろん教えていただけるのですよね?」
「…………いいだろう。俺は……
「姓は?」
「………………
(なんか今、変な間がなかった? まさかこいつ、私と同じで偽名を使ったんじゃないでしょうね?)
とはいえ、朱亞も人のことを言えるような立場ではない。
深掘りした結果、自分の正体が銀公主であるとバレでもしたら元もこうもないからである。
だけど、朱亞の予想外のことはまだ続く。
朱亞は事前に用意していた串を魚に刺す。
すると憂炎は、何を思ったのか
(ふ~ん。意外と気が
男の評価を上げていると、世間話でもするように憂炎が話しかけてきた。
「それで、池には何の魚が獲れたんだ?」
「種類はわかりません。でも焼けば食べれるので問題はないですよ」
死ぬのが怖くないなら食べれるだろうけど。
「魚好きなのに、魚の種類も知らないのか」
「仕方ないじゃないですか。教えてくれる人なんて、誰もいなかったんですから……」
それから無言で、調理を進める。
憂炎が用意した
ジュクジュクと魚の皮に焼き目ができるのを、二人して黙って見続けた。
(気まずい……なにか話したほうがいいよね? でも、特に話すことなんてないし)
そのまま無言の時間が続いた。
次に口を開いたのは、魚が完全に焼きあがってからだった。
「じゃあ、いただきますけど、憂炎さまも食べますか?」
「いらん。池の魚なんて、食えたものではないからな」
(なら、遠慮なく)
──パクリ。もぐもぐ。
「んんんんん~!!!!」
「ど、どうした……?」
引き気味で、憂炎が朱亞の顔を
「やはり毒でもあったんじゃ……」と、心配そうな顔にもなっていた。
「これ、すっごく、美味しいんですよ!!!!」
(あぁ~至福の味。これこそ我が銀龍国に伝わる焼き魚の味! 何か月ぶりかしら)
逃亡生活中、焼き魚を食べるのはなかなかの至難の業だった。
追いかけてくる兵士たちを完全に
でも、この後宮であればどうか。
見つかればきっと大目玉を頂戴することにはなるが、見つからない限りは命の危険はない。
そう、見つからなければ密漁ではないのだ。
パクパクパクと、瞬く間に焼き魚をぺろりとたいらげてしまう朱亞。
本当に美味しそうに食べていたせいだろう。
なんと朱亞が一人で美味しくいただいていると、触発されたのか憂炎がこういったのだ。
「毒はないようだな。なら、俺にも食べさせろ!」
せっかくだから俺の分も用意しろという宦官さまのありがたいご命令である。
朱亞は新米の下女。
元公主であったことは忘れて、憂炎の分も焼き魚を提供してあげることにする。
「はい、これは憂炎さまの分です」
「う、うむ」
緊張した手つきで、憂炎が焼き魚の串を握る。
そして「本当にこれは食べても大丈夫なのだよな?」と念入りに三度も朱亞に尋ねてから、「これで死んだとしても、悲しむ相手はもういないか……」なんて訳の分からないことを言いながら口を大きく開けた。
「どうですか、私の焼き魚のお味は?」
「ああ、凄いぞ! こんな旨くて温かい魚、生まれて初めて食べた!」
その言葉はどうやら嘘ではないらしい。
なにせ、憂炎の瞳が輝いていたのだ!
そのままバクバクと飲み込むように焼き魚を喉へと押し込んでいく。
「
「……ええ、ございますとも」
給仕のおばちゃんになった気分で、朱亞は憂炎にもうひとつ焼き魚を提供する。
すると、もう待てないというように、憂炎は焼き魚にかぶりついた。
(面倒くさい人だけど、食べっぷりだけは見ていて気持ちいいわね)
朱亞は焼き魚が大好きだ。
その大好物を調理してあげた相手が、食事をして自分と同じかそれ以上の幸せそうな顔をしているのだから、こんなに気分が良いことはない。
(もしかして、下級の宦官も下女と同じで、貧相なものしか食べてないのかしら。見たところ、私より二、三歳ほど上くらいみたいだし)
朱亞は今年で十五歳になる。
おそらく憂炎は、十七、八歳くらいのはずだ。
「あれ、その指輪……?」
ムシャムシャと食べる憂炎の右手に、桃色の宝石がついた指輪がはめられていた。
どう見ても、下級宦官が持っていそうな代物ではない。
あれはそれなりの貴族が所有するに値する、かなり上等な装飾品だ。
なぜ若い宦官である憂炎がそんなものを?
「ああ、これか」と、憂炎は指輪を愛おしそうに
「これは、亡くなった母上からいただいた指輪だ。先祖代々、受け継げられていたものらしい」
親の形見であれば、まだ若い憂炎が持っていてもおかしくはない。
ということは、彼はそれなりの貴族か、もしくはかなり羽振りの良い商家の人間かもしれない。
(羨ましい……私には、もう家族を思い出せる物は何一つ残っていないのに)
朱亞は逃亡生活中に、持っている装飾品をすべて売り払った。
そうしなければ、生きてはいけなかったからである。
代々受け継がれてきた母上の首輪も、誕生祝いに父上からもらった指輪も、すべて闇市に流れた。
体を売らずに済んだのだから、その代償と思えば仕方ない。
それでも、やりきれない思いが朱亞には残っていた。
「
つい、心からの笑みを憂炎に向けてしまった。
だからだろうか。
彼は顔を赤く染めながら、何かを振り払うように再び焼き魚にかぶりついた。
子供のように美味しそうに焼き魚を
(なんだか悪い人ではなさそうね)
憂炎とは、馬が合いそうだ。
性格的にも、舌の味的にも。
この時の朱亞は知らなかった。
まさかこの男が将来の自分の旦那になるとは、夢にも思ってはいなかった。
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