第2話 幽鬼と見間違うほどの怪しい下女

「それじゃ、あとはよろしくね明明メイメイ


 深夜、朱亞シュアは寝床からこっそりと抜け出す。

 後宮の最底辺である下女の朱亞は、もちろん一人部屋ではない。

 同じ下女たちが雑魚寝している長屋のようなところで暮らしているのだが、同室の下女たちは誰も朱亞の夜間徘徊やかんはいかいとがめたりはしなかった。


「ふわぁ~……あまり遅くならないようにね~」と、友人の明明が手を振っていた。

 他の同室の下女たちも、「見逃してあげる代わりに、明日の洗濯手伝ってよね」なんて図々しく言葉を漏らしている。

 朱亞の洗濯は、常人の何倍も早い。

 だからこうやって日ごろから仕事をこっそり手伝ってあげることで、信用を勝ち取ったのであった。


 闇夜の後宮を一人で歩く。

 朱亞は夜目が効くので、灯りがなくとも月さえ出ていれば外を歩くのは不自由しなかった。

 

 この数日間、チャンスを見てこうして夜の後宮を調査したけど、それでわかったことがある。


 

 こちらが灯りを持っていなければ、滅多めったなことがなければ誰にも見つかることはない。

 たとえ灯りが出ていても、今夜のように濃い霧が出ていれば発見することは困難だろう。



「さて、着いたわね」


 目の前にからぽちゃんと魚がねる音がした。

 ここは後宮の外れにある、名も知らない池。

 もしかしたら名前はあるのかもしれないけど、新米下女である朱亞に知るすべはない。


 夜間徘徊を続けて数日、やっとここまで来れた。

 同僚の洗濯を毎日のように手伝っていたのも、すべてはこっそり魚を頂戴ちょうだいして、夜食にするためである。


(別に食いしん坊なわけではありません。これは生き物として当然の摂理せつりです)


 そう言い訳をしながら、故郷の宮殿では池の魚を獲り尽くしてしまった。

 だけど、なにも魚好きなのは朱亞だけではない。

 銀龍国の王族は、魚好きで有名な一族なのだ。

 特に銀色の髪を持って生まれた子は、飢えた龍のように魚を欲するという。


(私のようにね……)


 黒く染めたこの髪は、闇夜にしっかりと紛れている。

 もしも元の銀髪のまま出歩けば、月の光に反射して誰かに見つかっていたかもしれない。


「誰かに見つかる前に、さっさと終わらせちゃいましょう」


 朱亞は池のほとりにしゃがみ込んだ。

 そのまま、静かに手を池の中へと下ろす。


(冷たい……でも、それが心地いい)


 まるで故郷に帰ったよう。

 やはり水に触れるのは落ち着く。

 生まれたときから何度も感じていた水への愛おしさを思い出しながら、いつものように魚を獲る。


 ──そのときだった。 


「そこのお前、何をしている!」


 背後から男の声がした。

 振り返ると、手燭てしょくを持った男が立っていた。


(まさか、見られた!?)


 心臓の鼓動がうるさい。

 もしかしたら、見られてしまったかもしれない。

 夜に抜け出していることをとがめられるよりも、そのことが気になった。 


「池が渦を巻いていたような…………いやそれよりも、魚が浮いている?」


 男が手燭てしょくを池にかかげながら、不思議そうに口にする。

 池には、数匹の魚がお腹を天に向けながら浮いていた。


「……なにか、見られましたか?」


「池に手を入れていたようだが、これはいったいどういうことだ?」


 良かった、どうやら見られていたわけではないらしいと朱亞は胸をなででおろす。

 それでも、この状況が改善したわけではないのだけど。


「まさか魚がおぼれているのか? まるで噂の銀公主のようだな」


「……わたくしは、銀公主のように美しくはございません」


「銀公主がこんなところにいるわけないからな。さて、偽公主の顔を拝ませてもら……!」


 男は私に灯りを向けながら、声を途絶とだえさせる。

 まるで幽鬼ゆうきにでも出会ったような反応をされ、朱亞はちょっと傷ついてしまう。


「もしや銀公主の幽鬼でも見られましたか?」


「ああ、どうやら幽鬼の噂は本当だったらしい」


(幽鬼の噂? そんなものがあったなんて知らなかった。今度、明明メイメイに聞いてみようかしら)


 それにしても、マズいことになった。

 この男が誰だかは知らないが、夜中に後宮を徘徊はいかいしていることがバレてしまった。

 下手をすれば、不審人物スパイだとして捕まってしまうかもしれない。

 建物を物色しているわけではなく、外れの池で魚と戯れているのだから、弁明べんめい余地よちはあるかもしれないけど。


 そもそも、この男は何者なのだろうか。

 後宮にいる男なのだから、宦官かんがんなのは間違いない。

 大切なものを取り除かれた男だけが、宦官としてこの後宮に出入りすることができるのだから。

 気になるのは、なぜこの宦官はこんな夜更けに何もない池にやって来たのか。


(まあそれは私も同じなのですけど。まさか魚を獲るためだとは思えませんね)


「そんなことより、その池の魚たちはどうした? まさか池に毒が!?」


「いえ、そのようなことはございません……ここに来たときには、こうなっておりました」


「ほほう……」


 怪しまれているけど、そんなことはどうでもいい。

 なにせ、夜間徘徊をしている言い訳を考えなければならないのだから。


「では尋ねるが、お前はなぜ魚を手でつかんでいるんだ?」


(マズイ……これはマズイ!)


 後宮の下女が、夜中に魚を手づかみにしている姿なんて見たことも聞いたこともない。

 あるとしたら、それはあやかしくらいだ。

 なら、いっそのこと、あやかしのフリでもしてみようか?

 なんなら幽鬼でもいい。

 

「ちょっと美味しそうだなと、思いまして……」


 満面の笑みを浮かべながら、そう答えてやった。

 こんな女、存在することすら疑わしい。

 だからあやかし幽鬼ゆうきだと思って、このまま立ち去ってください。


「魚が美味しそう…………まさか、そこまでえているのか?」


「ひぃあっ!?」


 宦官が朱亞の手首をにぎる。

 驚いて、声を上げてしまった。


(いきなり何をするの、この宦官は!)


「手首があまりにも細い……かなりせているな」


 朱亞は半年以上、逃亡生活を続けていた。

 そのため、ただでさえ痩せていた体は、貧民街の孤児のように細くなっていた。

 こんな貧相な体では、いくら顔を褒められても妃嬪ひひんになることはないはず。

 そう思って後宮に潜伏した朱亞の予想は、正しいものになっていた。

 でも、それを見ず知らずの男に言われるのは、ちょっとだけ腹が立つ。


(それに男に触られたのはいつ以来かしら……とはいえ、宦官だから完全な男ではないのだけど) 


 朱亞は男の手を振りほどく。

 その際に、男の顔がすぐ目の前にまで近づいていることに気が付いた。


(すごく綺麗な顔……もしかして、宦官じゃなくて女官だったり?)


 それほどまでに、目の前の男の顔は整っていた。

 妃嬪ひひんだと紹介されても、頷いてしまうほどの美丈夫びじょうふ

 だが、腕を握られた朱亞にはわかる。

 ごつくて大きいこの手は、まぎれもない男のものだった。


(宦官でこれだけ美しければ、主上しゅじょうのお手付きになっていてもおかしくないわね)


 まだ成人を迎えていない現皇帝は、妻が沢山いるにもかかわらず女の噂はまったく聞かない。

 どの妃の宮にもお渡りにならないから、実は男色の気があるのではと、噂好きの明明が話していた。


(だけどこの男、どこかでこの顔を見たことがある。いったいどこでだっけ……)

 

 目の前の美しい宦官が手籠めにされるのを想像しながら、これからどうするべきかと朱亞は頭を悩ませる。

 どうやらこの宦官は、朱亞にあわれみの視線を向けていた。

 腹が空きすぎたせいで、池の魚にまで手を出してしまうほど困窮こんきゅうしているのだと思ってくれているらしい。

 なら、この状況を利用しよう。


「どこのどなたかは存じませんが、見逃してはいただけませんでしょうか。今夜だけ、この一匹だけで良いのです。どうか一口だけでも、この魚をいただかせてはいただけないでしょうか」


 泣き落とし作戦である。

 逃亡中は、何度もこれを使って村人に助けてもらった。

 おかげで泣き真似は洗濯の次に得意になった。


「まさか、なまらう気か?」


「…………あ」


(しまった、火がない!)

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