第10話 夫婦になってしまった敵国同士の公主と皇帝

「ここが私の新しい家であり徳妃の宮……龍水宮ね」


 この日、朱亞シュアは秀女選抜試験に見事合格してしまい、四夫人の徳妃となってしまった。


 下女からの大出世。

 しかも設定的には、朱亞は平民出身。

 なんなら金鸞国始まって以来の大大大出世でもあった。


「おめでとう朱亞! 絶対に朱亞なら妃になると思ってたよ! だから私も早く引き上げてちょうだいねー!」と図々しいことを言ってくる明明に見送られながら、女官たちによって龍水宮に連れて来られてしまった。


(どうしてこんなことに……)


 試験ではわざと変人のフリした。

 だから妃にはならないと思っていたのに……。


「しかも四夫人の徳妃だなんてありえない」


 朱亞の正体の銀公主であれば、別におかしくはない。

 他国の王族であれば、四夫人になっても文句はないからだ。


 けれども、今の朱亞は平民のフリをしている。

 それなのに徳妃になるのは、絶対におかしい。


「こうなったら、選んだと思わしき張本人に聞いてみるほかないでしょうね」


 平民からの大抜擢。

 反対の声は多いが、一方で朱亞の美しさに宦官からは納得の声もあがっていた。

 そしてそれ以上に、他の妃からは嫉妬と妬みの声が燃え上がっている。


 こんな面倒な事態にしてくれた落とし前をどうつけてやろうか。

 そう朱亞がぐつぐつとした感情を煮えたぎらせていると、「主上が起こしになりました」と女官から声がかかる。



 リンリンリンリン、と鈴が鳴った。


 皇帝が、朱亞のいる龍水宮お渡りになった合図であった。


 遠くのほうから、誰かの足音が聞こえる。

 その足音は、廊下を進みながらゆっくり朱亞の待つ寝所へと近づいてきた。


(本当に来た……!)


 心臓の音が高鳴るのがわかる。

 緊張しているのだ。

 

 今は亡き銀龍国の王族である銀公主とて、こういったことは初めてのこと。

 朱亞は自分の指が震えているのに気がついた。

 とっさにもう片方の手で震える指を押さえつける。

 それでも、体の奥底の震えは止まらない。

 

 祖国の王宮が落城したとき、敵の兵士が銀公主の名前を呼びながら探していたことを思い出す。

 朱亞は下女の集団にまぎれながら、ビクビクと震えながら隠れ潜んだ。

 見つかれば、殺される。

 だけどあの時は幸いなことに、見つかることはなかった。


 だが、今日はあの時とは違う。

 あの男は必ず、この部屋までやって来るのだ。



 扉が開かれた。

 顔を上げると、そこには白の衣を身に包む青年が目に入った。


「憂炎、さま……」


 朱亞はすぐさま叩頭こうとうする。

 

 相手はこの金鸞国の皇帝。

 平民出身であることになっている朱亞にとっては、まさに天上のお方だ。

 そんな方に、れしく焼き魚を提供してしまった。しかも火と塩をおねだりまでしてしまったのだ。


「これまでの数々のご無礼、お許しくださいませ」


「それはよい。頭を上げろ」


 ──目が合った。


「まさかこれほどとはな……」と、憂炎が小さくささやく。

 朱亞の顔を見て驚いているようだったが、それは朱亞も同じ。


 目の前には、想像していた以上に美しい青年の姿があった。

 暗闇の池で目にしたときには、完全に顔を拝謁はいえつすることはできなかったが、今は違う。

 『皇帝はものすごい美丈夫だ』という噂が明明メイメイの口から出てこなかったのが不思議なくらい。


「すべて許す。俺にも非があるからな」


 憂炎は朱亞に自己紹介する際に、自分のことを『杜憂炎』と言った。

 皇帝の姓ではなく、母親の実家の姓をあえて名乗ったのだ。


 これでももしも、朱亞が皇帝の名前だけでも事前に知っていれば、気づけたかもしれない。

 けれども元はこの国の人間ではないうえに後宮に来たばかりで、しかも下級下女である朱亞に、天上人の名前を知るすべはなかったのであった。

 気づかなかったのも無理はない。


 それでも憂炎は、自分が皇帝だとは一度も明かさなかった。

 そのおかげで宦官だと勘違いしてしまったのだから、朱亞が陛下に接するような態度を取れなかったのは仕方なのないことだ。


 それでも、どちらが悪いかと言えば、下女の朱亞になる。

 皇帝は何をしても、そして何をしなくても正義。偉いのだ。


「まずは礼を言わせて欲しい。昨晩、朱亞は無法者から俺を助けてくれた」


「陛下、おやめください」


「もしも朱亞がいなかったら、俺は今頃、この世にはいなかっただろう。それだけのことをしてくれた」


 嬉しい反面、朱亞は動揺していた。


(憂炎が昨夜のことを知っている!? つまり、私があの宦官を撃退していたところを見られたんだ……!)


 それはつまり、先祖返りである龍の力を見られたこと。

 そしてなにより──


「朱亞は、本当は銀色の髪をしているのだな」


 憂炎の指が、朱亞の髪に触れる。

 銀に輝く髪が、指によってさらりと流れた。


 そう、憂炎は昨夜、朱亞の本当の姿を見てしまったのだ。

 龍の力を使って染めていた黒が抜け落ちた、元の銀色の髪を。


 そうして本日、事前に髪の色を落としておくように皇帝から朱亞に対して指示が来ていた。

 その時点で覚悟はしていたのだけど、おかげで指の震えは未だにむことない。


 きっと憂炎は、なぜ髪を染めていたかといさめるつもりのはずだ。

 そしてこう告げるのだ。

 まるで逃亡中の銀公主みたいだな、と。


「……美しい」


「え?」


「こんなに綺麗な髪、初めてみた」


 憂炎は宝石を扱うように、丁寧に指で髪をすく。

 その反応に、朱亞はやりきれない思いを感じた、


「なぜ染めていたのかと、お尋ねにはならないのですか?」


詮索せんさくはしないとも。だが、推測はできる。朱亞は銀龍国の民なのだろう?」


 以前、憂炎と先祖返りについて話したことがあった。

 朱亞は銀龍国でも非常に珍しい、先祖返りとして生まれた。


 憂炎と違う点は、金鸞国では先祖返りは歓迎されるが、銀龍国では化け物だと忌避きひされる。

 だから身の上を隠していたのだろうと、勝手に解釈してくれたのかもしれない。


(別に私の正体がバレたわけではなかったのね)


 朱亞の正体が逃亡中の銀公主であることに気づかれていないのであれば、これ以上嬉しいことはない。

 本当に安心したと、やっとゆっくり息ができた。


「龍のように水を操ることができる。それが銀龍国の先祖返りの力なんだな?」


「おっしゃるとおりです。生まれつき、龍神のように水を操ることができました」


 おかげで洗濯には困ったことがない。

 その力の代償として、無類の魚好きになってしまったけど。


「便利な力だ……同じ先祖返りでも、俺には特別な力はないというのに」


 だけど、それは本当なのだろうか。

 実は何か、力を隠しているのではないかと疑いたくなってしまう。

 なにせ、この男は憂炎。

 子供のように無邪気に焼き魚を頬張る裏に、こんな顔を隠してたのだから。


 だけど、どうやら先祖返りの力を忌避きひされる展開でもないみたい。

 銀公主であることが明らかになって捕まるわけでもないのなら、少しは警戒心を解いてもいいのかもしれないと考えを改める。


「それで、なぜ私を妃に?」


「朱亞が信用できるからだ」


 憂炎は、これまでの経緯を話してくれた。



 昨夜、憂炎は、命を狙われていた。

 自身が皇帝だというのに。


 実は憂炎の側近たちも、すべて暗殺されてしまったのだという。

 その黒幕は、前皇帝の妃であり、皇弟の母親である董太妃。

 憂炎を殺して、自分の息子を次の皇帝にしたいとたくらんでいるらしい。


「おかげで俺の食事にはいつも毒が混じっている。毒見役すらも敵。なんなら、寝所を守る衛兵ですら殺し屋かもしれない」


 池で会っていたときには暗くて気づかなかったが、憂炎の目の下にはくまができていた。

 自分の寝床でも安心して寝ることができず、不眠症が続いているのかもしれない。

 皇帝がどこの妃の宮にも足を運ばなかったのは、その妃に寝首をかかれることを案じてのことだったと朱亞は気がつく。


「それであの宦官から、手紙が届いた。母上の真実を話すから、瓢箪池に来いと。これは最後通告であるとわかったのと同時に、少し安心した──これで楽になれる、と」


 もう明日の朝日は拝めないかもしれない。

 でも、それでもいい。

 どうせ自分はこのままいけば確実に殺される。

 なら、もう我慢するのを辞めてもいいとすら思ったらしい。


「そんなときに、朱亞に救われた」


 毎晩こっそりと池で焼き魚を食べるのは、憂炎にとっては非常に楽しい娯楽になったらしい。

 目の前で調理された料理だから毒におびえることもなく、こんな変わり者の下女が暗殺者なわけもない。

 だからやっと張り詰めた息を抜くことができたのだと。


「朱亞は信用できる。深夜にこっそり魚を獲って焼いている下女が、皇帝の殺し屋のはずがないからな」


 それでも最初は警戒したらしい。

 すぐに、その考えは捨てることになったようだけど。


「そして昨夜の事件だ。俺は身も心も、朱亞に救われたのだ」


(別に、誰かと一緒に美味しい焼き魚を食べたいと思っただけなんだけど……)


 朱亞に特別な打算があったわけではない。

 それでも結果的には、人ひとりの人生を救ってしまったのだ。


「だから、私を妃にしたのですか?」


「そうだ。そして、朱亞には申し訳ないことをしたと思っている。だが、飲み込んでもらいたい」


「平民が四夫人になったら、いろいろと大変なんですよ。わかっていますか?」


「わかっていないのは朱亞のほうだ。俺は朱亞に恨まれても仕方ないと思っている」


(まさかそれって、私の正体が銀公主で、自分が祖国のかたきだってことを知っているってこと!?)


「俺はこれからも命を狙われる。だけど、魚を焼いて自由に生きる朱亞を見て思い直した。俺は自分の国の民たちにも、朱亞のように笑顔になって欲しいのだと」


 憂炎が朱亞の目をじーっと見つめながら、強く発する。


「だから俺は本当の意味で皇帝になる。実権を握っている董太妃を追い払い、真の皇帝として国をひとつにまとめたい」


「…………それは、とても困難な道ではないのですか?」


「わかっている。だからこそ、朱亞の力を借りたい」


「私の龍の力をですか?」


「いや、違う」と言いながら、憂炎は朱亞の肩をつかむ。


「俺は、お前が欲しいんだ。朱亞だから、妃に選んだんだ」

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