流された名前 後編
あの冬。カキ小屋の一件は、複雑な事件じゃない。
◇
冬の町興しに、砂浜に沢山の出店とテントを建てて、カキ小屋を開いた。
たくさんの利用客、出店の希望業者が集まり、冬の海風も関係なく連日賑わいを見せ、成功だったんだと思う。大人にとっては、毎朝のゴミ拾いの励みにもなっただろう。
僕には大変なばかりだったけれど。
けれど、やっぱりマナーが悪い人や、売り物の廃棄を海へ投棄する業者がいて、砂浜に拾いきれないくらいのゴミが溜まるようになってしまった。お金が絡むと、迷信など見向きもされない。
町の人も、漂流物は贈り物として割り切れても、故意に残されたものは、連日続くとやはりゴミ。
注意喚起も微々たる効果で、最期には砂浜の片隅にテントで目隠しされたゴミ置き場が作られる結果になった。
幸い冬だったから腐敗や臭いはしにくい。
苦肉の策。
そして、妥協の代償を、こしあんが一手に引き受けることになってしまった。
そうしなければ、住人のほとんどが犠牲になっていたかもしれない。
分からない。
分からないから、選べない僕の代わりに、相棒が選んだ。
そういう事件だった。
まだ、終わっていないとでもいうのだろうか?
◇
目の前には、あの時僕がウミガメから見せつけられた光景と同じ。
カキの残骸がびっしりと敷き詰められた、砂浜だった場所。
こしあんはこう言っていた。
「食らうことを恨まれるのではない。過剰に荒らし、汚すことを恨まれるのだ」
貝殻だけではない。中身の残った死骸も、異臭も、あの時は立ちこめていた。
けれど、今ここは臭いはしない。
最後の一つの飴を口に含む。さっきと変わらない。梅味だ。
……どういうこと?
ばぁちゃんが持たせる飴は、いつも何かを暗示していた。
梅は味わう余裕をもつための、冷静さをもたらす味。
だけど、ばぁちゃんが同じ味だけを持たせた意図が分からなくて逆に落ち着かなくなる。
――カエシテ……カエシテ。
――カエシテホシイ……カエシテ……。
カチカチ、カサカサと殻が鳴っている。
出かけた時はまだ明るかった空は、淀んだ緑がかった色に。波音はするけれど、海は見えない。
らせん状に下りてきたはずだけど、壁もなくなっている。
濁った緑と、足元の白んだ空間が延々と続いていた。
砂浜に穴を掘って、ゴミ捨て場にしたような、それか汚れた水槽の中のような空間。薄暗く感じるけれど、足元の残骸はよく見える。恐らく幽世に入ったんだろう。
足を動かすと、触れた貝殻が乾いた音を立てて割れる。
繰り返すとすすり泣きのようで、居心地が悪かった。
音は、僕が足を止めても鳴り続けた。
貝殻の砂浜を砕いて、僕のものではない足跡が生まれ、虚空へと進んでいく。
いくつもいくつも。
いくつもいくつも。
何人もの足跡が、虚空へと消えていく。
僕はただ見ていることしかできなかった。
落ち着いてはいたから、なんだかんだ言っても、梅味のお陰かも知れない。
こしあんが居ないから捗らない。ばあちゃんの言う通りだ。事象の意味も、自分が取るべき行動も分からない。
呼ばれるのに、今回もまた見ているだけだ。
助けられてたことが嫌でも分かる。
「なら開き直るのが正解ってことかな」
不思議と恐怖心は無かった。
飴のおかげか、この光景に腹を立てているからかは分からないけれど。
仕方がないから、僕はばあちゃんの持たせた弁当を取り出した。
こしあんのおはぎが二つ。
皮肉や冗談で渡したわけではないだろうけど、あまり気分の良い物ではなかった。
「いただきます」
手を合わせたのは、相棒と同じ名前だったからかもしれない。
おにぎりだったら、そのまま口にしていた気がする。
冬の事件からずっと供えてきた、習慣になっている所作。
「それは儂に供える為のものではないのか?」
「……ばぁちゃんは僕にって持たせてくれたんだけど」
どうしてだろう、驚きはしなかった。
あんまりにも自然に、居なかったことが嘘みたいに隣にいたから。
「一個ずつでいい?」
「仕方ないの。久方ぶりだからゆっくり味わうとしよう」
──カエシテ。
「ふん、分かっておる。先にこっちじゃ」
ふわふわとした尾っぽが、ゆっくりと機嫌良く揺れていた。
◇
久方ぶりの味としてはまぁまぁだという評価を下しながらも、こしあんはおはぎを堪能した。
食べながら、僕は相棒が居なくなってから今までのことを話した。
カキ小屋での事件の後、日常が戻ってきたこと。
姫乃さんが大工の親方の所で、住込みで塗装の仕事を始めたこと。
ばぁちゃんは相変わらず元気で居ること。
お菓子作りの練習を続けていることを告げると、おはぎに夢中で半分聞いていなかったこしあんの耳がピンと立つ。
「食いしん坊だなぁ、ちゃんと聞いてた?」
「聞かずとも、坊のことは分かっておる」
久しぶりに呼ばれる愛称がなんだかくすぐったくもある。けれど同時に、もう一つの問題が気を重くする。
「ねぇ相棒、僕の名前……分かる?」
「懲りない未熟者の坊々という二つ名が欲しいのか?」
「あー、それは嫌。そうじゃなくて」
最後に、僕の名前が誰からも呼ばれず、思い出されなくなっていることを告げた。
僕がひとしきり話し終えると、相棒は鼻をふんとつまらなさそうに鳴らし、疑問を口にする。
「そもそも、ここで名前など必要なのか?」
――カエシテ。
「分かっておる、少し待っておれ」
濁った緑の虚空を見上げ、こしあんは誰にでもなく呼びかけた。
僕は相棒の真意が分からず、じっと見つめる。
「坊。お主がここに至るまで、名が呼ばれぬことで不都合があったか? 存在を忘れられたわけでもない、認知もされる」
「こっちから働きかけないと居ないことと同じなんだよ?」
「それは違うだろう。鬼ババはどうだ? あのクマの娘は? あの二人ですら、お主の存在がかき消されたのか?」
違う。あの二人は僕を覚えていた。名前以外、だけれど。
僕の反応を見て、こしあんは呆れたように鼻を鳴らす。
「いつも言っているだろう、呑まれるな。目的を見失うなと。思い出せ、鬼ババの飴は何だった?」
「梅味。全部」
「ふむ……? すまん、それは儂も予想できん」
ばぁちゃんの飴から何か導きを受けたのだろうと聞いたこしあんは、僕の返答に怪訝に尾っぽを下げた。
「まぁいい、それで何を見たのだ?」
「何をって……さっき話したことと変わらないよ。砂浜に大きな穴が開いていて、そこを下りたら、ここに着いたんだ。この声も、足跡も、飴を食べても変わらなかった」
「そうか。なら見ておれ」
こしあんは凛と甲高くひとつ鳴いた。秋のぬいぐるみの時にも見せた、遺った思念や自らを害するモノを退ける遠吠え。
けれど、何も変化が現れない。
空は淀み、声は響いている。
すすり泣く足音も、次々に虚空に向かうままだ。
「見ての通りだ。まだ分からず呆けておるのか?」
「分からずって、何も分からないよ」
「目を凝らして耳をすますのだ。そしてよく考えよ。ここに至るまで、儂と話すまでの間に、坊に何かしら向けられた害意があったか? 聞こえてくる声は、坊の言うカキ小屋と同じものか?」
呆れたようにこしあんは問い掛けを口にする。
そして姿勢を正し、真剣なまなざしをまっすぐに僕に向けた。
「名を失って不都合があったか? 危険があったか? 今に至るまで、現世もこの幽世も、坊にとって少々都合が良いとは思わんか?」
「都合がいい……?」
──カエシテ。
「ほら、耳をすませ。呼ばれておるぞ。こんなところでまで顕現しただけの儂のために祈り続けた甘ちゃんだから、わざわざ迎えに来てやったのだ。一つくらいは見抜いてみせよ」
こしあんは声の方を見上げた。
繰り返し繰り返し、声は響いてくる。
恐ろしさはない。なんだか不思議だ。聞いたことがあるような気がする。
──カエシテ。
悲しそうな、でもハッキリとした強い声。
──カエシテホシイ。
祈るような、優しい声。聞いたことがある声だ。
「この声、ばぁちゃんに姫乃さん? ……まさか、居なくなったのは相棒じゃなくて、僕だったってこと?」
ふっと、身体が宙に浮き、さっき下ってきた穴に吸い寄せられる。
驚く僕の隣を、こしあんが面白がりながら昇ってきた。
「当たらずとも遠からずか。坊は坊でも、寝坊助ということだ」
「面白くないんだけど」
「そうか?」
ここは僕の夢だと、こしあんは暗に伝えている。
でもそれなら、僕はいつから眠っていたのか。
あのカキ小屋の事件はなんだったのか。もう起こった後なのか。夢だったのか。
そもそもなぜ、僕は眠っているのか。
分からないことが沢山ある。
「ここは坊にとって都合の良い世界だ。危険はなく、不便なく、ウミガメに呼ばれることもない。今も呼ばれたわけではあるまい?」
「そうだね。でも、僕はずっと後悔をしていた気がするよ。……相棒が居なかったから」
「甘ちゃんが。神は崇めるものだ。本来現世に居ない者に、囚われるべきではない」
「僕にとっては、こしあんが居るのが日常なんだよ」
普段なら口にはしないだろうと思う。
それでも告げたのは、夢だからだろうか。
こしあんも面食らったのか、説教は続かなかった。替わりにゆっくりと大きく尾っぽが揺れる。
「坊よ、あの無数に進む足跡をみておけ」
「あれ、カキの貝殻だよね。いったいどこからが夢なの?」
「目覚めが来るのならそれは詮無いことだ。眠りとは休息意外にも意味がある。分かるか?」
こしあんの問いかけに、思案する。記憶や経験を、脳が整理してるとかとかなんとか。聞いたことがあることを口にする。相棒は「そうだ」と短く肯定した。
でも、一面カキの砂浜を歩き続ける無数の足跡が、僕の中の何と結びついているんだろうか。
すすり泣きのような足音は、浮かび上がってた後も耳に届く。当然、そんなことがあった覚えがはなかった。
「あれは、いくつもの軌跡。それも全て途切れている。既視感という言葉があるが、あれは一度魂が体験した出来事を再度体験しているという考えもある」
「魂が?」
「そうだ。焼き付けられた同じ生を繰り返しているという概念だな。まぁ真理を知る者は神でもおらぬ。神を信仰し形作る人間は、現在と過去しか既知にならぬのだからな」
貝殻の砂浜も、足跡も段々と小さくなってきた。
少し小難しい話になってきて、夢の中のはずなのに眠くなってきた気がする。
「そろそろ目覚める時か。……坊、恐らく目覚めれば忘れているだろうが、最後に伝えておく。儂を顕現させた一因のお主自身が、あの足跡がお主の失敗の数だと儂に知らせておる。名前が消えたのではない。あのカキの砂浜より先の世の、お主が消えたのだと」
こしあんの口調は、つまらなさそうにも、怒っているようにも、気遣っているようにも聞こえる複雑な響きだった。
相棒の言葉を反芻する。目覚めたところで、僕はあの海岸の先にはいけないということだろうか。今年の冬かは分からないないけれど、この夢での僕もまだ学生だ。遠い未来ではないのだろう。
――……ヲ、カエシテクダサイ。
穴を抜けると、雨が降っていた。現実と変わらない僕の住む町の空へ、僕は浮かび上がっていく。
雨音よりもハッキリと、声が聞こえた。姫乃さんだ。
出会ってからそこまで日は経たないけど、大切に想って貰えている事が伝わり、くすぐったい。
「梅味三つも食べたからかな? 自分でも驚くほど落ち着いてるんだけど」
「見越していたとでも? 鬼ババはどこでも恐ろしいな」
戻った先には、僕にとっての終わりの日が目の前かも知れないのに、穏やかな心地だった。軽口をこしあんに飛ばすと、愉快そうに返事が帰ってきた。
「ふふ、そうかも。あそこで途絶えた僕には、ばあちゃんや相棒がいたのかな?」
「そこまでは分からぬ」
「なら、居なかったのかもね。僕一人ならもっと怖がったり慌ててる。でも今は、次何のお菓子作ろうかなって考えてるし」
「呆れた甘ちゃんだ。……裏ごしは入念にな」
もう視界は真っ白だったけど、こしあんの口元はにやっと上がっているんだろうなと、僕には分かった。
◇
始めに気づいたのは、激しい雨音だった。
目を開けると、覗き込んでいた姫乃さんと目が合い、「王子!」と乗りかかって抱きしめられた。
ぼんやりとする頭で、彼女がこんなに痩せていたかなとなんとなく考える。
姫乃さんの香りに混じって、畳のにおいがして、ここが寺なんだと分かった。
顔を横に向けるとばあちゃんもそばに居て、目が合うと逸らされた。なんだか目が赤かったような気がした。
「やっと起きたか」
鼻を鳴らす音。
ばぁちゃんのすぐ隣で、大きな尾っぽがゆっくりと揺れている。
声が掠れておはようも言えず、涙が出た。
それから僕はばぁちゃんから、連絡が取れないからと家を確認したら、眠っていて起きなかったと聞いた。
不審に思って、寺に運んでくれたらしい。その後も、何日も眠っていたと説明された。
まだぼんやりとする頭で経緯を聞きながら、僕は眠っていた間に何か大事な夢を見ていたんじゃないかと考えるけれど、思い出せないでいた。
ただ、姫乃さんが嬉しそうに僕にかけた言葉で、僕の背筋は凍りついた。
どうしてかは、分からないけれど。
「今度のお休み、一緒にカキ小屋でカキ食べようよ! 栄養いっぱいあるし、ね?」
ウミガメの贈り物 梅雨 つくも せんぺい @tukumo-senpei
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