流された名前 中編
「ばぁちゃん、学校で海辺の砂が減ってるって噂になってた。知ってる?」
「さぁね。なんだい血相変えて走ってきたと思ったら変な話なんかして、また拾い物かい?」
「違うよ、聞いて」
学校でどう過ごしたのか、あまり覚えていない。
下校してすぐに、僕はばぁちゃんが住みこんでいる寺に駆け込んだ。
今日一日で分かったことは、クラスでの僕の認識が希薄になっているということだった。
ちゃんと僕の席はあり、声をかければ会話はできる。
ただ、誰も僕を名前で呼ばなかった。
ホームルームの点呼でもだ。飛ばされても、みんなそれに気づいていなかった。
僕が動かないと反応されない状況。そわそわとした気分で過ごして、どうかしたのか聞いても、僕がどうかしているとというような返しをされた。
黙って学校を出ても気づかれなかったろうけど、ばぁちゃんに学校に叩き返されそうな気がして思いとどまり、やっと放課後を迎えたのだ。
僕の説明を、ばぁちゃんは眉間に皺を寄せて黙って聞いている。怖い。
「最近は海にも行ってないし、何も拾ってもないよ」
「まだ何も言ってないだろう?」
そう最後に出た言葉は、本当のことなのに言い訳しているみたいな居心地の悪さだった。
呆れにも驚きにもとれる返事が帰ってくる。
「放っておきな」
「どうして?!」
そして、深々とため息を吐いたばあちゃんから出た言葉は、突き放すような言い方だった。
「確かに、アタシもまだ名前は思い出せない。だが、あんたが孫だってことは理解しているし、見えるし話せる。死にゃしないかぎり、消えたりなんかはしないのさ。ならそのうち戻るだろう」
淡々とした物言いで、ばぁちゃんは話を終わらせようとした。
そんなばぁちゃんをじっと見つめる。少し、違和感があったからだ。
ばぁちゃんは僕の行動に対して、いつも断定的な物言いをする。それが今回はなんだか歯切れが悪い物言いばかりだ。
「なんだい? 食いしんぼうの世話焼きは居ないんだ。一人で行ってどうするんだい」
「どうしたらいいかは分からない。けどこのままじゃいけないって思うんだ。僕の名前のことだけじゃなくて、僕自身のこれからのことも」
「そう思うことが呼ばれてるってのが分からないかい? ……懲りないね」
「懲りたよ。だから、僕がもしこれからもウミガメに呼ばれて、また誰かが巻き込まれるなんて嫌なんだ。今からでも変わっていかなきゃいけない。……ばぁちゃんに頼む以外、僕にはやり方が分かんないけど」
不機嫌そうに睨むばぁちゃんをまっすぐに見つめる。
係わるなって散々言われてきた。けど、巻き込まれることだってある。
なら、今回みたいに僕に直接影響していることを好機と捉えて、対処が出来るようなっていければ良い。
腕を組み深くため息を吐くばぁちゃんは、相変わらず怖いけど、諦めたように僕に飴と包みを一つ渡した。
「……アタシに言えるのは、早く帰ってきなって事くらいだ。あとは……」
少し思案して、僕に小さな包を渡した。
「食いしん坊が居ないと捗らないだろうからね、夜食代わりだ。一人だろうといただきますをするんだよ」
当然といった様子の彼女に、僕は首を傾げる。早く帰れと言っていたのに弁当を渡すなんて、本当にボケてしまったのかも知れない。
それに、なんだか小さい子供に向けた言葉みたいだ。
なんて軽口を叩くと怒られることは、簡単に想像できたから言わないけれど。
「ありがとう、行ってきます」
「ああそうだ、傘持っていきな」
見送るばあちゃんに、少しの違和感。
放課後の日暮れ前に、僕一人を送り出す。
ばあちゃんは、そんな性格だっただろうか。
早く帰れと言うわりに、夜食を渡す。
そんな性格だっただろうか。
踏み出す足が重く感じる。
ふっと息を吐き、僕は一人で海へ向かった。
◇
砂浜の砂が減る理由にはいくつかある。
たとえば、雨や波が海へさらっていく砂の量と河川から運ばれ流れ着く砂の量が、山地の開発なんかで釣り合わなくなった時。
他には、白砂の地域は珊瑚の減少なんかも理由になっていると聞いた気がする。
どちらにせよ、砂浜全体の変化であることが想像できる。
けれどやってきた僕の目の前のに広がる光景は、砂が減ったという表現が当てはまる状況ではなかった。
穴。
砂浜が大きく抉れて、ぽっかりと暗闇が口を開けている。
穴。一つ、巨大な穴が空いている。
いつの間にか空は灰色の雲が覆っていて、穴はいくつもの色を混ぜたような黒い影が、淀んで動いていた。
「……なに、これ」
理解が追い付かない光景にただ圧倒され、ポツリと頬に雨粒が落ちて、我に返る。
何にしても、僕に出来ることは限られている。
ばぁちゃんに貰った飴を口にしながら、穴に向かった。
すっぱい梅の味が口内に広がり、ゆっくりと深呼吸する余裕をとり戻す。
けれど、穴が無くなることはない。
穴の直径は、並みの家くらいはあるだろうか。近づいても底は見えなかった。
のぞき込むと、穴には下へと続く螺旋上の道らしきものがある。何かの入り口みたいだ。
「呼ばれているってことかな?」
問いかけが、波音に消える。
降り始めた雨に傘をさすと、雨音が弾ける音が、急かしているようにも聞こえた。
◇
――カエシテ。
――カエシテホシイ。
――カエシテ……カエシテ。
底の見えない穴を下っていく。
波音と雨音に混ざって、すすり泣きのような囁きが聞こえる。
冬のカキ小屋の一件と、同じ言葉。
でもあの事件は、こしあんが終わらせたはずだ。
だから僕には、この声が意味するものは分からない。
いつも守ってもらっていたことを実感する。
「返してほしいのは、こっちの方だ」
恐ろしさよりも、少し腹が立った。
ウミガメの贈り物も、呼び声も、係わることを選んだのは僕だ。けれど、そもそも呼ばれなければ、相棒を失くしたりはしなかったかも知れない。
――カエシテ。
人間は、海から沢山のものを奪っている。
海からだけじゃない。僕はそれを知っている。
――カエシテ。
貝ひとつにも、魚一匹にも、感情も命も家族もあるのなら、言われても仕方がない言葉。
――帰さない。返さない。カエサナイ。
――カエシテ。返して。帰して。
――……カカ、カカカカ、カカカカカカ‥…
雨音が増す。傘で防ぎぎれなかった雨粒が首を這う。暗闇が濃くなった気がした。囁きも、言葉になっていない何かに変質している。
飴をひとつ。また梅味だ。
すっぱいと、味わう余裕があればいい。
冷静になるようにと、呑まれるなと、いつもこしあんは言っていた。
「これは、まだ終わってなかったってことなのかな、相棒」
空間が開けたものに変化する。
雨が止み、雪に。
足元からパキリも乾いた音が響き、砂が貝殻に変わっていることに気づく。びっしりと、中身のないカキの殻だ。
飴も、あの時と同じ味だ。
雪が降る、同じ光景。息も白くなって、肌寒い。
──カエシテ。
これも、同じ言葉だ。
たどり着いた穴の底。
僕は、あの冬の日に呼ばれたらしい。
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