ウミガメの贈り物 梅雨

つくも せんぺい

流された名前 前編

 ウミガメの贈り物。


 僕が暮らすこの海辺の町では、砂浜に流れ着くモノを総じてそう呼ぶ。

 物語の一節に出てくるような、ロマンティックな呼ばれ方。

 

 けど、町の人はいう。

 毎日のゴミ拾いを疎かにしないようにという、訓示みたいなものだと。

 海の恩恵を授かっている生きていることを忘れないようにと。


 ウミガメの思考、概念は人とは違う。

 特別な意味なんて持たなくていいと、僕の境遇を知る人は警告する。

 流木や貝殻、空き缶や瓶に入った手紙にぬいぐるみ。

 全てが等しくゴミなのだと。


 まぁ、その警告が僕に届く時、僕はいつも渦中に居たんだけれど。

 けれど今回は違う。始まりは、ばぁちゃんが不機嫌そうに吐き捨てた一言だった。


「アンタの名前、思い出せなくなってるね」


 ……ついにボケたの? なんて冗談は言えない剣幕。


「今度は何を拾って来たんだい?」


 深くため息を吐いて向けられた疑いの言葉を、僕は強く否定した。

 僕はもう、海に行ってはいないのだから。


 ――カエシテ。


 ただ、あの冬に聞いた声だけは、まだずっと聞こえている。





 強く絶え間ない雨音は、どこか荒れた海に似ている。

 たまに轟く雷鳴の距離が、波がぶつかり合っているみたい。


 六月の半ば、遅れた梅雨入りを取り戻すように、空に隠されていた雨水のバケツをひっくり返される日が続いていた。

 海岸の清掃活動どころか、日常の外出すらままならない。

 地方のニュースでも、雨漏りが起きたとしても修理などで屋根に上らないようにと、事故防止を優先して呼びかけている。


 寺もあちこち心配だとばぁちゃんがぼやいていたけど、僕に手伝いを頼んだりはしなかった。

 まだ僕の名前を思い出せず、その原因が海にあるのかも確かめられていない。

 まぁでも海に行くくらいなら、まだ今のままで良いかなと思っていた。


 僕は今日、学校も休校だ。豪雨で警戒レベルが上がり、交通機関の運行が発表されたからだろう。

 もう眠くはないけれど、着替えもせずベッドに寝転がっていた。

 去年までの自分なら、外に出られないのは退屈だと嘆いていたかも知れない。

 けれどいまは、外に出ないで良い理由があると、少し安心している自分が居る。


 町を上げて美化活動をしている海岸も、以降、足が向かなくなっていた。春を迎え、学年も一つ上がったけれど、花を眺めた覚えもない。

 下を向いて、毎日どんな顔で過ごしているかもよく分からない。


 海を見ると探してしまう。

 花を見ると探してしまう。

 波を聞くと探してしまう。


「桜餅も、ちまきも、季節が過ぎちゃったよ……」


 返事はない。

 あるわけない。

 用意したお菓子に、興味津々で振られる尾っぽは見えない。


 僕はまた頭から布団をかぶった。

 指先から甘い匂いがする。

 作り続けてすっかり染みついた、お菓子の香り。

 催促する声は聞こえない。

 けれど、欠かさず供えている。

 自分の家でも、何かしらのお菓子を手作りするようになった。

 おはぎ以外も、味わってほしいと思っている。


 思わずツンと痛んだ鼻を、歯を食いしばって誤魔化す。

 泣くことは許されない。

 懲りろと、何度も言われていたのだから。

 

 そんな懲りるきっかけが、相棒、きみに会えなくなったからだなんて。

 僕は、まだ――。





「おはよう

「おはようございます。……その呼び方、いつになったらやめてくれるんですか?」

「んー、いくつか条件があります。まずは王子が敬語をやめてくれるところから、かな?」

「先輩は敬うものです」

「私は卒業済みだから、あなたの先輩ではありませーん」


 荒天が去った朝。

 僕の気分に関係なく、晴れやかな挨拶が届いた。

 だなんてあだ名のセンスにげんなりするけれど、ここまで会話できるほど回復したことが奇跡と思える人だ。言葉を交わすと僕もなんだか救われる。


さんはもう仕事なんですか?」

「ヒメノさん? 姫でいいよ、王子?」

「呼びません」


 彼女のおどけた口調に、淡々と返す。もう何回したかも分からないやり取り。姫乃ひめの、彼女の名前だ。

 だから僕を王子と呼んでいるのが、理由の一つ。

 助けられた姫を自称するなんて、少し変わっている。


「ふふ、ざんねん。昨日から親方に雨漏りの修理依頼がたくさん来てるの。私は脚立支えるか、荷物出す手伝いくらいだけどね」


 通学路の並びには、まだ朝早いのにビニールシートを屋根に被せてある家が既にあった。けれど、土砂や家屋が崩れるような大きな被害は、幸い無かったようだ。


「作業中なんでしょ? 離れていいんですか?」

「王子だからいいの。親方のところに入ったのだって王子のおばぁさまの紹介だから、ちゃんと分かってもらってる」


 姫乃さんは、僕のばぁちゃんが紹介した建設会社に住み込みで働いていた。

 ペンキが付いたカーゴパンツに、長袖の作業着。

 朝日に照らされる艶のある長い黒髪は一つにまとめられており、耳には小さなクマ形のゴールドのピアスが光っていた。

 制服姿の僕と並ぶとチグハグで目立つけど、もう冬と春の季節分だけ過ぎた時間が、周囲からも見慣れた光景にしてくれている。


「私が助けになれることがあったら、なんでも言ってね」

「こうやって当たり前に話せるようになってくれただけで、充分ですよ」

「それは私が貰ったものだよ。まだ何も返せてない」


 明るい口調で快活な印象を与える振る舞いだが、彼女の黒く長い前髪は瞳を隠している。

 誰かに触れられるのが怖い。誰かと不意に目が合うのが怖い。そう漏らしていたことがあった。彼女に残った爪痕の深さを、僕は知っている。

 誰かに髪を切ってもらうことも、前髪を上げることも、彼女にはまだ時間が必要なんだろう。


「そんなに生きることが怖いなら、自分の好きに塗り変えてしまえばいい」

「……姫乃さん?」


 彼女の口から出た言葉に、どくんと胸が跳ね上がる。

 それは今の僕にとって、痛みを伴う記憶。相棒の言葉だ。


「覚えてるでしょう? が私にくれた言葉だよ。周囲に怯えてばかりだった私に、新しい生き方をくれたの。本当に感謝してる。だから私は、あなたの力になりたい。だってあなたとこしあんは、私を助けてくれた王子様なんだから」


 ずいっと顔を寄せた彼女は、少し顔を傾けて、前髪のカーテンを開いた。瞳が僕と合わさり、瞬きの数で彼女の緊張が伝わってくる。

 彼女の境遇は、僕の現状よりもずっと重いと、僕は思う。だからこそ、彼女の思い遣りが痛いくらいに感じられた。


 ぬいぐるみと同じ、くまのピアス。

 彼女が自分で選んだものだ。

 あの事件からまだ半年くらい。辛いはずなのに、拾うもの、捨てるものを自分でちゃんと選んでいる。


 選ばずに何でも拾ってきた結果、相棒を失った自分とは大違いだ。


「ありがとうございます。大丈夫です。僕はまだ、諦めていません」


 彼女の気持ちに応えるように、強がりでも、精一杯の笑顔を返した。

 けれど、じめっとした潮風と、登校中の男子生徒の声が僕の思考に割り込んだ。



 ――なぁ、海の砂減ってなかった?



 この前のばぁちゃんとのやり取りを思い出す。

 こしあんの不在で目を逸らしていた変化。

 そして、目の前の彼女に聞くことがどこか怖かった一言。


「姫乃さん、僕の名前……分かりますか?」

「どうしたの急に? 王子は王子だよ」

「……分かりますか?」


 おかしそうに笑う彼女を、じっと見つめる。

 すぐに笑うのを止め、彼女は僕から目を逸らした。


「……ごめんなさい」


 やっぱりとため息を吐きながら、僕はまた笑って彼女にお礼を伝えた。

 彼女が異変に気づいていて、それでも隠していた理由は聞かなくても分かる。


「でも、どうして王子だけ?」

「分かりません。けど、行かなきゃいけない場所はハッキリしています」


 見えない波音が、繰り返し聞こえてくる。

 建物に反響して、海がすぐそばにあるみたいだった。


「だから行ってみて、考えますよ。相棒がいないから、気は進みませんけど」


 僕を呼ぶのが、ウミガメか海かは分からない。

 けど、確かに僕はいま呼ばれているのだろう。








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