2
***
目を射るような光で、ディアナはばちりと目を開けた。既に陽は高く昇っているらしく、木の影が短くなっている。
(しまった!)
慌てて起き上がると、何やら香ばしい香りが辺りを包み込んでいる。
「ようやく起きたか」
声の主を見やると、何やら焚火の跡と格闘している。昨晩は勇ましく燃えていた火は、今は炭を残すばかりだ。黒々とした炭火の所々が赤く爆ぜ、まだ火が完全に消えていないことを示している。
香りは、その炭火がこんもりと盛り上がっているところから漂ってきているようである。
ヴィルは長い枝を使って器用に炭火をかき分けると、中からなにやら黒い塊を取り出した。良く見ると、塊は黒こげの葉が固まったもののようである。
「……それはなに?」
問いには答えず、ヴィルは塊をつつく。ふわりと漂う香りに、ディアナはぎょっと目を開いた。
「もしかして……お肉……!?」
「そうだ」
ヴィルは軽く頷く。
「朝に仕留めた兎を仕込んでおいたんだ」
そう言って顔を挙げたヴィルは、ディアナの顔を見て呆れたように笑いを零す。
「まさかとは思うが、菜食主義か?」
「そういうわけじゃないんだけれど」
ディアナは自分の顔に手を当てる。
無論、ディアナとて肉は食べる物であるということは知っている。実際フォルスト村の人たちは冠婚葬祭の日には育てていた家畜を絞め、食すのだということをユリウスから聞いていた。その肉を焼く匂いが塔の中に漂ってきたこともある。
しかし、ディアナ自身は肉を食べたことはない。
塔の食事は、パンとチーズ、それにリンゴ酢。申し訳程度の野菜の煮込みと相場が決まっていた。それ以外のものを口にしたことはなかったのである。
その旨を伝えると、ヴィルの眉はみるみる下がった。
「なるほどな。道理でそんな体をしているわけだ。こんな美味いものを知らないなんて、もったいない」
ヴィルは器用に枝を使い、焦げた葉を一枚一枚はがしていく。
こんがりと蒸し焼きにされた肉に、懐から取り出した短刀を入れれば、透明な肉汁が滴った。ひと口大に切り分けると、ヴィルは枝に肉を指し、ディアナにすっと差し出した。
「体力をつけろ、と言ったな。それにはまず食べること、そして体を動かすことだ」
差し出された枝をおずおずと受け取ると、目の高さに持ち上げてじっくりと見る。
「いただきます」
神妙に唱えて、ひと口、口に入れる。刹那、ディアナは目の前がちかちかと光るような幻覚を覚えた。
口いっぱいに広がる肉汁は、ディアナが今まで食べたどんな食べ物よりも濃厚だった。一度に噛み切れなくて、何度も咀嚼する。噛み締めるほどに力強い味わいが口に広がり、喉をじんわりと焼いていく。
「うまいか?」
ごくん、とようやく肉を飲みこんで、ディアナは胸を撫でおろした。
「……分からないわ。でも、お腹の中があったかい……」
ゆるやかに広がる胃の腑の温かさに、ディアナの目からぽろりと涙が零れる。
ぽろぽろと涙を流すディアナに、ヴィルは苦笑しながら自らも肉の塊を取り上げた。
「食べ終わったら出立だ。ザンクトゥアリウムは距離で言えば遠くはないが、あんたの体力のこともある。追手も探しているだろうし。早めにこの場を動いた方がいいだろう」
昨晩の嵐が嘘のような好天だった。
ディアナは足取りも軽く、おぼつかないながらも男の横を歩いている。
今まで着ていた白い衣はとうに脱ぎ捨て、麻の服と革の靴を身につけていた。
身支度をするようにと言われて差し出されたそれらを見て、ディアナはヴィルにじっとりとした視線を向けたものだ。
「これ、どうしたの?」
受け取った服は、シュナグラントの一般的な村人が日常的に着ている作業用の麻服である。革靴もよく使い込まれているようで、少し持ち上げただけでくたくたになるほど柔らかい。
「あんたの白い服は目立つ。髪までは仕方がないが、せめて印象を変えておく必要がある」
どうやらディアナが眠っている間に、どこからか調達してきたらしい。
「呆れた。本当に泥棒さんじゃない」
「ザンクトゥアリウムへ行きたいんだろう?」
ヴィルは涼しい顔である。くるりとディアナに背を向け、からかい交じりの声を上げたものだ。
「さっさと着替えろ」
どうやら着替えを見ないように配慮をしてくれているらしい。ディアナは吐息をひとつ吐くと、大人しく指示に従った。確かに、茶色みがかった麻服が一般的であるシュナグラントの地で、白い衣はそれだけで目立つ。追手もディアナの白い衣を目印にするだろうし、着替えは必要と言えるだろう。
ごわごわとした麻の服は、ディアナの細い体には大きすぎる。しかし、その大きさがかえって良かったかもしれない。少女の体の線を絶妙に覆い隠した服は、ディアナを少年のような印象に変えてしまう。革靴を履き、紐をしっかりと締めれば、どこにでもいる農民の少年のようないで立ちになった。
変装をとげたディアナを見て、ヴィルは満足そうに頷いた。
「いいじゃないか」
しかし、ディアナはやや不満そうである。着なれない服を着たことで機嫌を悪くしたのかとヴィルが首を捻っていると、ディアナはおもむろにこう言い放った。
「ね、ヴィル、ナイフ持ってない?」
「持ってはいる。が、どうするんだ?」
「いいから貸して」
ディアナはヴィルからナイフを受け取ると、自らの長い銀髪を後ろ手にひっつかんだ。
「おい、まさか」
ざん、と音を立て、ディアナの銀髪が風に舞う。肩より上で無造作に切られた髪が、さらさらと細い首筋にかかった。
「思い切りがいいな」
「やるなら、徹底的に、ね」
にやりと笑うディアナに、ヴィルは苦笑することで答えた。
シュナグラントの民でも、銀の髪は珍しい部類に入る。しかし、髪の長さで受ける印象は大きく変わるだろう。
こうして、儚げな銀髪の囚われの少女は、痩せた農家の少年と姿を変えたのである。
「ザンクトゥアリウムへは、あとどのくらいなのかしら?」
「普通に歩いて一週間、というところだ。しかし、あんたの足があるからな。まあ、半月は見た方がいいだろう」
「やっぱり、そのくらいはかかるのね」
「おい、さっきから口調が変わってないぞ」
しまった、とディアナは口を押えた。
ディアナの見た目は少年のようになっている。それをいいことに、このまま少年として通してしまおうということになっていた。ディアナは口調を改めるようにヴィルから釘を刺されていたのを思い出し、苦い顔になる。
「気をつけてくれよ、ディー」
「うん、わかった」
改めて呼ばれる少年としての名前に気恥ずかしさを覚えながら、ディアナはこくりと頷く。
二人は森の中ではなく、今は街道を歩いている。
姿を隠すなら、このまま森の中を行った方がいい。しかし、歩くことに慣れていないディアナが長時間歩くには、しっかり道のあるところの方がいいはずだ。これは、ヴィルの弁である。
「まずはゆっくりでもいいから、歩き慣れることだ」
ヴィルは慎重に足を運ぶディアナを見下ろしながら、そう言ったものだ。
「いざという時に、走って逃げられるくらいの体力はつけておかないとな。だから、ディー、辛くても歩け」
その言葉には大いに賛成のディアナである。自分自身に極端に体力がないことは分かっている。追われたときに、少しでも逃げられる体力を作っておくことに否はない。
幸い、体は軽い。肉を食べたことで体の中に今まで感じることのなかった熱量が燃えている。
街道は歩きやすかった。むき出しの土は踏み固められ、平らに整備されている。 道の片方は深い森。もう片方は平原になっていた。青々とした草が茂り、爽やかな夏の風がさざ波のように草原を渡る。家畜に食べさせるための草を取りに来ているのであろう、農夫とその子供たちがせっせと草を刈る姿が目に入った。
「この街道沿いに行けば、ザンクトゥアリウムに着くんだね」
「そうだ」
ヴィルは頷く。
「この道はもともとクルトル人が殉教のために作った道だからな」
「そうなの?」
「クルトル人は森と共に生きる民だ。特定の居を構えず、森から森へと移動しながら生活する。だから道というものを持つ必要がなかった」
まっすぐ前を向きながら、ヴィルは言葉を紡ぐ。
「しかし、聖地ザンクトゥアリウムへの道は、作る必要があったんだそうだ」
「なんで?」
「己の足で向かう必要があったからさ」
首を傾げたディアナに、ヴィルは苦笑いを零した。
「小さい子供から老人まで。クルトルの民は生きている限りは歩け、と教えられている。体を自由に使い、地に足をつけて生活することを良しとする民なんだ。ザンクトゥアリウムへの道が整えらえれたのは、体力のない子供や足の弱い老人でも自らの足で歩けるようにするためだ」
ディアナは足元の道に視線を落とした。
「じゃあ、この道はクルトル人の信仰心でできた道なんだね」
その言葉にヴィルは目を軽く見張った。
「信仰心の道か。その考え方はなかったな」
「そう?」
「ああ。むしろ俺には、滅びの道のように思える」
さらりと発せられた言葉に鋭い棘が交じるのを、ディアナの耳は聞き逃さなかった。
思わず問いかけの視線を向けるも、ヴィルにはもう話す気がないようである。
ゆっくりと歩いているためか、道がいいからか、あるいはその両方か。ディアナもそこまで疲れを覚えずにすんでいる。とはいえ無理はするなとのお言いつけである。一刻歩いては休み、を繰り返しているうちに日は中天を過ぎ、ゆっくりと西へと傾きはじめる。
その陽光が緩やかに平原を黄金に染め始めるかというところで、ヴィルは足を止めた。
「そろそろ野営の準備をしよう」
「え!? もう?」
ディアナはヴィルを振り仰いだ。
確かに、日が落ちてきてはいるが、夕方にはまだ早い。少しでも先まで歩いた方がいいのではなかろうか。
そう告げると、ヴィルは緩やかに首を振る。
「野営は森の中でするんだぞ。明るいうちに準備をしなければ命とりだ」
「そういうものなの?」
「夜の森を甘く見るな。暗くなってから準備をするのは素人のやることさ」
(素人……ね)
自分が素人なのは間違いないことである。それに、ヴィルの口ぶりからは、何度も森で野営を経験しているという確かな自負が見て取れた。
「わかった。何をすればいい?」
そう言いながら、二人が森に入りかけたときだった。
ディアナの耳に、聞きなれない音が届いたのである。
(何……?)
急に立ち止まったディアナを見て、ヴィルは訝しげに首を傾げた。
「ディー、何をしている?」
「しっ……」
ディアナはヴィルを黙らせると、耳を澄ませた。
「馬の走る音がする」
「馬ぁ!?」
ヴィルは耳を澄ませるが、彼の耳には何も届かない。ただ木々の梢が騒めく音だけが静かに響いている。問い返すように視線を向けるも、ディアナは真剣な顔で自らの背後の道を睨みつけている。
「うん……少なくとも十頭以上はいそうだけど……」
「おい、冗談だろう? はぐれ馬にしては多すぎるぞ」
シュナグランドの地では、移動手段に使える馬は貴重品でもあり、財産だ。だから馬の所有者は馬をきちんと管理をし、常に大切に取り扱う。まれに厩舎から逃げ出したはぐれ馬が出ることもあるが、十頭以上ともなると話は別だ。
ヴィルは、真剣な顔で耳を澄ませている少女を見ると、その体をぐいっと持ち上げて横抱きにする。
「ちょっと!?」
「いいから、だまれ。もしあんたの言ってることが本当なら、多分、やっかいなことになる」
そう言い終わらないうちに、かすかに聞こえる馬蹄の音にヴィルは舌打ちを漏らした。ディアナを抱えたまま森の中へ入ると、背を低くし身を隠す。
「ねえ、ヴィル?」
「だまれ。そしてあんたも体を伏せろ」
有無を言わさぬ口調に、ディアナは大人しく従った。
ほどなくして、馬蹄の主が姿を現した。その数、十五人。全員が騎馬で、腰に帯びているのはれっきとした剣である。何より、揃いの長衣が彼らの身分を如実に表していた。
(うそでしょ!?)
ディアナは目を見開いた。長衣に咲き誇る、蔓と花の刺繍。ヒューゲル領領主、マルクルの紋章である。
(マルクルさまの私兵じゃない!)
フォルスト村にも何度か来たことがある兵士たちである。その彼らが、なぜこんな街道を走っているのか。考えずとも理由は明白だ。ディアナを探しているに違いない。
(ってことは……もう領主さまのところまで報せがいったの!?)
ディアナが塔を出てからまだ一日しか経っていない。領主に通達が行くとしても、二、三日はかかるだろうと思っていたのだが、目論見は外れてしまったようである。
「いたか!?」
「いや……それらしい人影を見たと聞いたんだが」
兵たちは馬足を緩め、汗をぬぐいながら話している。
「よりによってこんな時に、逃げ出すとは……」
「しかし、ザンクトゥアリウムへ行くという情報は確かなのか?」
「それは間違いないだろう。証言もあることだしな」
この言葉に、ディアナはぴくりと体を震わせた。
(ユリウスだ……)
修道士ユリウスは、ディアナがザンクトゥアリウムに憧れていることを知っている唯一の人である。きっと彼がこのことを領主に告げたのだろう。
「なかなか吐かせるには手間取ったようだが、マルクルさまのお得意のやつが効いたようだ」
兵たちは暗い笑みを浮かべ、くつくつと笑った。
ディアナの隣では、ヴィルが身を固くして耳を澄ませている。
魔眼の娘を連れて逃げ出したとなれば、ヴィルも大罪だ。他人事ではいられないのだろう。ディアナはぐっと握りしめた拳に力を入れた。
もし見つかることがあっても、ヴィルだけは助かるようにしておかなければならない。
「もう少し先へ行っているのかもしれないな」
「ああ。ザンクトゥアリウムへはこの街道が一番早い」
「検問の準備は」
「できているそうだ。ザンクトゥアリウムの丘への道は本日朝に封鎖したと鳥紙を受け取っている」
鳥紙とは、伝達手段のひとつである。訓練した鳥の足に手紙を括りつけ、互いに飛ばしあって情報を伝えるものだ。
「ならばその検問で見つかるやもしれんな」
「我々も急ごう」
「シュナグランドの命運がかかっているのだ、絶対に逃してはならぬ」
兵たちは馬に鞭を当てる。馬蹄の音が遠ざかり、聞こえなくなってからも、二人は森の中から動かなかった。
「……街道は使わない方がよさそうだな」
ヴィルがぽそりと呟く。ザンクトゥアリウムの丘への道が封鎖されたという。おそらく今後は街道も見張られるに違いない。
これほどまで素早く領主が動くとは思っていなかっただけに、ディアナは白い顔を益々白くして俯いた。
「しかたない。森を抜けよう。今日はこのまま野営だな」
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