脱出
1
狭い独房の中で、ディアナは後ろ手に縛られた男と向かい合っている。
お互いを隔てていた壁の穴は広がっている――ディアナが開けたものだ。そこからもそもそと這い出たディアナは、男の正面に座ってことりと首を傾げてみせた。
「驚いた?」
問うと、目の前の男は頭を一つ降ってディアナに向かい合った。
「……当たり前だ」
動揺したことを恥じるようにむっつりと言葉を落とした男は、端正な顔立ちをしていた。
「よかった、言葉は通じるのね」
ディアナはほっと息を吐く。言葉の壁があったらどうしようかと思っていたのだが、その心配はなさそうだ。
改めて、男の姿を観察する。
若い男である。ディアナよりもずっと年上ではあるが、まだ青年と呼ばれる年齢であることは間違いないだろう。黒々とした髪と、意志の強そうな金色の瞳が印象的である。肌は健康的に焼け、筋骨隆々とまではいかないものの、鋼のような鋭さを感じさせる体つきだった。
旅慣れているのだろうか、かなりの軽装であることが気になった。麻の服に革の外套を纏い、ふくらはぎまでを覆う革靴を履いている。そのどれもが酷く痛んでぼろぼろになっていた。後ろ手に拘束されていて見えないが、きっと手のひらはごつごつとしているのだろう。何度も実戦を経験したに違いない、戦士の風格漂う青年である。
(泥棒というよりも、用心棒ね)
ディアナはじっくりと男を観察すると、顔をあげてにこりと笑う。
「早速で悪いんだけど、あまり時間がないのよね。私と取引しませんか、泥棒さん」
「取引?」
男は崩れた壁を一瞥し、ディアナに視線を移した。
「この牢から出る方法、知りたくない?」
「なんだと?」
ディアナはひたりと男の瞳を覗き見る。
「フォルスト村の人たちって悪い人じゃないんだけど、結構頑固だから。泥棒さんが外に出られるの、結構先のことだと思うのよ。特に今はね。領主さまの命令を受けてるから浮足立ってるし。下手したら忘れられて、このままここで死んじゃうかもしれない」
「そんなはずはあるまい。流石に捕らえた者の尋問くらいはするだろう」
反論する男に、ディアナはため息を吐くことで答えた。
「そう思うでしょ? でも、実際にあなたで二人目なの」
「は?」
「先日も、通りかかった旅人がこの塔に収容されたわ。そしてそのまま忘れられて、丁度三日前かしら。衰弱しきった旅人がようやく救出されたのは……」
嘘ではない。盗みの疑いをかけられた男が収容されて、手足を拘束されたまま隣の牢に転がされていたのは丁度一週間前と少し前である。奇しくもその後ディアナの処刑が決まったため、そのまま忘れられていたのであろう。
このままでは男の命が危ない。ディアナは、ユリウスにその旨を伝え、ようやく助け出されたのが三日前の出来事だ。
(まあ、あの人は多分、本物の泥棒さんだったと思うんだけどね……)
だからディアナも積極的に助けることはしなかった。しかし、隣で死なれるのも寝覚めが悪い。
「私、この牢の出方を知ってるの。だから、それを泥棒さんに教えてあげる」
青年の目が大きく見開かれた。その瞳に微かな期待の色を見て、ディアナは心の中で拳を握りしめる。
(やった! 脈ありだ……!)
ここからが肝心である。ディアナはぺろりと唇を舐めた。
「代わりに、私の言うことを一つだけ聞いてほしい。難しいことじゃないと思う。……どう? 泥棒さんにとっても悪い条件じゃないと思うんだけどな」
ディアナは笑う。
「その前に」
男は瞳に警戒の色を浮かべた。
「なぜこの牢の壁は崩れているのかということを聞かせてもらいたい」
「この壁は私が壊したんじゃない。元々こういう作りだったの」
牢の壁は、石を積み上げてできている。その石と石を繋いでいるのは粘土質の土を加工し、固めた物である。本来であれば、しっかり溶接されているその石の壁は取り外しなどできやしない。
しかし、この牢の壁の一部分は、溶接用の土が削られているのである。
ひとつ石を外してしまえば、あとは簡単だ。その下の石のひとつひとつを丁寧に手でどけ、ディアナは牢壁に自分一人が潜れる程度の穴を開けた。そして穴を潜り、隣室に侵入することに成功した、というわけである。
言葉の通り、この壁の仕組みはディアナが自ら手を入れて作り上げたわけではない。
物心ついたときから塔の牢の中で暮していたディアナは、変化に敏感だった。
季節によって多少の違いはあるものの、牢は一定の気温や湿度が保たれている。だからこそ、空気の動きや匂いが変われば、ディアナにはすぐに分かるのだ。
ディアナの鼻は空気の流れを読む。耳はどんなに小さな音でも聞き逃さない。だから彼女がこの抜け道を見つけたのも、単なる偶然ではなく必然である。
「私がもっと小さいときにね、細く風が通るような音が聞こえたの。音の出所を探したら、この石壁の継目から聞こえてくるじゃない。しかも、しっかり塞がれているはずの壁から空気の流れを感じたわけ。だからちょっといじってみたら、ここの石が抜けることに気づいたのよ。きっと私の前に牢に入れられてた人が、逃げようとして継目を地道に削ったんじゃないかしら」
小首をかしげて話すディアナを見て、男は気を取り直すように小さく息を吐いた。
「……あんたの言う、取引とはなんだ」
「うん。あのね」
ディアナは息を吸った。
「私をここから連れ出してほしいの。そして、聖域――ザンクトゥアリウムまで連れて行ってほしい」
男は今度こそ目を見開いた。
「ザンクトゥアリウム……? クルトルの聖域に?」
「そう」
ディアナは頷く。そのままゆっくりと立ち上がると、格子の嵌った窓から外を眺める。緑の海に浮かぶように建つ、ザンクトゥアリウムの真珠色の柱が見えた。
「一度でいいから、あの聖域に行きたいの。それが私の望みであり、取引内容よ」
「でも、あんた。いいのか」
「どういう意味?」
「その瞳だろう。あんたがここに閉じ込められている理由は」
男の言葉に意味深な響きを感じ取り、ディアナはふうっと息を吐いた。
「シュナグラントの伝承を知ってるのね」
くるりとふり返ると、ディアナは男に向かって前髪を挙げてみせる。男の息を呑む音が聞こえて、ディアナは自嘲の笑みを浮かべた。男の反応は、ディアナの瞳の意味を知っているということを如実に表している。その事実にほんの少し残念な心持ちを覚えながら、ディアナは言葉を落とした。
「その通りよ。私は魔眼の主なの」
何かを告げようとしたのだろうか、男は躊躇いがちに口を開いた。しかし、声は発さない。そのままむっつりと黙ってしまう。
ディアナはもう一度窓の外に目を向けた。
「生まれてすぐにこの牢の中に入れられて、この窓越しの景色だけが私の宝物だった。もうすぐ私は処刑される。だったら、その前に、この目でザンクトゥアリウムを見ておきたい。それさえ叶えば、私は……」
陽光に照らされた柱が、ディアナを呼んでいるかのようにきらきらと光っていた。まるでザンクトゥアリウムがここに来い、とディアナに語り掛けているかのように。
死が怖くないかと問われることがあった。巡回の村人に嘲笑されながら、あるいはユリウスに試されるように、何度となく繰り返される死への質問に、ディアナはいつも首を傾げて答えていたものだ。
自分は生まれながら、若くして死ぬ運命にあるものだ。
いつか処刑されることが分かっているのに、怖がるなどおかしいだろう。
しかし、いざその時が迫るにつれ、ディアナの心に別の感情が湧き上がる。
煮込みの野菜が少なくなったとき。チーズの切れ端が小さくなったとき。いよいよ迫る死を前にして、ディアナは窓の外を見る。
深い緑の海の中で光り輝くザンクトゥアリウムの石柱は、ディアナの希望だ。いつだって美しく、きらやかに、誇らしく立つその姿にどれほど勇気づけられたかしれない。
行きたい。あの地へ。
死ぬ前に、あの地へ行きたい。
なぜディアナがザンクトゥアリウムにこれほど惹かれるのか、彼女自身にも分からない。理屈ではなかった。ディアナの心の奥底から、枯れることのない泉のようにこんこんと湧き出るのである。
ザンクトゥアリウムへ行きたい。行かなければならない。
「どうせ私は死ぬのだから、最後くらい、わがままを通したい」
ディアナは拳を握りしめる。
「私がこの塔から逃げたら、きっと懸賞金がかけられるはずよ。だからあなたはザンクトゥアリウムまで私を連れて行って、そのまま私を領主マルクルさまの館に連行すればいいの。そうすれば、まるっとお金も手に入る。どう? 条件は悪くないと思うんだけど」
男は沈思しているようだった。黒い髪の毛を片手でかき上げ、ディアナの言葉を反芻しているように見える。
「もうひとつ訪ねたい」
慎重に、男は口を開いた。
「あんたは牢の出方を知っているという。そしてザンクトゥアリウムに行きたいという願いを持っている。にもかかわらず、この牢に囚われ続けている理由が知りたい。出方を知っているのなら、さっさとこんなところから出てしまおう。そうは思わないのか」
「勿論、考えたわ。でも無理」
「なぜ」
ディアナは自嘲の笑みを浮かべた。
「私はそこまで無謀でもないし、お馬鹿さんじゃないの。自分にできること、できないことくらい判断できるつもり」
そう言いながら、ディアナは自らの掌を眺めた。
「ユリウス――私の世話をしてくれる修道士だけど、その人から伝道師の話をよく聞いたわ。あの人たちは何日もかけて、国のあらゆるところを回るのだそうね。伝導に出る前には体力づくりが大切なのですって」
ディアナは息を吐いた。
「私はこの塔以外の場所を知らない。ザンクトゥアリウムまで、どのくらいの距離があるのかも私は知らない。それに、私はきっと体力もないでしょう。もしかしたら、人並みに歩くこともできないかもしれない。牢の出方を知っているだけでは、ザンクトゥアリウムまでたどり着くことは不可能なのよ」
ディアナが今まで行動を起こさなかった理由の最たるものが、自身の体力だった。限られた場所だけで動き、限られた物しか口にしない。牢の部屋の中と、寝台を行き来する生活で、培われた体力など微々たるものに違いないのだ。その自分が、どれ程の距離を歩くことができるというのであろうか。
牢から脱出しておしまいではないのだ。ザンクトゥアリウムまで無事にたどり着かなければ、意味がない。
だからこそディアナは機会を伺っていたのである。
ザンクトゥアリウムへ自分を連れていってくれる、できれば腕の立つ、物分かりのよさそうな人を、ずっとディアナは待っていた。
言うべきことは全て伝えた。あとはこの男の出方次第だ。そろそろ戻らないと、昼になってしまう。昼には一度巡回が入るはず。村人たちに、壁のことを知られては一大事だ。
ディアナは壁の穴を潜ると、自らの牢に戻った。目を丸くする男の前で石をひとつずつ、元のように組み上げた。
最後のひとつを嵌めれば、元の壁となる。そこまで組み上げると、ディアナは穴越しに男に告げる。
「もし私と取引してくれる気になったなら、日が完全に沈んだ後にこの石を外して。押せばすぐに外れるわ。手が縛られてても問題ないはずよ」
「……もし嫌だといったら?」
「その時は、諦めて処刑を待つわ」
そう言い置いて、ディアナは最後の石を穴にはめ込んだ。
男の顔が見えなくなって、ディアナは息を細く吐き出した。
冷汗が額から頬へと流れる。その汗を手の甲でぐいっと拭って、ディアナはそっと寝台へと向かった。
丸めて置いたままになっていた毛布を取り出し、そのままばふっと寝転ぶ。大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出した。
(手……震えてる)
ユリウス以外の人と話すのは久しぶりだったのだ。無意識のうちに緊張していたのであろう。
(あとは、あの人の覚悟を待つだけ……)
ディアナはそのまま眠りについた。
人と話すことは疲れる。牢の壁の石を外し、元のように積み上げるという作業もあり、ディアナの体力はほとんど残っていなかったのである。
こんこんと眠り、ぱちり、と目を開けると、橙色の光が部屋に差し込んでいた。日暮れまで寝てしまっていたようである。
ディアナはひとつ伸びをすると、水差しから少しだけ水を手に注ぎ、顔を洗った。朝食の残りを取り出し、固くなったパンにチーズをのせて口に含む。いつもよりも遅い時間に手を付けたのは、ここから先を乗り切るためだ。
ディアナは普段から夕食を取らない。だから、これがこの塔で食べる最後の食事になるのかもしれない。
(あの泥棒さんが、覚悟を決めてくれたら……だけれどね)
もそもそと口を動かしながら、ディアナは朝食の残りを食べ切った。
日はゆっくりと沈み、格子ごしに見える空に星が瞬きはじめる。ディアナは朝にとっておいたリンゴ酢の瓶を取り出し、栓を開けた。
爽やかな酸味のある香りが、ディアナの鼻腔を擽った、その時である。
ディアナの耳が、音を拾った。
息をつめて、ディアナは隣室の壁を見つめた。果たしてその壁から石のひとつがごとん、と落ちる。
ディアナは震え始めた身体を落ち着かせるように、深く息を吸った。興奮が、体中を駆け巡る。木々の梢を渡る風のように広がった興奮に身を任せたまま、ディアナは隣室の壁にそっと近寄ったのである。
壁の穴ごしに、ディアナは男の姿を見た。
「取引成立だ」
黒い髪に、金色の瞳。その瞳に強い意志の光を浮かべて、男は不敵に笑っていた。
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