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日が完全に落ち、暗闇が辺りを包み込んでいる。牢の壁に掛けられている吊り燭台の、かすかに揺れる蝋燭の明かりだけが頼りである。
ディアナは再度自らの毛布を丸めると寝台に置き、人型になるように調整した。脱出は、隣の男の部屋から行う。フォルスト村の人たちは男のことを大して気には留めていない。この時期に、困ったことだとは思っているものの、それだけだ。取り立てて様子を見に来ないあたりにも、この男への関心が薄いことが示されている。万が一男が脱出したとしても、事を荒立てたりはしないだろう。
しかし、ディアナが脱走したとなれば話は別である。それこそ村総出で、血眼になって探し出すに違いない。だからこそ、少しでも脱出の発覚を遅らせておきたいのである。
壁に穴を開け、ディアナは籠を抱えて男の牢に移動した。そうして元の通り石を積み上げ、痕跡を消す。既に疲労感を覚えていたが、ここで寝入るわけにはいかなかった。
「で、どうやってここから脱出するんだ?」
男はディアナのやることに一切手出しはしなかった。ただ黙って壁を潜り抜け、再び壁を積み上げる様子を眺めていたのである。
「この塔は三階で、窓には格子。巡回の村人もいるだろうし、夜間は外に見張りも出ているだろう」
ディアナは唇をひょいと持ち上げて笑った。
「ちょっと待ってね。まずはその縄をなんとかしましょ」
そう言いながら、ディアナは壁の吊り燭台に手を伸ばす。灯されている蝋燭をえいやと取った。
「後ろ向いて。熱いかもだけど、我慢してね」
おとなしく後ろを向いた男の縛られている手に、ディアナは蝋燭を近づける。
じじっと音がして、縄が焼け切れる。自由を取り戻した男は軽く手を振り、感触を確かめるようににぎって開いてを繰り返した。
「助かる」
「どういたしまして」
蝋燭を元の場所に戻しながら、ディアナはくすりと笑みを零した。
「で、脱出方法なのだけど」
「ああ」
「実はね。その格子、すぐに外れるのよ」
男は目を丸くすると、大股で窓に近づいた。慎重に格子を手で握り、揺らす。
「腐ってる……」
窓にしっかりと嵌っているはずの格子の根元が、ぼろぼろに腐食しているのである。
「毎晩、その格子にリンゴ酢をかけておいたの。どう? いい感じでしょ」
そう言いながら、ディアナは籠の中からずるずると布を取り出した。
「それは?」
「捨てる予定だった私の服よ。ユリウスに言って取っておいてもらったの。裁縫の練習をしたいって言ったら、あっさり許してもらったわ」
服はあらかじめ縫い目を外してある。大量の布を細くより合わせると、簡易的な縄ができる。その縄に水差しから水を注ぎ、湿らせれば十分な強度が出るはずだ。
「これを使って下まで降りましょう」
「随分と用意周到だな」
呆れたように男は笑った。
「勿論よ。だって私、ずっとこの時を待っていたの」
ディアナも笑い、すっと顔を窓に向ける。
「巡回の村人も、夜間の見張りも、もうそろそろいなくなるわ」
「なぜわかる?」
「雷が来るからよ」
ディアナがしれっと口にした言葉に、男は訝しげに眉を上げた。そのまま流れる動作で窓の外を見て、呆れたように顔を戻す。
「星が出ているが?」
「今はね。でももうすぐ雷が来る」
日が落ちきった空には星が瞬き、煌々と月明かりが差し込んでいる。気持ちの良い夜風は、とてもではないがこの後荒天になるとは思えないほどの穏やかさだ。
「この村の人たちは、雷の時に外に出るようなお馬鹿さんはいないの。だから見張りは早々に家に戻るでしょうし、巡回は時間が決められてる。夜明け前までは動かないはずよ」
眉を寄せる男の顔を一瞥して、ディアナは笑った。
「信じられない?」
「ああ。……だが、あんたが嘘を言っているようにも思えない」
「本当? 嘘じゃないって思ってくれるの?」
そう言うと、男は厳しい顔のままディアナを見つめる。前髪で隠された瞳の奥まで見通されるかのような、鋭い視線だ。
「準備の仕方が適格だからな。頭がまともじゃなければできないことだ」
リンゴ酢で金属を腐食させ、脱出用の縄の調達をする。頭がしっかりしていなければ思いつかない方法である。
「だから、判断をしかねている。天候を当てることは俺も多少できなくはない。雲の色や形で雨の降り具合を測ったり、吹く風の向きで明日の天候を予測したりするのは自信がある。しかしここまで晴れているところから、雷が来るといわれてもな……」
むっつりと言葉を落とした男に、ディアナはにやりと笑って見せた。
「私には分かるの。朝になれば日が昇り、夜になれば月が出る。それって当たり前でしょう? 天候を当てるのは、私にとって朝日や月が昇ることとおんなじ」
「随分と自信があるんだな」
「自信じゃないの。ただ、分かるだけ。――ほら、聞こえるでしょ?」
その言葉を口にした瞬間、吹き込む風の種類が変わった。あれほど穏やかだった風が、急に冷たく温度を下げていく。びょう、と拭いた風はディアナの前髪を大きく揺らし、秘められた双眸がきらりと光る。
男は窓に歩み寄り、息を呑んだ。急速に膨れ上がった黒雲がみるみる頭上を覆いつくし、ごろごろと轟くのは確かに雷鳴である。
「来た!」
ディアナも窓に飛びついた。
一粒聞こえた雨粒の音は、たちまち幾筋もの流れとなり、激しく地面を打ち鳴らした。
ディアナは口角を上げる。いよいよだ。この時が来た。怖くて、怖くてたまらないはずなのに、ディアナの体は歓喜に打ち震えていた。
「本当に雷が来るとは」
呆れた声で男が肩を竦めた。
「なに、信じてなかったの」
「信じられるか。さっきまで星が瞬いていたんだぞ」
風に煽られて、ディアナの前髪が躍った。その奥に秘められた双つの輝きが、きらきらと男の顔を映し出している。
「しかし、大丈夫か? この嵐の中を逃げるとなると、酷だぞ」
叩きつけるように降る雨を見て、男は眉を寄せる。
「俺だけならともかく、あんたを庇いながらこの雨風の中を行軍するのは無茶だ」
「問題ないわ。この嵐はすぐに収まるの。だからじきに晴れるはず」
ディアナの言葉に、男は口を噤んだ。探るようにディアナの瞳を見つめると、諦めたようにと息を漏らす。
「とことん常識が通用しないな」
「そんなことよりも、早く。この雷は数刻しか持たないんだから」
言いながらもディアナは窓にはまった格子を握りしめ、上下に揺らしてがぽっと外す。あっけなく外れたその格子を床に置き、独房の入り口、扉の取手に用意の縄をしっかりと括りつけた。何度か引っ張り、強度を確認する。
「準備万端!」
男はやれやれといわんばかりに唇の端を持ち上げた。
「この塔に収容されたときは、正直とんだへまをしたとばかり思っていたが」
「なに?」
突然の男の言葉に、ディアナはこてんと首を傾げる。
「あんたがこの塔にいたこと。俺がこの塔に収容されたこと。そしてあんたが聖域に行きたいと言っていること。これが偶然なはずがない」
「なに、言ってるの?」
「これも導きだ。俺たちは大地の神に祝福されている」
そうきっぱりと言い切ると、男はニヤリと笑ってみせた。
「そう言えば、まだ名乗っていなかった」
男は縄を掴むと、にやりと笑った。
「俺はヴィルだ」
「ディアナよ」
名乗り返す。言葉はこれ以上いらなかった。
ヴィル、と名乗った男は不敵な笑みを浮かべながら、自ら先に窓の外へと躍り出る。
ディアナはどきどきと高鳴る胸を押さえ、自らも縄を握った。
風がディアナの長い銀髪を巻き上げ、雨が雪のように白い肌をしとどに濡らしていく。その感触すらも新鮮で、ディアナは湧き上がる気持ちのまま、窓の外へと飛び出した。
きりきりと縄が舞う。衣一枚のディアナの体は途端に濡れ鼠となり、手にした縄が滑らかな掌を容赦なく傷つける。
風に煽られ、ディアナの体が大きく揺れた。耳を劈くような音とともに、目を雷光が焼いた。縄を持つ手は痺れ、下降するたびに掌の傷が開いていく。
予想していたことではあったが、想像以上の負担がディアナの体を苛んだ。
くらくらとする頭を必死に働かせ、地上までの距離を測る。ディアナの体は、まだ二階にも到達していない。
(どうしよう……!)
煽られる風に飛ばされないようにするだけで精いっぱいで、ディアナは宙づりのまま降りることすらままならない。しかし、このままぶら下がっていても落ちてしまうのは時間の問題だ。
「手を放せ!」
一足先に下に降りたヴィルの叫び声が耳に届く。
「そのままだと腕がやられるぞ!」
「でも……!」
そう言われて、素直に手を放せるような高さではない。
「大丈夫だ!」
眼下の男は、不敵に笑っていた。激しい雨風が男の黒髪を嬲る。風が唸りをあげて襲い掛かっているのだ。しかし、男はびくともしない。たたらを踏んでもおかしくないほどの暴風の中で、ヴィルは巌のようにゆるぎなく大地に足を降ろしていた。
「あんたひとりくらい何とでもなる! いいから来い!」
金色の瞳が暗闇の中できらりと光る。縄にぶら下がるディアナを見捨てて一人でも逃げることができるのに、男はその場を動こうとはしなかった。
ディアナは覚悟を決める。意を決して縄から手を放した。
浮遊感。次いで訪れる、はらわたが引きずり出されるような不快な感覚がディアナを襲う。
永遠にも感じられたその不快感は、衝撃と共に消え失せた。男の逞しい腕はディアナの体を地面には落とさなかった。しっかりと抱きとめられ、ディアナはすっぽりと男の腕に納まっていたのである。
「よくやった。よく飛べたな。行くぞ!」
ディアナを横抱きに抱えたまま、ヴィルは雨風の中を走る。
見る見るうちに遠ざかっていく塔を見て、ディアナは胸の奥からこみ上げてくる感情を抑えることができなかった。
ぼろり、と頬を伝うのは、雨粒ではない。
塔の中で一生を過ごすのだと思っていた。このまま機会を与えられることもなく、ザンクトゥアリウムへの憧れだけを胸に、魔眼と共に死ぬ運命なのだと思っていた。
いつか行きたい。
あの真珠色の柱が色を変え、煌びやかに輝くさまを目の前で見たい。
その願いが叶う日など、来るわけがないのだ。毎晩毎晩リンゴ酢を格子にかけていたときも、ユリウスを騙して縄を用意していたときも、ディアナの心の中は諦観で満たされていた。
どうせ、叶うこともない夢。しかし、諦めたくもなかった夢。
せめていつでも抜け出せるように算段をしておくことで、かすかに灯った希望の火を絶やさないようにしていたのである。
しかし、機会は訪れた。
今、ディアナは外に出て、頼もしい腕に抱かれ、一路森の奥を目指している。
(夢じゃない……)
喉元からせりあがる感情のまま、ディアナは嗚咽を漏らした。
(これは、夢じゃないんだ!)
涙を流すディアナに気づかないわけはないだろうに、ヴィルは一切言葉を発しなかった。
「ざまあみろ!」
従順なふりはもうおしまいだ。自分は一時自由になる。自由になって、そして――。
(行こう、ザンクトゥアリウムへ!)
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