クルトルの王
1
嵐の中を走ったヴィルは、雨脚が弱まると同時に足を緩めた。ほどなくして雨が止むと、そのまま大きな木の下へと入り、ディアナを木の根元に下ろす。
少女を抱きあげたとき、そのあまりの体重の軽さにヴィルは悟った。このディアナという少女は、見た目以上に衰弱している。生まれてからずっとあの塔で育ったというが、おそらく生かさず殺さずの待遇を受けていたのだろう。意志の強い瞳や強気な物言いで気づかなかったが、あのまま塔にいても長くはなかったのだろうと推測がつく。
雨に打たれた少女の体は冷え、かちこちに固まってしまっていた。本当はもう少し離れてから休みたかったのだが、これ以上はディアナが限界だ。
既に雷の音は聞こえない。嵐は去り、代わりに星空が瞬いている。
「大丈夫か」
声を掛けると、ディアナは縫い付けられたようになっていた口を辛うじて開いた。
「……結構、駄目かも」
「だろうな」
ヴィルは苦笑し、べっとりと水に濡れた黒の髪を振った。巻き散らされた水滴が星灯りに照らされてきらきらと輝いている。ディアナも震える手で自分の銀髪をぎゅっと握り、ざっと水を落とした。
「雨に降られるのって、想像以上に苦しいことなのね……」
全身を叩きつけられたかのような雨は、ディアナの体力を容赦なく奪った。自ら歩いたわけではないのに、立ち上がる気力すら残っていない。
「今日は仕方がないとしても、あんたは少し体力をつけた方がいいな」
「そうね……」
人ひとり抱えて走ったというのに、ヴィルは涼しい顔である。
「ちょっと出てくる。ここで待っていられるか?」
「どこに行くの?」
「すぐに戻る」
言い残して、ヴィルは森の奥へと分け入ってしまう。
ディアナは息を吐き、木の幹に体を預けた。
シュナグラントの森は音で満ちている。
深い森林地帯であるこの土地の夏は短い。短い夏を逃してはならじと、あらゆる生き物たちが動き出すのである。
そこかしこに生きている者たちの気配を感じ、ディアナは感嘆の息を吐いた。
フォルスト村から標高が下がったからか、生えている木も様子が違う。ディアナが塔の窓から見下ろしていた森林のどこかにいるのであろう。枝張りのよい木々が林立していた。
見上げれば、大樹である。先程まで滝のような雨を降らせていた雲は晴れたようで、今は青々とした月の光が静かに木々の梢に宿っていた。黒々とした枝の隙間から見えるのは降るような星空である。雨上がりの濃厚な土の匂いと、草の青々とした香り。森の奥から聞こえる鳥や虫の声に耳を澄ませる。
ぐったりとした四肢を投げ出しながらも、ディアナの心は揺れていた。
ついに塔から抜け出せたのだ、という興奮と、取り返しのつかないことをしてしまった、という罪悪感が、少女の胸を苛む。
雨も止んだ。夜の闇が少しずつ薄くなっていくところをみると、そろそろ夜明けも近いはずだ。巡回の村人は、自分たちの姿が消えていることに気づいただろうか。
もし自分がいなくなったと知れたら、村人たちは領主マルクルにどんな目にあわされるのだろう。ユリウスもそうだ。ディアナの世話役だった彼は、もしかしたら脱出の手助けをした疑いを持たれてしまうかもしれない。よしんばそれを免れたとしても、責任を問われることは間違いないだろう。
(あんなに、良くしてくれたのに……)
お役目だから、という大義名分があったにせよ、ユリウスはディアナのことを大切にしてくれていたのだと思っている。
家族を知らないディアナにとって、ユリウスだけが心の許せる人だった。閉じ込められていたディアナと外を繋ぐ、唯一の人でもあった。その恩人を、自分は裏切ったのだ。
そわそわと暴れ出した心を宥めるように、ディアナは自らの胸に手を当て、息を吸う。
きっと、自分は沢山の人に迷惑をかけてしまうことになる。それでも、行くのか。
今からでも戻った方がいいのではないか。
(ただでさえ、迷惑をかけているのに)
魔眼を持つディアナはこうして生きているだけで、じわじわとシュナグラントの地を滅びへと導いてしまう。こんなわがままな振る舞いをして許されるわけがない。
それとも、この湧き上がるザンクトゥアリウムへの憧れが、魔に魅入られているという証になるのだろうか。
「百面相か?」
呼びかけられた声に、ディアナははっと目を瞬かせた。
いつの間にかヴィルが戻ってきている。両手に抱えられるだけの木の枝を持ち、面白そうにディアナの顔を覗き込んでいた。
「……ヴィル?」
「なんだ」
「あなた、何者なの?」
ディアナは目を見開き、目の前の男を見る。
「随分と大仰な問いだな」
「だって、あなた、足音を立てなかったわ」
「あんたが聞き逃したんじゃないのか」
「そんなはずない」
ディアナは首を振る。
長い間塔で暮していたからであろうか、ディアナの聴力は普通の人の耳よりも鋭い。変化に乏しい生活の中で身につけた、ディアナの特技のひとつだった。
「私、耳はいいの。なのにあなた、全然音を立てなかった」
「そうか。意識していなかったが、これからは気をつけよう」
随分と曖昧な物言いである。
ヴィルは苦笑すると、手にした大量の枝をディアナの前に置き、組み合わせた。外套から二つの石を取り出し、何度かこするように打ち付けると火花が散る。雨に打たれて濡れているはずの枝だ。火を着けるのは困難なはずなのに、苦も無く枝は燃え上がった。
あっという間に焚火の出来上がりである。
ぱちぱちと爆ぜる火は、温かくディアナの体を溶かしていく。凝った四肢に力が戻っていくようで、ディアナは思わずほうと息を吐く。
「朝になるまで体を温めておこう。体が濡れていると、余計体力を使うから」
そう言う男は疲れとは無縁の表情をしていた。恐らく、ヴィルは、ディアナのために火を焚いたのだろう。
「……ありがとう」
ディアナの礼に、男は眦を緩ませることで答えた。
「このあたりの森は良いな」
「良い……?」
「ああ。焚きつけに適した枝が良く手に入る」
そう言うと、ヴィルはまだ火がついていない枝を手に取り、ディアナに差し出した。慌てて受け取り、じっくりと枝を観察する。
何の変哲もない、いたって普通の枝である。しかし、ディアナの鼻はその枝に微かに漂う嗅ぎなれない匂いに気がついた。
「なにか、不思議な匂いがする……。甘い香りね」
「良い鼻だな」
男はにやりと笑う。
「その甘い匂いは油の香りだ。この枝は元々油分を多く含んでいる。だから雨に濡れていても火が着きやすい。もっともそれだけではあっという間に燃え尽きてしまうから、他にも枝を組み合わせる必要があるが」
「へえ……」
「この森は、生き物の気配も多い。大地が豊かな証拠だ」
そう言って、ヴィルは木の幹のふもとに体をごろりと投げ出し、ディアナの顔を一瞥した。
「煮え切らない顔だな」
「……そうかしら」
「難しいことを考えている暇があったら、目を閉じて少し寝ろ。陽が昇ったらすぐに移動するぞ」
ヴィルはそのまま目を瞑った。ディアナも男に倣い、目を閉じる。自分が思っている以上に体はくたびれ切っていたようで、泥の中に沈むかのような眠気がディアナの体に覆いかぶさっていく。
遠くで、獣の吠える声が聞こえた。ひとつ、ふたつと数えているうちに、ディアナはすっと意識を手放した。
ぱちりと目を開けたヴィルは、そっと起き上がると木の幹に体を預けた。自らが率先して眠りにつかなければ、この少女は気を使って体を休めようとしないだろう。だからこそ目を瞑りはしたものの、はなから眠るつもりはなかったヴィルである。
少女の疲労は思った以上に溜まっていたようである。すやすやと寝息を立て始めたディアナの顔を見て、ヴィルはくすりと笑みを零した。
魔眼の主。
シュナグラントの地で、その瞳を持つ者がどんな宿命を負わされるかを彼は知っていた。どうやらこの地の伝承では禍々しく伝えられているらしく、この少女も頭からつま先までその伝承に染まっている。
本当に自分が魔に魅入られていると思っているらしい。
(馬鹿馬鹿しい)
ヴィルは傍らで寝息を立てている娘を見やる。
炎の赤に照らされて、病的にまで白い頬に影が落ちている。生まれたときから迫害され、投獄されて、それが当たり前になってしまっている哀れな娘だ。
「魔に魅入られた者……か……」
ヴィルの目の色が深くなる。
枝を手に取り火にくべながら、星空の色が少しずつ薄れていくのをぼんやりと眺めていた。
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