魔眼の娘

1


 シュナグラントの国土はそのほとんどが森林と丘で構成されている。深い緑に埋もれるようにして村や町が点在し、国民の営みを管理するための領が設けられていた。

 

 その複数の領のひとつにヒューゲル領があった。ヒューゲル、とは丘を意味する言葉である。いくつも連なる丘の上……いや、もはや崖と言ってもいいだろう、眼下に森を一望できるほどの高地に慎ましやかにあるのがフォルスト村である。


 森林地帯であるこの土地も、この村のあたりまでくると高い木はあまり生えない。辛うじて人の背丈と同じくらいの高さの灌木が斑に生え、高地特有のひんやりとした風が、岩にこびりつくように生えた草を微かに揺らしていく。

 ほとんどが岩でできた、痩せた土地である。

 僅かに残った土の部分は余すところなく開墾され、畑が作られていた。しかし、日々の食糧を賄うので精いっぱいで、蓄えを作るほどの余裕はない。そのかわり、家屋ではそれぞれ大なり小なり家畜が飼われているようだった。


 夏の夜。

 高地の夏は、平地のそれよりも涼やかである。木々を渡る風が、昼の内に熱せられた空気を攫って山下へと運んでいく。柔らかい草で萌えた丘は夜露に濡れ、吹き下ろす風で地面を冷やしていく。

 家畜たちの騒ぐ声で、少女は目を覚ました。

 むくりと寝台から体を起き上がらせ、そっと周囲を伺うようにする。


 深夜である。格子の嵌った窓からは、くっきりと明るい月の光が石畳の床に差し込んでいる。その月の光を辿るように、少女は細い足をそっと石畳の床に乗せた。

折れそうなほど細い足だ。いや、足だけではない、少女の体を構成するほとんどは、まるで造り物のように細く頼りない。

 十七という歳に対して、少女の体つきはまるで十三、四の子供である。簡易な白い衣に包まれた体には厚みがない。薄い胸とひょろりと伸びた首。白い顔は細長く、少女らしい丸みを感じられないほど痩せ細っていた。

 しかし、病的な見た目に反し、その表情は抑えきれない好奇心できらきらと輝いている。


 少女の名を、ディアナという。

 

 フォルスト村の奥深くに、ひっそりと建つひとつの塔。その石造りの堅牢な塔に、生まれながらにして幽閉されている少女ディアナのことは、村人全員が知っていた。しかしその名を直に呼ぶ者は少ない。


 ――魔眼の娘。


 村人たちは少女をそう呼んでいたのである。


 立ち上がった少女の病的にまで白い首筋に、銀色の長い前髪が流れ落ちる。その前髪をかき分け、少女はゆっくりと窓に近づいた。

 騒ぎはより一層大きくなる。村人たちの怒号が聞こえ、ディアナはびくりと体を震わせた。

 息を殺し、そっと窓から眼下を見やる。

 村人たちが数人、この塔に向かってきているのが見える。手にたいまつを持ち、しきりと怒号を上げながら一人の男を取り囲むようにしている。

 その男の体には縄が打たれていた。

(ははあ……)

 ディアナはひょいっと顔を引っ込めると、寝台に潜り込み、薄い毛布を頭からひっかぶった。

 果たして、男はこの塔に収容されたようである。

 荒々しい足音と怒号が石造りの廊下に反響し、ディアナの耳を容赦なく殴りつけていく。

 まだ若い、村の男と思われる声が高らかに壁に反響した。

「さっさと歩け、この家畜泥棒め!」

 打擲の音が響く。しかし、泥棒、と呼ばれた男は小さく唸り声を上げたっきりだ。

「殴られても喋りもしねえ。ふてえ野郎だ」

「その辺にしとけ」

 もう一人の村男が若い村男をたしなめる声が聞こえた。

「あまり痛めつけて、死なれても困る。今は面倒を起こしちゃいけねえ」

「ふん、命拾いしたな、下種野郎」

 乱暴な足音がディアナの独房の前を大きく通り過ぎ、同時に隣の独房の開く音が聞こえた。続けて人の倒れる重そうな音が聞こえ、錠前が下りる音が響く。例の男は隣の独房に入れられたのであろう。

 村人たちは足音を荒立てながらディアナの独房の前を通り過ぎ、一度止まった。

 独房の扉は開閉式の窓がついている。外から中を覗き込めるようになっているのだ。その窓ががたっと開く音がして、ディアナは毛布の中で身を縮めた。

「異常なし、だな」

 もう一度すっと音を立てて窓が閉まる。

「この子供はいつもそうさ。何にも動じやしない。あの目といい、態度といい、気味が悪いったら」

「そう言うなよ。もうすぐマルクル様の元に届けにゃいかん。俺が護送することになるかもしれないんだぞ」

「違いない。魔眼には気をつけろよ」

 笑いながら塔を降りる村人たちの足音が十分に遠くなったことを確認し、ディアナはもそもそと毛布の中から身を起こした。

 足音を殺してぴとりと壁に張り付き、耳を澄ませる。

 隣に入れられたはずの男は、静かだった。暴れもしなければ喚きもしない。突然独房に入れられた者としては落ち着きすぎている、とディアナは思った。

 ぼそぼそと呟く声は祈りの言葉のようだ。漏れ聞こえる声は注意深く潜められていたが、ディアナの特別仕立ての耳の前では無力である。

 聞き覚えのない言葉の響きに、ディアナは胸をときめかせる。

(……この国の人じゃないんだ)

 益々好都合である。ディアナの鼓動が速度を速める。逸る胸を押さえ、窓格子の前に立った。


 外を覗き見ると、見慣れた風景である。


 どこまでも続くかと思われる森林が眼下に広がっている。月の青い光がしんしんと森に降り注ぎ、世界を青に染めている。その森林を抜けた先、ひとつ飛び出た丘の上に立つ乳白色の石柱が、月に照らされて光り輝いていた。

(……聖域、ザンクトゥアリウム)

 ザンクトゥアリウム。その地は、かつてこの森の主だったクルトルの民、彼らが聖域と呼び、大切にしていた場所だという。今は石柱のみが残されているその廃墟は、ディアナの希望だった。

 ディアナは大きく深呼吸をし、くん、と鼻をひくつかせた。鼻先に微かに湿った匂いを感じ、ディアナは今度こそ満足げに笑みを浮かべる。

 時が来たのだ。

 武者震いをして、ディアナは再び寝台に潜り込む。

(覚悟を決めなきゃ……)

 決行は、明日の夜。忙しくなるぞ、とディアナはわくわくと胸を弾ませた。

そうと決まればさっさと寝るに限る。今はとにかく、十分に体を休ませておく必要があった。


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