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「ディアナ。食事の時間ですよ」
扉の開く音が聞こえて、ディアナはひょこりと寝台の上に体を起こした。
あれからしっかりと眠ってしまったようである。ディアナは大きくあくびをして、目をこする。
がちゃり、と錠前が外れる音がする。入ってきたのは一人の青年だった。肩にかかる程度に長く伸びた白金の髪を一つにまとめ、柔和な顔をしたこの青年は、ユリウスという。村にひとつだけある教会に派遣されている修道士だった。手に大きな籠を持ち、仄かな笑みを浮かべながらディアナを見やる。
「ディアナ。仮にも女の子が、そんな大口開けてあくびをするもんじゃありませんよ」
「いいじゃない、どうせ誰も見ていないんだから」
「いいえ、神は見ていらっしゃいます。さあ、寝台から降りて顔をお拭きなさい」
ディアナはのそりと寝台から足を降ろした。
その拍子に伸びっぱなしになっていた前髪がだらりと下がり、ディアナの白く細い顔を覆ってしまう。それをざっとかき上げて、寝台の横、小さな机の上に置いてあった水差しを取った。
ユリウスから手渡された布に、水差しから水を垂らして湿らせる。そうしてまずは顔を拭い、首周りを拭い、手足を拭う。
その間に、ユリウスは手際よく寝台の前に清潔な布を敷いていた。籠に入れてあった木彫りの皿を並べ、パンを二切れ、チーズをひと切れ滑り込ませる。丸い椀には細切れにした野菜の煮込みをひとすくい。籠から取り出した瓶にはほんの少しのリンゴ酢。栓を抜き、もう一つの椀に入れようとしたところで、ディアナは声を上げた。
「ユリウス、待って」
ディアナはユリウスの手からリンゴ酢の瓶を取り上げる。
「いつも言ってるじゃない。私、リンゴ酢は夜に飲みたいの」
「そうでしたね」
諦めたように、ユリウスは笑う。
ディアナは満足そうに笑うとリンゴ酢の栓を塞ぎ直し、寝台の下へと押し込んだ。
そのままユリウスと布を挟み向かい合い、ごにょごにょと祈りの言葉を呟き終わると、さっそくと言わんばかりにパンに手を伸ばす。
固い黒パンは、口の中に入れるともそもそとし、水分を奪っていく。野菜煮込みで口の中を湿らせながら、ディアナは殊更ゆっくりと食事をした。
ユリウスはその様子を満足そうに眺めている。やがて自らも目の前のパンに手を伸ばし、手の中で細かくちぎった。
本来であれば、修道士であるユリウスはディアナと食事を共にする必要はない。彼女が死なぬよう、困ることがないように生活の支援を行うことが彼の責務である。そのどこにも共に食事をする、という項目はないはずだ。
しかし、ユリウスはディアナと食事をする時間を常に持つようにしているようだった。そのことがディアナには不思議に感じられたものだ。ユリウスの前に同じ業務に当たっていたであろう修道士は、食事の籠を手渡すだけであとは放任だったのである。
その方が都合の良いこともあったが、ディアナはユリウスのやり方は好ましいと思っていた。誰かと話しながら食事をする時間は楽しいものだ。そう思えるようになったのはユリウスのおかげである。
しかし、今日のユリウスはいつもの朗らかな様子はない。やけに神妙な様子でディアナの様子を眺めている。
その理由はすぐに分かることになる。
ユリウスはちぎったパンを煮込みに浸しながら、ディアナにぽつりと言葉を落としたのである。
「……あなたとこうして差し向かいで食事をするのも、あと僅かですね」
その言葉に、ディアナは口の中のパンをもごもごと咀嚼し、ごくりと呑み込んだ。
「そうね」
軽く相槌を打ってやると、ユリウスは悲しげに眉を潜めた。
「やはり、ご存じだったのですね」
「あれだけうるさく騒いでいれば、そりゃあね」
シュナグラント国ヒューゲル領、領主マルクルからの勅令が、村の入り口の立て看板に打ち付けられたのは一週間ほど前のことである。
「最近はずっと日照り続きで、雨が少なかったでしょう。煮込みの野菜も、干し野菜に切り替わっていたし。食べ物があまり取れなくなってきているのね、と思っていたの」
ディアナは口元に笑みを浮かべながら、パンをちぎった。その拍子に長い前髪がさらりと割れ、前髪で隠していた瞳が露呈する。その瞳を自ら指さして、ディアナは首をことんと傾けた。
「みんなこの目が悪いのよ。お呼びがかかるのも仕方ないでしょう」
白い顔に形よく納まっている双眸は、朝の光を受けてきらきらと輝いていた。
ディアナの瞳の色は、と聞かれて、正確に答えることは難しい。空の青かと思えば、新緑の緑でもある。大地の褐色が混じることもあり、夕陽の橙に見えることもある。見る角度や時間、距離に応じて色や輝きを変えるディアナの瞳は、シュナグラントの地では魔眼と呼ばれていた。
魔眼の持ち主は、生まれながらにして魔に魅入られた者の烙印を押される。その目の力は成長と共に強くなり、災害や不作を呼び起こすといわれていた。そのため、大人になりきる前に処刑されることが慣例となっている。
ディアナはもう十七になる。十五を超えたときから覚悟は決めていた。むしろ今までよくぞ処刑を免れていたものだ。
「この土地の不作も、天候も、私の目のせいなのだから。仕方がないことだと思ってる」
淡々と話すディアナに何を思ったのだろうか、ユリウスは自らの皿のチーズをディアナの皿に滑り込ませた。
「くれるの? ありがとう!」
ユリウスの気遣いがくすぐったくて、ディアナは笑う。
「そんな顔しないでよユリウス。あなたの神さまに失礼になっちゃう」
「ええ。そうですね。……まだ修行が足りないようです」
そうして出された食事の半分を食べ切ると、ディアナは口を漱いだ。残りは昼食用に取っておく。一切れのパンとチーズを籠に戻し、寝台の下に押し込むと、ディアナは塩を舐めて身を清めた。
「ではディアナ。今日は昨日の続きを。いかにしてこのシュナグラントの地が成り立ち、魔の使いであるクルトルから森を守り抜いたかをお聞かせいたしましょう」
朝の食事のあとは、神の言葉を学ぶ時間である。魔眼の主の心が魔に傾くことがないように、清らかに過ごさせるのも修道士の大切な仕事のひとつだということだそうだ。
神の書と呼ばれる教本を手に、滔々と語り出したユリウスの言葉を右から左に聞き流し、ディアナは格子窓の外にきらりと光る真珠色の柱を見つめている。
「ディアナ?」
「……ユリウス、ザンクトゥアリウムはなぜ滅ぼされたのかしら」
自分たちシュナグラントの民を脅かしていたクルトル人が、かつて聖域と崇めた場所、ザンクトゥアリウム。
今はもう廃墟となり柱を残すのみだといわれているが、ディアナにはどうしても分からなかった。
「あんなに綺麗な色の柱を立てるんだもの。神話ではぼろぼろに言われているけど、私、クルトル人はいい人たちだったんじゃないかって思うの。――彼らがシュナグラントの地を治めていたら、どんな世界になっていたのかな」
「ディアナ!」
ユリウスは悲鳴を上げる。
「そのようなことを口にしてはいけません!」
「なぜ?」
ディアナは挑戦的に瞳を光らせた。
「私は魔眼の持ち主で、魔眼は魔に魅入られているんでしょう。魔の使いと呼ばれたクルトル人を身近に感じることのなにが悪いの?」
「ディアナ……お願いですから」
「あなたの立場では私を咎めなきゃいけないのは分かってる。でも、死を前にしてかっこつけても始まらないもの。……知りたいの、クルトル人のこと、ザンクトゥアリウムが昔、どんな姿をしていて、どのように滅んだのかも」
深緑に沈むザンクトゥアリウムの石柱は、太陽に照らされて光り輝く。真珠色の柱は時には青く、時には緑に、時には褐色や橙に色を変え、変わらず優美な姿でそこに佇んでいる。その輝きに、ディアナは何度助けられたかしれなかった。
「ユリウス、私。ザンクトゥアリウムに行きたい」
その言葉に、ユリウスは今度こそ絶句したようである。
「処刑される前に、どうしても行きたいの」
ユリウスはため息を吐くと、神の書をぱたんと閉じた。
「……クルトル人の正体は魔の使いだったと言われています。彼らは初めて見る森でも難なく駆け、獣と話し、獣と暮らす。野蛮な民です。彼らは獣を従え、次々にシュナグラントの民を襲ったのですよ。シュナグラントの民は彼らの聖域、ザンクトゥアリウムを滅ぼすことで、彼らを追放することに成功したのです」
ディアナはユリウスの双眸を覗き込むようにする。ユリウスの瞳は薄い緑色だ。その色合いは単色で、光によって見え方が変わることもない。
「ユリウスは、それを信じているのね」
「事実ですから」
ユリウスはディアナと同様に、窓の外を見やる。薄緑の瞳に微かな熱を湛え、ユリウスは言葉を口に乗せた。
「ザンクトゥアリウムは彼らの聖地。クルトル人は追放されたとはいえ、滅んだわけではありません。魔の使い、クルトルの王はいずれあの地、ザンクトゥアリウムを取り戻しにやってくるでしょう」
ひたひたと迫る口調でそう告げると、ユリウスは本を片手に抱えて踵を返した。
「一度は許しましょう。しかし、もう二度とかの地に行きたいなど口に出してはいけませんよ」
「でも」
「ディアナ。魔眼の主の心が魔に傾いた、とわたしに報告させるおつもりですか」
厳しい口調である。
「マルクル様はそれでなくともクルトル人を忌避されていらっしゃいます。あなたの処刑を、処刑以上のものにさせたくないのです」
ユリウスはひたひたと迫るような口調で言葉を落とした。
「それでは、また明日。失礼します、ディアナ」
牢から出ていくユリウスの背中を見つめて、ディアナは眉を下げた。
「……またね、ユリウス」
きっと、もう会うことはないだろうけど。
心の中で別れを告げ、ディアナは唇を引き締めた。
(正攻法は駄目だった)
すう、と息を吸って窓の外を見やる。
できれば正攻法で行きたかった。ユリウスに許可を取れれば、穏便にザンクトゥアリウムに行くことができるのではと思っていたが、そう甘くはないようだ。
(なら、覚悟を決めるだけ)
良い天気である。燦燦と陽光が降り注ぎ、雲一つない青空が広がっている。ディアナは鼻をひくつかせ、空気の匂いを確かめた。
「感度良好」
にんまりと笑うと、ディアナは使っていない毛布をぐるぐると巻いた。
それを寝台の上に置き、上からさらに毛布をかける。扉からの角度を確かめ、人が寝台に潜っているように見えるよう調節する。
今から夜までは、巡回の男が見回る程度で誰もこの牢には入らない。巡回の目さえ誤魔化せれば、何とかなるはずだ。
それでも一応、扉にぴとりと耳をつけ、変化がないことを確かめると、ディアナは隣室の壁の前に立つ。この壁の向こうには、昨日囚われていた男がいるはずだ。
牢の壁は四角い石をひとつひとつ積み上げてできている。ディアナはその石のひとつにそっと触ると、えいや、と奥に押し込んだ。がこん、と音がして、石が隣室に落ちる。隣室から聞こえた驚愕の声に笑い声を上げそうになるのを抑え込み、ディアナは壁に空いた穴を覗き見た。
「こんにちは、異国の泥棒さん」
果たしてそこには、まるで真昼の亡霊にでもあったかのように目を丸くした、黒髪の男が腰を下ろしていた。
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