第2話 蛍の光

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 数日が経過して、「匠君」「涼花ちゃん」と呼ぶ間柄になった。

 ゆかりは電話番号を交換していたけど、自分は交換しなかった。というかその必要がない。代わりに二階の窓を開けて話をする。

「宿題終わった?」

「うん」

「明日の特別授業、何?」

「倫理の教科書あればいいんだよ」

 そんな連絡を簡単にする。


 ある日、プリントを無くしたのでコピーを頼むと「いいよ」と、彼は私服で家の外に出ていた。慌てて階段を降りて玄関を飛び出した。

「悪いよ。プリントだけ貸してちょうだい。私がコンビニでプリントしてくるから」

「だって暗いじゃん。気にしなくていいよ。ちょうど喉渇いたからジュース買おうと思ってたんだ」

「だったら、一緒にいこ。借りるくせに行かせるのは悪いもん」

 住宅街にある噴水広場は相変わらず美しい。そこを二人で歩いていく。まるで恋人同士みたい。恋人の関係ではないけど。

 コンビニでプリントをしていると、彼は立ったまま外でコーラを飲んでいた。横顔はマンションを見上げて眩しそうにしている。

 自動ドアが開く。

「ごめんね、ありがとう」

 プリントを返すと、彼はデニムで水滴のついた手を拭いて笑顔で受け取った。

 無言で帰る途中、「少し話さない」と匠は広場のベンチを指差していた。

「何を」

「小学生の頃の話とか。ダメ?」

「いいよ」

 時計台の針は八時を回ろうとしていた。

「匠君、学校慣れた?」

「だいぶね。みんないい人ばかりだから」

 なんだろう。夜空の遠くを見つめる横顔はどこか切ない。

「でも。おれさ、引っ越してきてるから、みんなの昔の話とかわかんないんだよね」彼の振る足はわずかに地面を削った。「なんかそこが寂しくてさ」

「そっか。だから小学校時代の話を聞きたいんだね」

 別に私の話を聞きたいわけじゃないんだ。他の子と同じただのクラスメイトなんだ。

 そこで友達の話や自分の話を話していた。盛り上がっていると、心配した親からメールが来た。

「あ、こんな時間だ」

「早く帰ろう」

 手を差し出されて自然と手を繋ぎ合せた。そのとき、お互いの動きが止まった。

 街路樹のグリーン。それがいつになく明るく見える。そういえばこんな時間にベンチにいたことなかったから。街路灯の明るさを受けて葉の緑色がこんな風に変わるのだ。あるいは、それだけじゃないのかもしれない。

 握られた手から伝わるときめき。この瞬間の胸の高鳴りがあらゆる景色をカラフルに色濃くさせているのかもしれない。帰路の途中、家の前で別れるまで二人は無言で何も話さなかった。


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 蛍の観察の日がやってきた。

 既に梅雨の時期に入っていて、最近は傘をさして歩きながらの登校が増えている。匠とは一緒に登校することはない。周りの視線が気になったり、交際していると勘違いされたくなかったから。それと、先日のプリントの件から、また彼に対しての意識が強くなったせいもある。少しだけ微妙な距離を置いていた。

 午前の授業を終えて帰宅する。冷蔵庫に冷やしてある麦茶をグラスに注ぎながらゆかりに電話をかけた。一緒に蛍の現地に行くつもりだったからだ。

「ごめん。私、少し用事あるから……」

「そうなんだ」

 断られちゃった。でも変なの。なんかぎこちない対応だった。いつものゆかりらしくない、歯切れの悪さというか。

 部屋の中の観葉植物に水をあげて、ふと窓の外を見ると道の向こうからゆかりが私服姿で向かってくる。あ、やっぱり一緒に行くつもりなんだ。窓を開け、顔を出して手を振ろうとした瞬間に、その動作をやめた。

(もしかして……)とっさに察したのだ。

 ゆかりは家の近くを通るとき、チラチラと視線を向けて、私の家を気にしている。そして、通り過ぎる。隣の家のインターフォンの前に止まった。鼓動が早くなる。次の瞬間、Tシャツ姿の匠が出迎えて、ゆかりと一緒に家の中に入った。何か見てはいけないものを見た気がした。いや、厳密に言えば見たくないものを見てしまったのだ。

 もはや数時間後の蛍のことなんかどうでも良くなっていた。カーテンの向こう側、すぐ近くにある部屋のことが気になって、気持ちが悪い。嫌な時間だった。長く感じる。一分が長い。一時間が長い。その間に二つの疑問について考えていた。

 一つ目はどうしてゆかりが匠の家に行くのか。もしかして二人は付き合っているのか。二つ目はなぜこんなに胸が苦しいのか。

 残念ながらそれを解決する術を今は有していなかった。


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 薄暗い闇の中、黄色い光が浮遊している。蛍はあちこちで黄緑の蛍光色を光らせており、生徒達は広範囲に広がっている。

 隣にいるゆかりに「綺麗だね」と声をかける。できる限り明るく振舞っていた。さっきまで二人が会っていたのを知っていると悟られないように。ゆかりは自分に匠と会うことを隠していた。多分だけど、秘密にしたいと思った彼女の気持ちを尊重しないといけない。そんな自分がピエロに思えてしまう。無駄な才能なのか、自分の演技にゆかりは気がついていないようだ。そんな無垢な観客が少しだけ嫌になる。

「あっちにもいこ」

 移動した先にグループがいて、そこに匠がいた。その彼と目があった。純粋無垢な眼差しを向けられる。視線を外そうとしない彼に対して、なんだか無性に腹が立ってしまう。やりきれない気持ち。泣きそうになった。ゆかりはグループに近づいて気さくに話している。数週間前の自分なら、きっと同じようにできた。でも、今はできそうもない。

「私、向こうの蛍の分布エリアをチェックしてくるね」

 見事なまでの演技に全員が引っかかった。作り笑顔のまま集団から離れる。そして、見えないところから曲がって林の中に入った。奥深くに進むに連れて、長草の冷たい露が腕にくっつく。温かい雫も肌に触れる。涙は頬を伝いながら落ちている。

 歩いた先には、小さな岩場があった。そこに腰かけた。どこからか紛れ込んだのか、小さな蛍が目の前にやってきた。

「私と一緒だね」

 迷子になった一人ぼっちの蛍は近くを舞う。顔の前に手のひらを差し出すと、そこに柔らかく降りた。点滅する宝石のような光にしばらく目を奪われていた。

 やがて浮上する蛍を目で追うと、遠くからガサガサと音が鳴った。目を拭いその方を向く。草を分け入る音が近づいてくる。

「いてっ」という声が聞こえた。現れたのは匠だった。

 お互いが目を合わせた。当然ながら、相手は真っ赤にした目に気がついている。無言のまま彼は近づいた。

 匠は小さくつぶやく。

「どうしたの」

 首を振る。答えたくない。

 彼はそれ以上は聞かない。その場からは立ち去らず、隣にただ座る。二人で近くを舞う蛍をただ見つめている。

「ねえ、反物屋って知ってる?」

 不意に匠は口を開いた。首を横に振る。

「伝統の織物を売ってる老舗店で。京都とかにまだ結構あるんだけど」

 何の話をしているんだろう。

「ウチの母さんはその反物屋の娘なんだ」

 蛍は遠くへと消えていった。

 周りの木々や草花、植物達は眠っているかのように静かだ。まるで物語る少年に気遣い、静粛しているみたいに。

「母さんは店を継ぐつもりだったみたいだったけれど、おれのおじいちゃんにあたる人は勘当したんだって」言葉の語尾に哀しみを滲ませる。「反対を押し切って父さんと結婚したことが原因だったみたい。そんで、おれも生まれたからね」

 しばらく沈黙が続いた。虫の音が聞こえ、寂しさが二人を包む。不思議な感覚だった。お互いが気持ちを分け合うみたいな。彼の声に耳を傾けているだけで、いつの間にか自分の心の苦しみが溶けていくような気がした。

 匠は上空を見上げる。蒼い夜空に星が煌めいている。

「それから母さんはやっていた着物の仕事をやめて。息子のおれのために、あちこち働き口を見つけて」上に手を伸ばしている。指先まで伸びて星を掴もうとするみたいに。小さく彼は笑った。「可哀想だなって。なんか母さんの人生をおれが壊したみたいで、だから」匠は真っ直ぐな視線を雑木林に向けている。林のうんと先、地平線の彼方まで突き破るように。「おれ反物職人になろうと決めて。きっと、いつかそれが母さんのためになると信じてるから」

 真っ暗な空に無数の星が光っている。どこか遠く。宇宙旅行にでも行った気がした。その後に彼は初めて苦笑いしてつぶやいた。

「ごめん、勝手に一人で話して」

 キラキラとした星空の下、気さくに笑う横顔をただ見つめていた。

「それ、おかしくない」

 つい、口から出てしまった言葉。言わずにはいられなかった。

「どうして」

「だって、大人のために匠君が犠牲になってるみたい」

 匠のお母さんに対する想いはなんとなくわかる。でも、そんな大人の事情に巻き込まれる彼が可哀想だ。

 匠は優しげな目で首を振った。

「いいんだよ、別に。おれがやろうと思ってやってるんだから。他にやりたいことがあるわけじゃないし」

 あまり納得できないでいると、彼は小さく笑いかける。

「ありがと」

「どうしてお礼言うの」

「誰かにそんな風に親身になってもらったの初めてだから」

 顔が赤くなっていくのを感じる。彼はそんなことも気がつかずに続ける。

「確かにね。学校から家に帰っても、反物を染める練習ばかりしてさ。まあ、面白くないよ。好きじゃないからね」

 どうしてこんなに達観していられるんだろう。きっと、この人バカだ。バカなぐらいお人好しなんだ。

「でも、この前さ。初めてだったんだ、幸せだと感じたのは」

 匠はこちらを向いていた。視線がぶつかり合う。え。どういうこと。

「覚えてない? コンビニに行った、この前の夜だよ」

 そこまで言われた瞬間に、天地がひっくり返った気持ちになった。よく見れば彼の澄んだ目は少し赤くなっている。

 頭に浮かぶのは、二階に干されて、揺れる反物。あの切ない光景は彼の人生そのものだったのかもしれない。

 暗い闇の中、長い時間そのままでいた。

「おーい」

 探している声が聞こえる。いなくなったから心配になったのだろう。二人でゆっくりと立ち上がった。岩場から離れるときに匠の手を掴んだ。見つめ合う。

「私が泣いてた理由は……」虫の鳴くような小さな声だった。

 彼は首を横に振った。言いたくないなら言わないで、と伝えるように。

「匠君の家にゆかりが入るのを見たから」

 彼は動きを止めた。ゆかりと会っていたことを知られたことに対する驚きではない。目を開け閉じしている。おそらくはわかってしまったのだ。自分の想いを知られてしまった。

「ごめんね。何言ってんだろ、私」

 変なことを言うんじゃなかった。

「趣味を聞かれたんだ」

「えっ?」

「反物を織ることだって言ったら、彼女に見たいとせがまれて、それで……」

 彼は俯いている。私も俯いている。お互いが同時に胸のドキドキを感じている。

 やがて視線を上げた。彼をじっと見つめる。

 そうなのか。胸の中につっかえていたもの全てが取れた。誰にも嘘が言えない、断りきれないのも匠らしい。

「さ、いこ」

 笑顔で手を繋ぐ。彼は無言のまま、後を追っている。足音とドキドキが重なって訳がわからない。

 でも、心の中はこれ以上なく澄んでいた。


   7


 昨日までの自分がそこにはいない気がする。洗面所の鏡の前にいるのは誰だろう。そんな風に考えたことはこれまでなかったけれど、顔つきも変わった気がする。それが大人に近づいているということなのかな。

「今日は早いのね」

「うん」

 振り返って小さく笑うと、お母さんは微笑ましげに見送る。

 家を出て何気なく自転車を車庫から出して、ペダルをこぐ。オレンジ色の坂を下っていく。陽射しが向かい入れてくれる。先を急ぐ必要はきっとない。焦る必要はないんだ。けれど、気持ちは前に進む。

 教室に入り、ゆかりとお互いに明るい声でおはようと声をかけあう。机に鞄を置いても、匠は振り返らない。斜めから覗き見ると真剣に何かの本を読んでいる。

「匠君」

 声をかけると、小さく振り返る横顔。

「おはよう」そう言って椅子に座る。

 少し戸惑いがちに彼も「おはよう」と返す。教室の中には他のクラスメイト達もやってきて、賑わい出す。チャイムと同時に担任の竹本先生が教室のドアを開けてやってきた。学校の一日が今日も始まる。

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街が動き出す 18世紀の弟子 @guyery65gte7i

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